2018年4月号

2018年03月25日(日)

○月○日
〝イタリアの小さな村
ここで命が生まれ、恋が芽ばえ
始めも終わりも
大地に包まれている
よく笑い、よく食べ、よく遊ぶ
私たちが忘れてしまった
素敵な物語
人生のすべてがそこにある〟
BS日テレのドキュメンタリー番組の〝イタリアの小さな村〟冒頭のナレーションである。このナレーションと共に流れる歌も、美しいイタリアの風景と相まって、あっという間にテレビ画面に引き込まれる。
私は、日曜日の朝10時になると、BS日テレのこの番組を見ている。見ていて心地いいというか、心が洗われるというか、ナレーションの〝私たちが忘れてしまった素敵な物語〟というコトバが私に響き、腑に落ちるのである。
イタリアの半島には小さな村や町が各地に点在して、昔ながらの生活の歴史をつないでいる。それはどっしりと地に足をつけた〝スローライフ〟そのものである。番組では毎回村に暮らす一・二家族の日常が淡々と映し出される。その主人公が語るコトバや相貌からその人の物語が少しずつ現れてくる。
中でも、村の年寄の存在感がすこぶるいいのだ。年寄は村でも家でもハネにされていない風景が見てとれる。そして、その年寄が人生を語るとき、画面に自分の若い時の写真が映し出される。結婚した当時の夫婦は皆生き生きとして魅力的だ。そして、その貌は今の当主である息子や娘にそっくりなのである。時代は変わっても、変わらない村の風景と共に生きる村人の貌も変わらないのだなと感じる。そしてもう一つ、世代を超えて語られる変わらないコトバが〝故郷が好き、ここで暮すことが幸せ〟ということ―。

〝守るべきは「お金」より「山河」〟と書いているのは〝ローカリズム宣言(デコ)〟の著者内田樹。〝イタリアの小さな村〟のテーマと同じである。
この本の中で、〝人口3000人の村で27軒の飲食店が潰れないのはなぜか?〟という章がある。岐阜県中津川市加子母という自治体のことだ。飲食店一軒あたり100人少々の顧客しかいない計算になるが、そこを村の人々が考えた。27軒すべての店の経営が成り立つように、外食するときに行く店が「ばらける」ように工夫しているというのである。だから成り立っている。
加子母という地域は、木曽檜という守るべき資源があり、植林、製材と木造建築の技術が伝承されている。森と技術を村の次世代に伝えなければならない。その使命感が集団的に共有されていたから、地域共同体では相互扶助、支援のマインドが育っていた。だから、27軒の飲食店が潰れないという。
〝イタリアの小さな村〟に戻るが、各々の村には必ず一軒以上のバール(飲食店)が町の装置として設けられていて、集会所のような役割も果たしている。朝から夜まで、時間と共に村人が入れ変わり立ち寄っていく。そのバールも村人にとっては村の「山河」のように思っているのだろう。
呉にもこんな〝バール〟が欲しい。

2018年3月号

2018年02月26日(月)

○月○日
潜水艦に乗る機会に恵まれた。全長81・7m、幅8.9m、乗組員71名の潜水艦いそしおである。呉のFバースから見える灰が峰はまさに真正面、頂上には先日の雪が白く残っていた。
私が見学した潜水艦いそしおは「おやしお」型の5番目艦である。今回潜水艦内で見たかったのは、食堂と居住区、とくに寝床だ。思ったとおり、寝返りをうつのも大変そうである。私の義兄が自衛隊の潜水艦乗りだったので、少しは艦内生活のことを聞いていたから想像はしていたが、実際に入ってみると、やはり過酷な住空間である。海上自衛隊員の中で潜水艦乗りの適性が一番むずかしいといわれる任務がここにある。
私はちょうどいま、「幻の潜水空母」といわれる伊400型潜水艦のことを調べている。
昭和19年12月末に呉海軍工廠で竣工されたのが潜水艦伊400。艦の全長122m、最大幅12m、深さ10m、燃料満載時の排水量は5523㌧で乗組員177名という空前絶後の巨艦である。そして何よりこの潜水艦には攻撃機3機を搭載していた。航空魚雷、または800㎏爆弾1個を搭載する特殊攻撃機「晴嵐」だ。これが「幻の潜水空母」といわれた伊400型で、同時に佐世保で造られたのが伊401である。
この2艦の潜水空母作戦は、帝国海軍最後の作戦といわれるパナマ運河爆撃計画だった。こんな途方もない計画が敗戦の年、昭和20年に行われようとしていたことは、殆ど知られていない。その理由としては、伊400型潜水艦は就役から降伏までわずか8ヶ月しか任務についていないこと。そして全く戦闘に参加することができなかったからである。そして敗戦、伊400型潜水艦はハワイで調査の後、電撃処分された。
しかし、これらの潜水空母の歴史を後世に伝える努力は続けられていた。そんな中、敗戦後60年、ハワイオアフ島の沖合の冥界から伊400・401潜の沈没映像が伝わってきたのである。
それに続いて、2015年、アメリカのジャーナリストによって「伊400型潜水艦最後の航跡」上下巻が発行され、〝幻〟の潜水空母の真実がまたまた話題になっているのだ。呉で造られた戦艦大和の後に、このような潜水空母が続けて造られたことに驚くのである。これらのレポートは次号に掲載予定している。

