2017年7月号

2017年06月23日(金)

○月○日
ある日、家の前の街路樹の枝がバッサリと切られていた。新緑の葉がこんもりといい形をつくり、家の前はこれからの季節、木陰の道になるなあ、と思っていた矢先である。大きな枝も根元から無残に切られ、以前の樹の形が思い出せない。切られた枝の幹が生白く妙に目立っている。
呉の町の樹は、どうしてこうもバッサリと伐られ続けるのだろう。公の場所の樹のことである。こんなに大ざっぱな伐採をしていいのだろうか、とそんな場に出合うたびにそう思う。
私も本誌にそのたびに書いて、反響も少しはあるのだが、何も変わらない。その変わらないことが、腹が立つというか、空しいのである。同じ町に暮らす住民として、お上の施策に対して少しは声を上げてはどうかと、いつも思う。みんな傍観者で居続けたいのだろうか―。
町の主だった伐採は、古くは堺川沿いの樹木。最近では新市庁舎建設時の中央公園の樹木。そして今も続く呉各所で起きている桜の木である。
ヨーロッパでは、町の街路樹はその町の知性を表すといわれている。町の景観デザインに街路樹の緑が重要な役割を果たしていると認識されている。私たちはそんな環境を大事にする町に暮らしたい。
ところで、呉の町にも街路樹の存在が際立つ景観があった時代がある。戦前の本通りや中通りには柳の並木が植えられていた。その当時、呉に来た藤田嗣治画伯が描いた絵ハガキ〝本通り夕景〟が今も残っている。描かれている呉の町に訪れてみたいな、という風景がそこにある。
また、呉には歴史的に見ても古い街路樹が見事に残っている道がある。市民広場(旧練兵場)、入船山附近、呉医療センター(旧国立呉病院)辺りの松並木である。かれこれ100年近い街路樹が呉に残っているのだ。よく残したというか、勝手に残ったというか、お上に聞いてみたいものだ。
この松並木の通りにある海上自衛隊集会所の建物を残そうとする企画案が出ていると聞いた。あれあれ、珍しいことである。何でも壊して新しい建物を作ることに熱心なこの町には、珍しい発想だ。この集会所は増岡組が100年前に建てたもの。当時、名建築物として賞賛された建物だ。それを生かそうとする企画とは珍しい!?
入船山一帯の景観を生かす企画であって欲しいのだ。この発想をもう少し前、名建築といわれていた旧市役所の建て替えの時に出して欲しかった。そうすれば、中央公園の林の伐採もなかったろう。
そういえば、そのとき中央公園の主だった樹木を移植して、新しい公園作りのときに戻すと、お上は言っていたが、どうなっているのだろう。嘘であって欲しくない、と思うのは私だけではない。また、そういえば、嘘であって欲しいことが、現市長の4選出馬宣言だ。市長は前市長の3選出馬に、多選は市政上よくない、として選挙に出馬した。そして落選。4年後に、また、多選阻止を掲げて当選したお人である。その多選云々という御本人が、多選である4選に出馬するとはどういうことか、いやはやである。3期で培った強いリーダーシップで市政をもう1期務めたいそうだ。
ますます先行き不透明な今の時代。皆が喜びそうなビジョンを示すことすら困難といっていい。町づくりは短時間で勝敗を決するスポーツとは違う。先が読めない中を、リーダーの判断で勇敢に突き進んでもらっては困るのである。
意見を出し合い、試行錯誤を重ねながら解決を目指すのは、市政に参加する全員の共同作業だ。リーダーに求められるのは、全員が歩調を合わせて自由に意見が出し合える状況を〝チーム〟の中につくり出す。そして出てきた意見を調整しながら方向性を定めることである。今は強がりのリーダーはいらない。
市長だけではなく、誰もが自分が暮らす町をいい町にしたいと思っている。じゃ、自分にとっていい町とはどんな町?と聞いてみたい。皆さん、言葉にしたことがありますか?