○月○日
海上自衛隊呉地方総監の池太郎さんにお会いした。池総監は江田島の術科学校の校長も務めた。池総監は海上自衛隊と呉の地域の住民の間を少しでも身近にするために、様々な取組みをされている。昨年夏の呉基地でのサマーフェスタでは呉JCと共催で呉地域の高校生を巻き込んだ祭を企画したり、地域の小学校の遠足に呉基地を開放している。また、〝海自カレー〟企画も引き続き積極的な協力が続いている。
今回私が伺ったのは、本誌への協力のお願いである。〝お隣の自衛隊さん〟という企画で、呉市在住の自衛隊さんにインタビューに応じて貰うお願いだ。
心よく引き受けていただいたのだが、それにしても海上自衛隊基地の空気は、町のそれとは違うことに改めて気づくのである。背筋がシャンと伸びる感覚というか、隊員の礼の姿や、言葉使いに新鮮さを感じるのだ。普通に自衛隊員と接することは、呉市民だとよくあることだが、町で会う自衛隊さんと自衛隊基地で会う自衛隊さんの雰囲気が断然が違うということが新鮮なのである。
呉市民は海上自衛隊基地にもう少し近づくべきだと思ったのである。お隣の自衛隊さんの基地は空気が違います。

2018年2月号

2018年01月25日(木)

○月○日
興味深いニュースが流れた。
呉市音戸町にある広島県水産海洋センターで、養殖の殻付きカキを夏でも生食用で出荷できるレベルまで浄化する実用的な方法を確立したという報道だ。その方法は、清浄な海水を入れた水槽で数日間寝かせ、カキの細菌や大腸菌を吐かせ、紫外線ランプで殺菌するというものだ。
私は何年か前に、同じような浄化システムを使って生食カキを出荷する業者を取材したことがある。倉橋町にあるこの業者の本部は東京で、世界中のカキを輸入して、倉橋のその工場に集め、独自の浄化システムを通して生食カキを再出荷していた。
カキの本場広島ながら、生食カキを提供する店がどんどん少なくなっていった頃である。生食カキの食中毒を恐れたためだ。しかし、一方で生食カキを売りものにするオイスターバーが全国で人気を呼んでいたのである。
紫外線ランプで殺菌する浄化システムは、当時は公表出来ない安全基準に関わる問題があったのだろう。
私はそのとき思ったものだ。この浄化システムを使って、呉の生カキを売りにして観光に結びつけたらと。カキ生産日本一の呉だからこそ、安全で新鮮な生カキが食べられる、そして多彩なカキ料理と呉の地酒と合わせて提供できたらと。
今号で、約70年前に広島・呉の料理人が出版した「突出優秀料理集」の中のカキ料理を再現している。その料理を呉の「花月」の沖松さんに頼んだ。10種あった料理から五つを作って貰った。どの料理も手間を惜しまない作り方で、日本料理の本分をついている料理である。
カキ尽し料理といえば、〝広島かき船〟が有名だった。戦前までは、11月になると広島からかき船が全国に向けて出帆した。北は仙台、東は東京、大阪へ。西は博多、長崎。また朝鮮のソウルまで行っていたというから驚きだ。
かき船の多くは矢野から出帆した。その中に大阪の有名料理店〝吉兆〟を作った湯木貞一さんがいた。桜が咲く頃になると、かきの季節が終わるので、かき船はみな広島に帰っていくのだが、湯木さんはそのまま神戸に止まり、仕出し屋を始め、成功していった。かき船から日本を代表する料理人になったのである。本誌でも湯木さんの「吉兆味ばなし」の料理を何回か掲載させて貰っている。語り口の料理話から湯木さんの人柄が透けてみえる。私にとって最高の料理本なのだ。
私のかき体験は、母が作ったかき御飯が最初である。大きなかきがボコボコ入っている炊き込み御飯だ。そして東京で食べたカキフライ、これはおいしかった。小さいカキが2・3粒入ったカキフライ、油もラードで揚げてあり、これぞ洋食と思わせる料理だ。これらのカキはみな殻付きカキを使っていて、さすがに鮮度もよかった。また、四国松山で食べたカキのオデンも忘れられない。宇和島のカキで、小振りの四角い形で、オデン出汁に浸けてさっと上げて、一口で食べる。これもうまかった。何個でもいけた。もう一つ、大阪のオイスターバーで食べたカキフライのトルティーヤ巻き。サラダ巻きのカキフライ、これも呉で流行させたいと思ったものである。
そういえば岩かきを忘れていた。初夏に食べる大きな天然岩かきとは違い、小さなかきで、養殖かき筏から落ちたかきが、岩に付いて自然かきに変身したかきだ。これも本当にうまい。手間をかけて洗い、生で食べる。これも生産地にいるからこそ食べられるのである。