2017年6月

2017年05月24日(水)

○月○日
映画「孤狼の血」の撮影が、連日呉の町のあちこちで行われている。物語の舞台である撮影現場には、必ずヤジ馬が群がる風景があった。
このひと月、呉は小さな祭りのようだった。撮影隊がまるで神輿のように、行く先々で祭りを作り出していた。町の人たちは、その現場の緊張感を共有したことで、祭りに参加した感じを持ったことだろう。
〝川原石の裏通りで、血だらけの松坂桃李を見たで〟
〝血だらけ?〟
〝ほうよ、ありゃあ、アクションシーンじゃったで〟

〝役所広司がヤクザのようなかっこうして、レンガ通り歩いとったが、あれは刑事の役じゃと聞いとったけど―〟
〝呉原東署の刑事、大上刑事の役よ〟
〝呉原?〟
〝呉のままだと、色々問題が出るかもしれんけ、呉原市というフィクションの地名になっとるんよ〟
〝役所広司、やっぱりかっこよかったで〟
〝ヤクザのような刑事じゃったろ〟

と、あいさつのように町で交わされる映画撮影の会話である。
今回の「孤狼の血」以前でも、呉が舞台になった映画やテレビドラマは数多くあった。最近では、映画「海猿」がヒットして、撮影地巡りが話題になったし、大ヒットアニメ映画の「この世界の片隅に」も、いまだに〝呉の聖地巡り〟のファンが絶えない。
また、テレビドラマで代表的なのが、呉出身の脚本家池端俊策さんの作品だ。NHKドラマの〝帽子〟〝幸福の条件〟〝約束の旅〟やフジテレビの連続ドラマ〝並木家の人々〟などである。
撮影地としての呉の特長は、海軍がつくった港を持ち、三方を山で囲まれたすり鉢状の町で、丘陵地の坂道は昭和の風景が数多く残っていることだ。
「孤狼の血」の時代設定は、昭和63年、今から約30年前の呉である。この映画のルーツのような「仁義なき戦い」はそのまた30年前の時代の物語である。
昭和の風景のままの地が、撮影場所になったのだが、その場の多さを教えてくれたのもこの映画の撮影隊だった。
中通りのお好み小路、黄ビル、アカプルコ付近、珍来軒、料亭近惣、〝呉原東署〟になった旧呉市水道局、広多賀谷の邸宅などだ。

1988年、昭和63年の本誌のバックナンバーを開いてみた。中でもおもしろかった記事が12月号だ。特集の〝酒のある風景〟に今回の映画の舞台にぴったりの酒場がたくさん出ている。
中曽根元首相が海軍時代に通ったという〝ラパン〟、文学座の杉村春子も訪れた〝どん底〟、長谷川一夫の舞台で新内を演じた窪田美津子さんの〝新内〟、そして名物マスターがいた〝海賊〟だ。これらの店はすでに閉店してしまったが、今も健在なのが、シロクマ、ナポレオン、アカプルコなどである。
それらのモノクロの店風景は、そのまま見事に〝昭和〟である。映画の役所広司がその風景に入るのを想像してみる。
呉は、また〝映画の撮影地〟という贈りものをもらっている。

2017年5月号

2017年04月24日(月)

○月○日
春の甲子園に出場した市立呉は、大会初戦に逆転勝ち。そして2回戦、今大会準優勝校至学館と接戦を演じ、1対0で負けはしたが、〝本当にようやった〟の声が地元呉で広がった。とくにエースの池田投手のピッチングには、正直驚かせられたのである。
昨年末、秋季中国五県大会で市立呉はなんと決勝まで勝ち抜き、準優勝を飾った。ということは、ほぼ春の甲子園出場が決まった!?と呉市民がざわついていたとき、私は市立呉の中村監督に話を伺いに行った。
そのときの会話で、とくに印象に残ったコトバがこれである。
〝投手には、とにかくコントロール、緩急つける投球術を身に付けさせる。このチームをもっと成長させて、甲子園に挑みます〟
いやはや、中村監督のコトバ通り、エースは確実に成長していたのである。選手の〝伸びしろ〟を引っぱり上げた監督、〝アッパレ!〟の声が方々で上がっている。
2007年に野球部創設、10年目の今年見事甲子園出場を果たした。呉地域の高校で甲子園出場は54年振りというおまけつきの快挙でもあった。自前の野球グランドもなく、年間予算も少ない市立呉の野球部が、強豪校ひしめく広島県で勝ち上がることなどまず無理、と言われてきた。
その常識をくつがえしたのが、中村監督である。かつて〝野球市〟といわれるほど、野球熱が高く、実力も備えていた呉市は、いつのまにか生ぬるい体質の弱い野球界に成り下がっていたのだ。その状況に〝カツッ!〟を入れてくれたのである。
リーダー中村信彦さんに感謝である。

○月○日
同じように感謝したい〝監督〟が映画「この世界の片隅に」の片渕須直さんだ。昨年11月の映画封切りから6ヶ月、いまだに呉ポポロでロングラン上映が続いている。呉ポポロ上映作品史上10本の指に入る大ヒットを記録しているそうだ。いや、呉だけでなく、全国で大ヒットしたこの作品の魅力は何だろう、その理由は?!という評論も数多く取り上げられている。ヒット作品イコール質の高い作品かといえば、そうでないことが多いのだ。
「この世界の片隅に」の封切りは当初60館余りの小規模公開だった。それが今や200万人動員という大ヒット。そして、キネマ旬報作品賞、日本アカデミー賞とこれも立て続けに20余の映画賞を受賞している。
その中の授賞式でのスピーチで、片渕監督は、〝あきらめなくてよかった〟と声を震わせたという。
こうの史代さんの漫画「この世界の片隅に」の映画化を企画してから公開まで約6年。クラウドファンディングでの支援で何とか公開までこぎつけたが、実は資金難の連続だった。当初の資金は監督の持ち出しだったので、貯金残高が4万5千円になってしまったこともあったという。
何としても制作を続けた6年間のプロセスに監督の資質が見てとれるのである。映像作家としてのリーダーの資質であり、〝あきらめない〟という人格の資質だ。
先日、呉ポポロで片渕監督の何回目かの上映挨拶があった。そのときの観客に何人かインタビューしたコトバを今号に掲載している。
驚いたことにインタビューした全員が既に何回か映画を見た人ばかりだった。その中に50回見たという人がいたのである!?その人は全国の封切館を廻り、50回目の区切りを〝聖地呉ポポロ〟で迎えたというからすごい。まさに「この世界の片隅に」全国50ヶ所巡礼の旅である。
これほどの映画を〝まだ見ていない〟という呉の人たち。〝聖地呉ポポロ〟で見るチャンスは後少しですよ。
〝ゴールデンウィーク明けまでは確実に上映してます〟と言われてます。

2017年4月号

2017年03月23日(木)

○月○日
「この世界の片隅に」の、呉の町の桜がどんどん姿を消している。
昭和20年、呉の町は戦時空襲で丸焼けになった。そして、戦後の町の復興は、町全体を「鎮守の森」に、という意を託して桜一本一本を「公」の地に植えていったのである。二河川、堺川、小学校、中学校、高校、そして各地の公園にである。
そして、戦後10年近くになると、やっと市民生活も落ち着き、一年に一度の花見詣でに、市民がこぞって繰り出すようになる。とくに呉の4月3日は〝花の節句〟と称し、会社も休業となり、市をあげてのハレの日だった。昭和30年代、花見に繰り出す市民は10万人を軽く越えていたというからすごい。
当時、桜名所一番の人出は灰が峰の麓、平原浄水場だった。桜の時期にだけ浄水場が開放されて、出店も並び、まるで桜祭り。立錐の余地がないほど浄水場は花見客で埋まった。桜並木の向こうには町の市街地、そして呉港が見渡せる絶好の地である。
その平原浄水場から桜の姿が消えた。残っているのは無残に伐られた桜の根っこだけである。本当に寂しい風景が広がっている。どうしてこんな無残なことになったのだろう。
地元の人たちは、どんどん伐られていく桜を見て、桜を伐らないで下さい、と何度も水道局に陳情に行ったそうである。
それに対して水道局は、地元の人から桜が大きくなり、自宅にかかる枝が邪魔だとクレームがきて、桜を伐採したという。また古木になった桜は台風などで倒木する恐れありとして、古木から順番に伐ることにしている、と答えたそうだ。
倒木の予算がついたので、毎年伐り続けていたら、浄水場の桜は数えるほどになってしまった。何百本あった桜が殆ど姿を消した、という笑い話のようなことが、「この世界の片隅に」に起きてしまった!?
戦前、呉から出ていく戦艦から見える灰が峰の桜、平原浄水場の桜を目に焼きつけて出撃したという兵士の言葉が多く残されている。戦死した兵士だけではなく、呉に住む者にとって平原浄水場の桜には、それぞれ人の歴史の中にハレの風景として刻み込まれている。
その〝公の桜〟をいとも簡単に行政は伐ってしまったものである。行政は、伐った桜は市や県や国の土地にあるのだから、問題はないというのか。
呉の町には、これと同様に〝木々の伐採事件〟が数多いのである。最近では呉市新庁舎建設で中央公園の緑の森をなくした。それ以前も堺川沿いの緑、各小学校の桜などあちこちで見られる。
桜は古木ほど見事な花を咲かすのである。古木には枝ぶりや大きな幹に風格が備わり、厳かな気が感じられる。古木の桜の満開の下、見上げて目に映る桜は別格の美しさである。
呉の町から古木桜が消えていく。
「この世界の片隅に」の〝すずさん〟は、あれから満開の桜を何度愛でたものだろう—。
「この世界の片隅」に咲く桜をいつまでも愛でたい。