2018年1月号

2017年12月25日(月)

○月○日
毎年、11月になると出回る広甘藍が楽しみである。最近は農協だけではなく、スーパーの地物野菜コーナーでも販売されている。
その広甘藍が主役の料理を連日作り、舌鼓をうっている。ちなみにその料理を記してみる。酢づけ、肉炒め、ギョウザ、パスタ、お好み焼き、みそ汁、鍋である。鍋はクリームシチュー風にしたら、キャベツの甘みがより増してほんとうまいんだなぁ。
○月○日
年末になると、町でなじみの店が閉店するという寂しい情報が編集室に入ってくる。ギョウザの福万、広の東陽軒が閉店した。そして年末で閉店するのが、中華の山口山、スタンド・スーだ。スタンド・スーは年が明けた2月頃に別の場所で小さな居酒屋をすると聞いた。
40年前に、毎日新聞呉支局が出版した「呉うまいもん」という本の中に前述の東陽軒、福万、山口山が掲載されている。
本誌でも、この「呉のうまいもん」にならって「新呉うまいもん」と題して連載を続けたこともある。呉のうまいもんの店の新陳代謝が、町として図れればいいのだが、どうもうまくいっていない。需要と供給のバランスが崩れている。新店をオープンする供給側の戦略をもっと練って勝負して欲しいものだ。
○月○日
「浮世過」、「うきすぎ」という通称がある。
明治初期、阿賀には412軒の町場があり、「百姓」が73軒、漁師が119軒、職人が5軒、「浮過」が212軒という記述が残っている。「百姓商買」とされた人は、おそらく土地を持ち、商いに従事した者。「浮過」は小作となる者もいたが、多くは「小商い、日雇い、船頭、加子などに雇われ」る者だった。
今回の特集「呉の世間の歴史をデザインした人々」の中の「呉のアウトローのデザイン」のところで「阿賀者」のことが出てくる。「仁義なき戦い」の始まりはまさに阿賀者同士の争いだった。「阿賀者」の活躍!?は、全国に鳴り響くのだが、どうしてこれほどまでのアウトローが多く出現したのか、以前から判然としなかったのである。呉に海軍が来る前までは、港町として阿賀の方が規模が大きく、人の出入りも多かったというのだが—。
そこで今回の特集を組むとき、もう一度市史を読み返していると、前述の「浮過」の記述を見つけた。当時の阿賀町の412軒うち半分以上の212軒が「浮過」というのだ。「浮過」という身分は、あいまいなところが多いのだが、無職渡世人というか、遊び人というか、何でも助っと業という日雇いか、その日暮らしの人が多かった。そういう渡世を生きる人の中から「阿賀者」という元気なアウトローが出現したと思ったのだが、どうだろう!?
世間というのは、陰と陽で成り立っている。陽といえるオモテの歴史をなぞるだけでは、本当の歴史に追いつかない。ウラの歴史もオモテに出す「世間の歴史」が必要なのである。
今回の特集の編集は、〝世界〟ではなく〝世間〟がコンセプト。
それにしても、呉の世間という歴史は本当におもしろい。

2017年12月号

2017年11月20日(月)

○月○日
〝戦後〟という言葉遣いをして、70年以上のときがたつ。戦争という歴史の伝えかたは本当にむずかしい。
学校での歴史教育は、古い時代から進めるので、昭和の時代の頃になると、時間配分が押してきて、戦争の歴史というか、敗戦の歴史ははしょってしまう傾向にある。そのせいだけではないが、中国に〝満州〟と呼ばれた地があった、という歴史がどんどん忘れさられていっている。
一冊の本が出版された。「満州の土建王・榊谷仙次郎」という本だ。土建国家「満州国」の深層、満州国を造った一代記、国土建設の視点から見た満州史、と表紙に書かれてある。
下蒲刈町三之瀬に歴史のある豪荘な建物が残っている。この建物こそ、今回本誌で取り上げた榊谷仙次郎が戦前に造った別荘だ。実をいうと、私はこの建物に上げて貰ったことがある。元下蒲刈町の町長だった竹内さんの住居だったからだ。海べりの邸内からは蒲刈大橋や 対岸の向地区、そして本土方面には遠く野呂山の山容が見える素晴らしい立地だ。邸内や外観は日本風というより、どこか異国の雰囲気だ。聞くと、建てた人は満州で立身出世をした下蒲刈島の出身者ということだった。
一冊の本が、今も残る榊谷仙次郎別荘、観瀾閣を通して想像力をかき立てるのである。
〝満州と呉〟のつながりは、歴史に数多く刻まれている。たとえば満州千福工場の隆盛だったり、土建の松本組の進出などである。また、満州での活躍が書かれた本も出版されている。浜崎真二の「48歳の青春・球界彦左自伝」と呉工業試験場の初代所長、日下和司の一代記「炎は消えず」だ。日下和司は元満鉄撫順製鉄工場長で、浜崎真二は満鉄野球部のエースだった。
榊谷仙次郎と浜崎真二、そして日下和司の共通項は〝満鉄〟。そして三人が満州で出会った重要な人物が、外務大臣、満鉄総裁を歴任した〝松岡洋右〟だ。松岡洋右のような日本のトップの人と渡り合った三人の本が、私の机の上に3冊並んでいる。今回の特集は、誌面の都合で「炎は消えず」は掲載出来なかったが、また誌面にしたいと思っている。
先日も飲み友達の一人、ジャパンマリンユナイテッドの関係者から、レアメタルの研究者として有名だった日下和司の話題が出た。それほど技術者として今も語り継がれていることが分かったのだ。
そして、〝満州〟は遠い歴史ではなく、「この世界の片隅に」の物語にもつながっていることも知った—。
○月○日
11月12日の呉市長選挙で新原芳明さんが初当選した。当日の有権者数は19万3116人。投票率は52・4%。前回を10・29ポイント上回った。
今回の選挙は立候補者が戦後最多の4人、現職の小村さん、元衆議院議員の三谷さんと新人二人の戦いだった。
私は小村さんや三谷さんのことは、何回かお話しさせて貰ったりしていたので、お二人のことは存じている。また、新原さんには呉市長に立候補するときお話しさせて頂いた。
ひと月程前、中小企業家同友会が開催した立候補予定者の政策を聞く会で、4人の話を聞いた。そのとき思ったことだが、4人が舞台の上に並んで話をする姿や声、そしてコトバは、その人のすべてが透けてみえるような気がしたものだ。
私は、新原さんが当選してよかったと思った。呉市民はよく見ていたのである。旧態依然とした政治のシステムを少しでも変えたかった。そして、地元の有力者たちへの利益優先政治を許したくなかったのである。
呉市は新原新市長の誕生で、日本のどこにでもある地方都市から、独自の自治体になる希望が残った、とそう思いたい。
新原さんには是非、1期4年、その期間の年間カレンダーを4枚市長室に掲げて貰いたい。
期待しています。

2017年11月号

2017年10月24日(火)

○月○日
今月号に掲載したニュージーランドで見つかった古い写真。それを見たとき、すぐに「戦争花嫁」としてニュージーランドにわたった呉の人を思い出した。太平洋戦争、沖縄戦で不朽の電文を残して有名な大田中将、その遺児である4女アキコさんのことだ。
早速、大田中将一家のことが書かれている本に掲載されている写真を確認した。庭に立つ和装の男性は大田中将ではないようだ。もう一枚に写る幼児は、3男の畯さんに似ている!?
アキコさんは、現在もニュージーランドのウェリントン在住と聞いている。アンティークの日本の裁縫箱が購入されたのはクライストチャーチだという。古い裁縫箱に残された白黒写真は撮られてからすでに70年以上経っているのである。
ニュージーランドの女性が〝写真を返すため、ご家族捜しを手伝って下さい〟とツイッターに投稿して、話題になり、そのリツイートは4万件を超えている。
70年の時を超えて、現れた写真の主を捜し当てること自体が物語になりそうだ。