2017年3月号

2017年02月21日(火)

○月○日
メバルの刺身がうまい。
行きつけの居酒屋で活魚のメバルがいると、頼んで刺身にしてもらっている。メバルは小さな魚だから、刺身にできる身は少量である。また、メバルは悪いことに背ビレなどに棘があるので、三枚におろすとなると技術がいるのだ。一尾のメバルから取れる刺身はせいぜい5、6枚である。その稀少な刺身は、適度にアブラが乗り、旨味があるからたまらない。
瀬戸内海でとれる小魚では、オコゼと共に双璧の旨い魚がメバルなのである。オコゼは高価だが、メバルはそれ程でもない。しかし、メバルは何といっても鮮度が命、とくに刺身は活魚でないと身がゆるくなり、うまくない。
そんな地魚が食べられる土地に住む私たちは、本当に幸せものなのである。
思い返すと、20〜30年前までの呉の各界隈には、必ず魚屋さんがあり、朝締めの地魚の刺身が食べられたものだ。しかし、今や魚屋さんも激減してしまい、細々と営業を続けている店が殆どである。
呉地域の地魚といえば、メバル、タイ、小イワシ、アジ、タコ、アナゴ、タチウオ、オコゼ、ハゲ、ナマコ、カキ、サヨリ、白魚―。
まさに、これらの魚は瀬戸内海からの一年間にわたる贈りものなのである。
この贈りものは、地元の私たちだけで享受するのではなく、呉を訪れるソトの人たちにも食べて頂くのが筋である。
海軍さんの料理やカレーライスもいいのだが、本当のおもてなしは、呉の地でなければ食べられない刺身を中心にした料理を提供することだ。鮮度が命の小魚の刺身、観光客にとってこれが一番の御馳走だと思うのだ。おもてなし側の感性がちょっとばかりずれている、としか私には思えないのだが、どうだろう。
小魚料理は、変にこねくり回さず、〝焼く〟〝煮る〟〝揚げる〟、そして〝刺身〟。素材のよさやうまさをオーソドックスに生かすのが一番である。
間違ってもマグロやハマチの刺身を観光客には出さないで欲しい。地魚の盛り合せで呉らしさを強調することが、食で人を呼び込む一番の答えだと思うのだ。
メバルの刺身が入った〝刺身定食〟。このぜいたくさが分かる観光客を増やしたい。
映画〝この世界の片隅に〟の大ブーム、そして〝市立呉の甲子園出場〟と、呉に贈りものの風が吹いているときこそ、色々と発想を変えた取組をしていきたい。

2017年2月号

2017年01月24日(火)

○月○日
今年の新成人6人にインタビューをして写真を撮った。
今年の呉地域の新成人は2311人。今年も各自治体ごとに成人式が開かれた。何年か前までは、成人の日に呉市文化ホール一ヶ所に集まり、20才の晴れ姿を撮るカメラマンもつめかける賑やかな風景が町の風物詩として定着していた。
しかし、主催する呉市も、度重なる新成人のもめ事に手を焼いて、ついに各自治体18ヶ所での分散開催に落ち着いた。
本誌も毎年2月号は〝新成人の貌〟として特集を組むのが定番になっている。今年の特集は、6人の新成人の〝今のコトバと貌〟をアップして載せてみた。
彼女たちの話を聞きながら、一番興味深かったのが〝両親のような穏やかな夫婦になりたい〟と言うコトバだ。6人中5人がそう言うのは、ちょいと驚いた。彼女たちは続けて〝親に恩返しをしたい〟と私の目をしっかりと見ながら言うのである。そして〝早く結婚して子どもを産みたい〟と。少子化対策で右往左往しているお上にとっては、〝アッパレな若者じゃ〟と誉められること受け合いである。
彼女達はまた、仕事や結婚をしても親の近く、呉や広島市圏に住み続けたいとも言う。
〝地元族〟というコトバがある。
コトバどおり、生まれ育った地元が大好きで、小・中学校の限られた友だちと、結婚した今も家族ぐるみで付き合っている人たち。
学校時代はヤンチャで鳴らした人が多いのだが、今は家族第一、そして仲間と過ごす時間が何より楽しいという人たち。
映画館がある大型ショッピングセンターが大好きで、都会に出掛ける用はほとんどない人たち。なのに、ブランド品好き。
そして、EXILEが好きで、パチンコ好き。どこの町でもある〝よさこい祭り〟は彼女等で持っている。
もっというと、地元の祭りを支えているのも彼等なのである。
〝地元族〟を〝マイルドヤンキー〟と呼ぶ人がいる。
〝ヤンキー〟というコトバは、今かつてないほどの広がりを見せている。
〝ヤンキー〟とは、本来はアメリカ人を指すyankeeが語源だ。周囲を威嚇する強そうな格好をして、仲間から一目おかれたい、という少年少女のことだったが、今〝ヤンキー〟とは単に不良や非行を示すコトバではなくなってきている。
とくに地方都市では、地元で家族や仲間を大切にして、堅い消費を続ける若者層、〝マイルドヤンキー〟は貴重だということを、やっとお上も気づいたようである。
〝地元愛〟〝母性〟〝ファンシー〟〝コミュニケーション力〟〝保守志向〟〝現実的〟これが〝ヤンキー〟センスだという。
〝マイルドヤンキー〟こと〝地元族〟が、今から地方都市のキーワードになりそうである。
ちなみに、呉の地元族の愛読書はくれえばんということになっている。それはどうしてかというと、今の若者たちは生まれたときから、身近にくれえばんを目にしていたからだ。〝卒業高校生〟と〝新成人〟の特集には掲載されたい、というコトバをたくさん聞いてきた。かれこれ30年近く2つの特集を続けてきたので、自分の若かりし頃の姿が掲載されている本誌を大事にしている人も多いとも聞く。
本や新聞は読まないが、くれえばんは見るよ、という地元族も多い。嬉しいことである。
その月、この月と地元の情報を編集して発行してきたタウン誌が、時と共に町の歴史になっていると思えば、ありがたいことである。

2017年1月号

2016年12月24日(土)

○月○日
NHKテレビの「日曜美術館」で谷川晃一さんの特集を見た。谷川さんには長い間本誌の表紙絵を描いて頂いた。故宮迫千鶴さんの夫であり、パートナーだった。
放送は、谷川さんのこれまでの画業や現在の伊豆高原での一人暮らしの生活が紹介されていた。また、ちょうど今神奈川県立近代美術館での谷川さんと宮迫さんの「陽光礼讃」という美術展が開催されているので、その紹介もされていた。谷川さんの〝雑木林シリーズ〟の絵を見に行きたいと思っている。

○月○日
テレビのニュース番組「報道ステーション」で、呉が舞台のアニメ映画「この世界の片隅に」が取り上げられていた。全国60館程でスタートした映画が、ネットや口コミで観客動員が伸び、異例の大ヒットを記録していると   。
戦争末期に広島から呉に嫁いできた主人公の生活を丹念にそして淡々と描いた監督のインタビューが続いた。制作費は2億5千万円、現在の収益は5億円を超えた。
12月中旬には「のん、呉へ。2泊3日の旅」という写真集が出る。これは映画の主人公、すずの声を担当したのんさんが映画の舞台になった場所を訪れるという企画である。まるで、呉の〝観光本〟のように仕上がっている。