○月○日
呉市美術館の「無言館・遺された絵画展」に行く。長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館「無言館」開館20周年記念の巡回展だ。ずうっと見に行きたかった美術館だったが、その巡回展が呉に来たのである。
戦争で志半ばで亡くなった画学生は召集が決まると、一晩のうちに自画像を描き上げ、「写真ではなく、これを遺影に」と言い残した。
やはり自画像の絵はインパクトがあった。描いた本人の目についつい引き込まれるのである。また、各々の絵の横にその人の写真と短い人生のプロフィールが書かれている。最後にどこで、どういう死に方をしたのか記されている。
無言館の建設は、早世した画家の絵を収めた「信濃デッサン館」を創った作家の窪島誠一郎さんが、画家の野見山暁治さんと出会ったことがきっかけといわれる。「戦死した仲間の絵を残したい」という野見山さんと二人で絵の収集を始めた。そして、開館して20年、所蔵品は増え、現在は約130人の絵700点が集まっているという。
「彼らの描く絵はことごとく静寂につつまれている。この静寂を無言と解釈することは簡単です。しかし、無言ということからいえば、無言のままでたちすくむしかないのは、今を生きる我々のほうではないでしょうか」と、窪島さんは言われている。
のほほんと生きている私自身をこれらの無言館の絵が見据えている気がしたのである。
○月○日
呉市長選の立候補者の討論会を本誌に掲載する準備をしていた矢先、まさかの衆議院解散が起きた。野党のしくじりや小池新党の準備不足に乗じての安倍首相の解散劇だ。
急遽決まった衆院選の影響で、呉市長選の立候補予定者は活動の見直しを迫られている!?公選法により、衆院選と広島県知事選(10月26日告示)の期間中、呉市長選の立候補予定者の各陣営は、街頭演説などの政治活動が制限されることになり、この追い込み時期に!?と困惑しているという。
しかし、中でも自民党推薦を受けた現職市長は事情が異なる。衆院選広島5区に立候補する自民党前職の応援演説には立つことができるのだ。市長選に触れなければ、現職としてのこれまでの取り組みや町の現状のことを話すことができる。市長選に触れなければ、というが11月12日選挙のことは衆知されているのだから、これで現職市長は〝棚からボタ餅〟有利この上ない。
今号に掲載した10月4日の市長選立候補者討論会は、思った以上に興味深く候補者の言葉を聞いた。
いいことばかりの〝これをやります。あれもやります〟という公約は何か聞く者の心に届かない。それより何より、これからの右肩下がりの社会状況の中で、私たちがどれほどの自治負担をおうのか、そのへんのことを選挙戦でキレイごとでない言葉を聞きたいと思ったのだ。

2017年10月号

2017年09月25日(月)

○月○日
11月にある呉市長選に立候補を表明している4人の〝政策を聞く会〟が、10月4日㈬呉市文化ホールである。主催は広島県中小企業家同友会呉支部だ。
町に立候補者のポスターがあちこちに貼られ、各候補者の動向が耳に入るようになり、市長選本番を思わせる空気である。
全国でも有数の高齢化都市であり、右肩下がりの経済の町をどのように引っ張っていくのか、候補者の言葉を聞いてみたい。
各候補者は共通して、呉駅前のそごう跡地の再生と安芸灘大橋の無料化を重点施策にしている。しかし、この2つは4年前の選挙の時と全く同じ案件である。選挙のたびに〝おいしいことばかりの公約〟をあたかもすぐにやります、と繰り返す政治家は信用出来ないのは、誰しもが思っていることである。
2つの案件は解決させないといけない町の最重要のことだが、町のトップにはもっと人格というか、哲学というか、〝私は呉をこういう町にしたい〟という確固たる言葉を聞きたいのである。いいことばかりのメッセージは御免をこうむりたい。
すでに、企業や団体は支援する候補者を決めつつあるというが、身近な市長選挙だけに、社員やメンバーにトップダウンすれば票は取れるという旧来の力関係は成り立たなくなっているのが実情である。
また、〝誰が市長になっても同じよ〟という人は、すでに有権者ではないということだ。お国や地方自治体に文句を言う権利を手放しているのだから。選挙に行かない人は、お上のいうとおりにするしかない。
自分の暮らす町のトップになる人の実際の言葉を聞きたい。その一助になる〝呉市長選立候補予定者に政策を聞く会〟を主催する同友会呉市部という経営者の会にも注目である。
○月○日
広島カープが強い。リーグ2連覇確実の戦いが続いている。赤いユニフォームで町を歩く姿があちこちで見かけられる。いま広島は、マスコミも町も〝カープ、カープ〟で大盛り上がりだ。どこまで盛り上がろうとするのか、いささか心配である(笑)。
中国新聞の主催で11月に〝カープ検定〟をするそうだ。今号でも「中国新聞カープ検定」公式テキストを紹介している。
そこで突然だが〝編集長の鍋〟版〝カープ裏検定〟を出題してみよう。この解答を言える人こそ、真の〝特級検定者〟と認定したい。

□金本知憲選手はFA権で阪神に行ってしまって、カープファンは凄くガッカリしたこと覚えてます?金本選手は実はカープに残りたかったのだが、〝ミスター赤ヘル〟は金本選手ではないとオーナーのひとことでカープを去った。その真相は!?
□新井貴浩選手はFA権を行使せずカープに残ると決めていたにもかかわらず、金本選手を追って阪神に行ったとされ、裏切り者とカープファンに叩かれました。その後カープに戻り、今の活躍につながる新井選手の、退団、再入団の真相は!?
□今から10年前のこと、ライブドア社長の堀江貴文氏、通称ホリエモンがニッポン放送やパリーグ球団を買収しようとして、一躍有名になった。その年の衆議院の解散で、広島6区から立候補した堀江氏。そのとき、同時に進行していたのがカープ球団の買収だった。選挙も球団買収もあと一歩のところまでいったのだが、その真相は!?
□ミスター赤ヘルこと山本浩二氏。その妻の行動、言動が様々なところで話題になり、悪評がのろしのように上がっていること、知ってる!?
□伝説の高校野球広島大会決勝、延長両試合を戦った瀬戸内高山岡、新庄高田口投手。2人ともプロ入りして、現在オリックスと巨人のローテーション投手として大活躍の2人だが、どうしてカープは地元出身の2人をドラフトで獲らなかったのか、いや、獲れなかったのか!?
□地元出身の日ハム中田翔選手。今年FA権取得して、どこに行くのだろう。獲得の噂があった金本阪神は獲らないという噂が!?しかしカープは中田選手にドラフトでもFAでも興味を示さないのは何故!?
表があれば、必ず裏の話が湧いくる世間は、それぐらい健全ということなのか!?

2017年9月号

2017年08月22日(火)

○月○日
毎年8月9日になると思い出すことがある。永六輔さんが呉の寺で話をしたときのことだ。それは、永さんが60代の頃のことで、2年か3年ごとに呉で話をする会を続けたことがある。一日に3ヶ所2時間ぐらいのトークショーをするのである。
その中で、特に印象に残っているのが、広長浜の専徳寺での会だ。猛暑の日だったが、高台の専徳寺本堂は風通しがよく、まさに気のいい高座だ。永さん独特の小気味のいい話の展開に、笑いながら引き込まれる集まった人たち。私もいつもながらの永さんの話術に感服しながら一観客になり切っていたとき、寺の外から市の広報のアナウンスが大きく聞こえてきたのである。長崎に原爆が投下された時間の広報だった。永さんは、それを聞いて〝皆さん一分間の黙祷をしましょう〟と話を中断したのだ。永さんは、広島原爆の日の黙祷は広島に近い呉では当りまえのように行われていることだが、長崎原爆の日の黙祷時間をも知らせる呉市の広報を誉められた。気をよくした永さん、話がどんどん盛り上がったのである。
このときの話は、岩波新書の〝親と子〟(永六輔著)にすべて掲載されている。今回読み返してみたのだが、永さんがとくに力を入れている戦争の話を若い世代に伝えること、これが本当にいい話なのだ。新書の言葉を追ううちに永さんの口調が蘇ってくるのである。
この夏、マスコミの〝8・6特集〟は何か低調だった。〝8月ジャーナリズム〟がマンネリ化した平和報道に陥り、年々弱くなってきているといわれている。
そんな中、旧呉鎮守府の地下壕が戦後初めて一般公開された。灼熱の陽ざしが照りつける中、海上自衛隊呉基地の海側、正面階段の横の地下壕入口にたくさんの人の列が出来た。
私は戦後残された地下壕のことは人より知っているつもりだ。小学生のとき、旧海軍病院の地下壕に入って、よく遊んでいた。当時の地下壕は、割れた薬瓶や注射器が散乱していて、この地下壕に入院患者を避難させていたことがうかがえたのだ。
私の地下壕体験のもう一つは、東京市ヶ谷の自衛隊本部に残っていた地下壕だ。地下壕の作戦本部、そして皇居までつながる地下通路。すごい歴史遺産を見せて頂いたことがある。取り壊す予定と聞いたが、今はどうなっているのだろう。
歴史の中で、忘れさられたまま日の目を見ない事実も多いが、今回の海上自衛隊呉基地の地下壕公開は〝8月ジャーナリズム〟では大きなニュースである。自衛隊広報も変わってきているのである。
ここでもう一度、永さんの言葉を伝えたい。