○月○日
全日空の機内誌「翼の王国」の新年号に、呉の町の味どころが掲載されている。「二度目の」呉という旅の企画だ。呉の中通りは100年前から中国地方でも有数な繁華街だった。その歴史の上に成り立つ中通りらしい店、として紹介されている。
呉を訪れる観光客にとって、町での食は重要な位置づけである。私など旅の目的の一番は、うまくて居心地のいい店を訪れるためにある。そうして考えてみると、観光客相手の店より、地元の人が集う店に実は観光客も行きつきたいのである。
そのことに関連して、先日九留米大学の情報社会学の先生が、生徒を連れて呉に来られた。九留米と呉の〝町の食〟の共通する文化から、町の〝贈りもの〟のことを考えたいと。町の文化は、その町に連綿と続く経済活動の上に成り立つ贈りものとして捉えたいといわれるのだ。同感である。
経済と文化を別々として考えるから、どうもそのへんで地方自治は〝思考停止〟してしまっているとも言われていた。
来年の終わり頃に呉市長の選挙が行われる。町の〝贈りもの〟の意味が分かる、頭の柔らかい市長が現れて欲しいものである。

○月○日
呉が舞台の物語がまた映画化されると聞いた。2年前に出版された柚月裕子さんの単行本「孤狼の血」である。直木賞候補作で昨年の「このミステリーがすごい!」の3位になった作品だ。
舞台は昭和63年の呉である。警察と極道の壮絶な闘いを描いて、評判を取った作品である。作者は、「仁義なき戦い」の物語に連なる物語を描きたかったといわれる。
「仁義なき戦い」は極道が主役だったが、「孤狼の血」は刑事が主役だ。〝大上と日岡〟二人の刑事がハードボイルドなのである。本を読み終えた時、映画化するならどの俳優が演じたらいいか、想像力を働かせたことを思い出す。
〝今世紀最高の悪徳警官小説〟という評論もある。その舞台が呉というのも、歴史の〝贈りもの〟なのである。極道が目立った町というのも、見方を変えれば、清濁あわせ呑む町として魅力があるということである。
呉は映画の贈りものが続いている。

2016年12月号

2016年11月24日(木)