〝体験を語り継ぐということは、これはほんとにむずかしいことです。
でも、やりましょう。
それぞれお家のなかで語り継ぐ、先生が子どもに語り継ぐ。
そういうふうにみんなが、親から子に、教師から子どもへ、ご住職から在家へというふうに語り継いでいく。
それをやりましょう、ということですよ。
だれもぼくみたいにおしゃべりじゃない(笑)。無口の方もいらっしゃいます。
でも、無口でいるとこの世の中よくなりません。
やっぱり、体験したことは語り継がれなければならない。
われわれは、記憶というものを上手に語り伝える技術も持たなければいけないんです。
みなさん、これは今日の宿題ですよ(笑)。
ハイ、宿題を出したところで、お話を終わります。〟

ところで、私から皆さんに伝えることがあります。8月4日、午前4時30分、呉駅前の呉阪急ホテル東側で東和交通タクシーとイノシシが衝突。タクシーはバンパー破損、イノシシは血を流しながら逃走しました。イノシシは遂に駅前まで進出してきた!
これは語り継ぐ話ではないのですがー。

2017年8月号

2017年07月24日(月)

○月○日
今月の特集〝観光・御手洗のデザイン〟を企画するとき、一番に頭に浮かんだのが田中小実昌さんの〝オチョロ船の港〟という小説だった。御存知と思うが、田中小実昌さんは呉三津田町育ちで2000年に亡くなった。ハードボイルドの翻訳家であり、直木賞作家でもあり、人気エッセイストでテレビなど出演も多かった。その小実昌さんに2度本誌に寄稿してもらった。その縁で、小実昌さんが帰郷されたときは、何度か御一緒させてもらった。
私は元々小実昌さんの短編小説のファンなので、地元を舞台にした小説の一つ〝オチョロ船の港〟は印象深く残っていた。この小説はフィクションだが、舞台になった港のモデルのような食堂は現存しているから、おもしろいと言ったらおもしろいようなー。
ところで、今号に引用した小実昌さんの文章の中に〝オチョロ船が出てくる映画〟のことが出てくる。私も小実昌さんと同様の記憶をたどると、〝大地の子守歌〟増村保造監督、原田美枝子主演の映画だと確信した。1976年に公開されて、その年の数々の映画賞を獲得した名作だ。私は早速DVDを取り寄せ、40年前のその作品を観た。
いや、おもしろかった。泣けてしまったのである。40年前に観たときは、何かやりきれないなあ、という物語で、主演の原田美枝子の始終何かを訴える強い声だけが耳に残った。
物語のあらすじはこうである。時は昭和初期。少女りん(原田美枝子)は四国の山奥でばばと二人で自給自足の暮らしをしていた。しかし、ばばが亡くなり一人ぼっちのりんは人買い佐吉の甘言に乗り瀬戸内海の御手洗の置屋で働くはめになる。そのときりんは13才。置屋で女郎になるのを拒みながら、オチョロ船の漕ぎ手になる。しかし、そうはいかないよ、という物語が展開する。
映画のシーンで、りんが絶望して地面に突っ伏して、ばばの声を聞こうとしたり、土を食べたりする。そんなシーンの後に、必ず四国巡礼をするりんの姿が映し出される。その巡礼シーンを繰り返し見ることで、観る者も救われる気がした。〝大地の子守歌〟という題の意味が見えてくるのである。
御手洗の歴史に遊女が果たしてきた役割はあらゆる意味で大きい。時代は変われど、御手洗全人口のうち、約四分の一が遊女だったといわれている。町の祭礼・行事には必ず彼女たちの参加があり、華やかさで盛り立てる遊女に町民は大事に接していたのである。
これからの御手洗の観光デザインは、歴史の編集こそが重要になってくる。たとえば、レコード盤のA面は、維新志士が集い、倒幕を画策する討議を重ねた御手洗。B面は、花魁、遊女が主役の港町。柔道ではないが、〝A面、B面、合わせて一本〟という歴史のデザインが観光の根っこなると思うのだ。