○月○日
広島カープの長いお祭りは、やっと終った。日本シリーズで日本一を逃した〝物語〟を抱えながら、カープ優勝パレードが行われ、31万人もの人が集まり、祝った。また、数字でスゴイのはカープ優勝の経済効果が、300億円を越えるといわれていることだ。
それにしても今年のカープは、私たちファンに本当に多くの感動を与えてくれた。黒田投手の200勝、新井選手の2000本安打達成、そして8月から優勝に至るまでの快進撃はスゴかった。そして、CSシリーズ、日本シリーズ、最後が黒田投手の引退発表―。
思い返すと物語は2年前、黒田博樹投手の大リーグから〝おとこ気〟でカープに帰ってきたことから始まったのである。そして同じように新井貴浩選手も出戻りで帰ってきた。2人とも〝お金だけじゃない〟という生き方を通そうとする姿に、ファンは反応しないわけがなかった。2人の野球姿勢にカープナインもまた反応して、様々な物語が雪ダルマのように大きくなっていたのである。
そんな中、地元マスコミは異常といえるカープ応援を繰り広げた。それを受けたファンの熱狂振りは〝赤い社会現象〟といわれる盛り上がりを見せたのだ。
ところが、カープ協奏曲を奏でていた広島地区で、ポカッと穴があいたように人出がなくなったのが呉の商店街である。昼は〝カープ優勝セール〟で広島市の商業施設にとられ、夜はテレビ観戦で皆帰宅。カープのテレビ放送の視聴率は50%を越えたという。これも、県庁所在地でありマスコミ在住の広島市と呉市の大変な格差が見えるのだ。カープ優勝!と騒いでいた呉の町は、一瞬にして閑古鳥が鳴き、静かな町に戻ってしまった。
あまりこんなことは言いたくはないが、先日の優勝パレードのマスコミの〝カープ狂奏曲〟を眺めるにつけ、広島市はええのぉ、と思ったのである。
○月○日
〝こないだ黒田投手のグローブ見せてもらったで〟と自慢顔で携帯の画面を見せる客。
〝カープ大野寮の寮長だった吉田さん宅での。いっぱいカープの宝物があったねぇ〜〟〝どこで見たん?〟〝内神町よの〟〝何それ、呉じゃないか〟〝いや、吉田さんは寮長を退職して、いま呉に戻っておられる〟周りの客が〝へぇー〟と言いながら黒田のグローブの画面をのぞいている。
そんなとき、
〝市立呉が甲子園に出るそうなでー〟〝何、今日の準決勝で勝ったんか?〟〝おお、6対3じゃと〟〝そりゃ、大ごとじゃの〟〝ほんまかいのぉ?〟と店内はひと騒ぎである。
市立呉がまさかの春の選抜大会の切符をほぼ確実にしたのである。
昨年の夏の広島大会で決勝に進んだ市立呉の実力は本物だったということだ。いやはや驚いた、というのが呉市民の感想だろう。出場となると、呉では54年振り、呉港以来だそうだ。
そういえば、先日のプロ野球ドラフト会議で、呉出身の堀瑞輝投手(新庄高)と畠世周投手(近畿大)の2人がそれぞれ日本ハム1位、巨人2位指名されていた。
カープ優勝から始まり、呉から2人のプロ野球選手誕生、春の高校野球に市立呉が出場!?と、当分の間、呉の町は〝野球の話〟が続きそうである。
○月○日
本誌がB6版に小さくなって3号目になる。色々と意見を頂いている。30年に渡りタウン誌の編集を続けてきて、変わらなければと思っていたことが、30年経って確信に変わり、今回の様式にたどりついた。
インターネットの定着で時代が変わり、メディア情報の流れが一変してしまった。印刷メディアである月刊のタウン誌は、町の情報をヨコ並びで紹介するだけでは、時代に追いつかなくなったのである。情報がじっとしてしまい、動かないのである。タウン誌と同じように町を編集することをもう一度考え直してみた。
「いじりみよ」とは〝位置・状況・理由・見方・予測〟の頭文字である。タウン誌の情報はこれにならいたい。タウン誌からネットに乗り換え、その情報はネットの波に乗り、着換えをしてまた印刷メディアに様変りして現れる。そんな編集がタウン誌の役割だと思ったのである。それで、持ち歩きの出来るB6版にさせてもらいました。
情報を〝わかる〟が〝かわる〟。〝かわる〟が〝わかる〟を目指します。
どうぞ、もう少し見守って応援して頂けたらありがたいです。

2016年11月号

2016年10月24日(月)

「この世界の片隅に」という贈りもの

○月○日
こうの史代さんの「この世界の片隅に」がアニメーション映画になって、やっとこの11月に全国公開を迎える。
監督は片渕須直さんである。原作のマンガ「この世界の片隅に」は今から10年前に、「漫画アクション」に掲載されて、単行本として上・中・下巻が発行されている。
私がこうのさんを知ったのは評判になった前作の「夕凪の街 桜の国」の単行本である。原爆投下の広島を描いたものだ。その広島出身のこうのさんが次回作は呉が舞台の物語を準備している、という記事を読んで、私は東京に住むこうのさんを訪ねたのである。
ほどなくして、「この世界の片隅に」の連載が始まった。物語は昭和18年12月から始まり、雑誌連載もまた平成18年12月より始まる。漫画アクションは隔週誌だったので、ひと月に2話づつ進む仕掛けだ。連載の発売月と作中の月が同じだから戦時中の時間の流れが、読む者にリアルタイムで伝わってくる。特に私のような呉に住むものにとって、町の背景や呉弁の会話に時を超えた〝この世界〟が感動を与えてくれたのである。
〝この世界の片隅に〟という題名のことを連載中、私はいつも考えさせられていた。〝この世界〟とは、どのような世界を指しているのだろう?作者の意図を受けとめたいのである。
物語は、広島の江波から呉の上長ノ木に嫁いでくる主人公すずの日常である。呉での新しい生活、そして故郷広島への愛着が折りなす、すずの〝この世界〟が変っていく。すずの視点が狭くなったり広くなったり、深くなったり、浅くなったり戦時下の厳しい現実がすずの生きる意識を変えていくのである。
〝この世界の片隅に〟生きざるを得ないことをすずは自覚していく。のんびりとした性格のすずが自分の本心に気づいていく物語の展開に、読者も〝この世界〟のとらえ方が一様でないことに気づかされる。
このへんが作者こうのさんのスゴさである。〝この世界の片隅に〟が発表されてすぐ、これこそアニメーション映画にしたいな、と思っていたが、まさに10年たって実現した。
監督の片渕さんは制作において大変な苦労があったと聞いている。原作の脚本も担当したという片渕さんの映画は、監督独自の〝この世界〟になり上がっているはずである。
私たち呉に暮らす者にとって70年前の呉の町の日常風景が垣間見られることに感動したい。
11月公開のこの映画、呉の人々への贈りものとして受け取りたいのである。そして映画を観た人は〝この映画は私たちへの贈りものだよ〟と言って誰かに伝えてあげてください。

©こうの史代/双葉社

2016年10月号

2016年10月01日(土)

呉市営二河プールの競泳プールが、この8月末で廃止された。新しく室内プールが出来るそうである。
二河公園内に市営プールが出来たのは、昭和26年、広島国体の競泳種目の会場になったからである。戦後の呉市は英連邦占領軍の統治下にあった。そんな中、国策で広島、呉での国体の開催になった。その会場のプールは、水泳協会お墨付きの競泳50mプールで、9000人収容の観客スタンド、そして練習プール、飛び込みプールを備えた、当時としては日本有数で、一地方のプールとしては最高の施設だった。
当時の呉市中央地区の小学生や中学生の夏休みの遊び場の一番人気がこの二河プールだった。私は清水通りに住んでいたので、二河プールへは循環線バスを使って通った、蝉が大音響で鳴く二河公園の風景を今でも思い出せるのである。プールの前には、タコ焼やわらび餅の小さな屋台があったり、プールの門をくぐると、左側のフジ棚の処にかき氷やうどんなどが食べられる出店が並んでいた。
プールに浸かり過ぎて唇が白くなるとき、無性に暖かいうどんが食べたくなるのだが、何しろ小遣いが足りない。プールの入場料もバス代も安かった筈だが、夏休み中に出来るだけプールに来ようと思うと、小遣いが足りなかったのだろう。
出店の食堂からの食べ物のいい匂いも、今思い出すとプールの情景の中に入っている。
競泳プールの思い出といえば、とにかく50mが遠かった。クロールでいいかっこして泳ぎ切ろうとするのだが、途中で息が続かなくなって平泳ぎでやっとたどりつくのである。そんなとき、横をバタフライでさっそうと泳ぐ女子がいた。そんなバタフライの出来る女子に憧れたものである。
また、競泳プールのプールサイドで他校女子中学生の姿を見ることが、ませたガキたちのステージでもあった。
そしてもう一つ、苦い思い出がある。中学校の友達が競泳プールで水死したことだ。その頃からか、競泳プールは地下水を使用して水温が低くなり、中学生たちは競泳プールにあまり入らなくなった。そんな中学生は練習プール、通称しょんべんプールではしゃぐのにも思春期が災いしてか、冷や水を浴びせられたように、二河プールから足が遠のいていったことを覚えている。
しかし、二河プールの思い出は泳ぐことだけではなかった。水を抜いた競泳プールにリングを設けてプロレス会場になったのだ。当時大人気だった力道山が来たから大変、急斜面のスタンドやプールサイドの観客席は超満員で、すり鉢状になった会場は野外にかかわらず、大盛り上がりだった。そして、盆踊り大会や花火大会も同じように催され、二河プールは市民が集まる人気の広場でもあった。
今でこそ、ハコモノ行政は色々批判があるが、呉の二河プールに関していえば、まさに偉大なハコモノだった。先人が呉に持ってきたハコモノだ。先人からの〝贈りもの〟は50年以上続いていたのである。いや、プールの消えない思い出は、私たち一人一人に贈りものとして今でも届き続けている。
こんなマチの贈りものを誌面で伝え続けていきたいものである。