○月○日
カープが強い!
そして、カープの試合は、なんとおもしろいのだ!?カープファン、いや野球ファンが増えるはずだ。
ノリにノルカープ、マツダスタジアムでの巨人戦に、巨人ドラフト2位ルーキー畠世周投手がプロ初登板した。呉市川尻町出身で、本誌1月号に掲載した選手だ。試合は4回4失点でほろ苦デビューだったが、巨人高橋監督は〝楽しみなところはたくさんあった〟と今後に期待しているとコメント。
私も初めて畠投手を見たが、オーソドックスな本格派で、気の強さが表に出ればいいピッチャーになりそうと思ったのである。

2017年7月号

2017年06月23日(金)

○月○日
ある日、家の前の街路樹の枝がバッサリと切られていた。新緑の葉がこんもりといい形をつくり、家の前はこれからの季節、木陰の道になるなあ、と思っていた矢先である。大きな枝も根元から無残に切られ、以前の樹の形が思い出せない。切られた枝の幹が生白く妙に目立っている。
呉の町の樹は、どうしてこうもバッサリと伐られ続けるのだろう。公の場所の樹のことである。こんなに大ざっぱな伐採をしていいのだろうか、とそんな場に出合うたびにそう思う。
私も本誌にそのたびに書いて、反響も少しはあるのだが、何も変わらない。その変わらないことが、腹が立つというか、空しいのである。同じ町に暮らす住民として、お上の施策に対して少しは声を上げてはどうかと、いつも思う。みんな傍観者で居続けたいのだろうか―。
町の主だった伐採は、古くは堺川沿いの樹木。最近では新市庁舎建設時の中央公園の樹木。そして今も続く呉各所で起きている桜の木である。
ヨーロッパでは、町の街路樹はその町の知性を表すといわれている。町の景観デザインに街路樹の緑が重要な役割を果たしていると認識されている。私たちはそんな環境を大事にする町に暮らしたい。
ところで、呉の町にも街路樹の存在が際立つ景観があった時代がある。戦前の本通りや中通りには柳の並木が植えられていた。その当時、呉に来た藤田嗣治画伯が描いた絵ハガキ〝本通り夕景〟が今も残っている。描かれている呉の町に訪れてみたいな、という風景がそこにある。
また、呉には歴史的に見ても古い街路樹が見事に残っている道がある。市民広場(旧練兵場)、入船山附近、呉医療センター(旧国立呉病院)辺りの松並木である。かれこれ100年近い街路樹が呉に残っているのだ。よく残したというか、勝手に残ったというか、お上に聞いてみたいものだ。
この松並木の通りにある海上自衛隊集会所の建物を残そうとする企画案が出ていると聞いた。あれあれ、珍しいことである。何でも壊して新しい建物を作ることに熱心なこの町には、珍しい発想だ。この集会所は増岡組が100年前に建てたもの。当時、名建築物として賞賛された建物だ。それを生かそうとする企画とは珍しい!?
入船山一帯の景観を生かす企画であって欲しいのだ。この発想をもう少し前、名建築といわれていた旧市役所の建て替えの時に出して欲しかった。そうすれば、中央公園の林の伐採もなかったろう。
そういえば、そのとき中央公園の主だった樹木を移植して、新しい公園作りのときに戻すと、お上は言っていたが、どうなっているのだろう。嘘であって欲しくない、と思うのは私だけではない。また、そういえば、嘘であって欲しいことが、現市長の4選出馬宣言だ。市長は前市長の3選出馬に、多選は市政上よくない、として選挙に出馬した。そして落選。4年後に、また、多選阻止を掲げて当選したお人である。その多選云々という御本人が、多選である4選に出馬するとはどういうことか、いやはやである。3期で培った強いリーダーシップで市政をもう1期務めたいそうだ。
ますます先行き不透明な今の時代。皆が喜びそうなビジョンを示すことすら困難といっていい。町づくりは短時間で勝敗を決するスポーツとは違う。先が読めない中を、リーダーの判断で勇敢に突き進んでもらっては困るのである。
意見を出し合い、試行錯誤を重ねながら解決を目指すのは、市政に参加する全員の共同作業だ。リーダーに求められるのは、全員が歩調を合わせて自由に意見が出し合える状況を〝チーム〟の中につくり出す。そして出てきた意見を調整しながら方向性を定めることである。今は強がりのリーダーはいらない。
市長だけではなく、誰もが自分が暮らす町をいい町にしたいと思っている。じゃ、自分にとっていい町とはどんな町?と聞いてみたい。皆さん、言葉にしたことがありますか?