2019年3月号

2019年02月20日(水)

○月○日
市立呉が昨年の秋季県大会決勝戦を二河球場で戦ったことを思い出す。戦う相手は広陵である。何とかいい試合になれば、と期待して駆けつけた。そして、試合前の両校の守備練習を見ていて驚いたのである。限られた時間の中で、グランドいっぱいを使って守備の連携プレーを繰り返す。スタンドの上からこの光景を見ると、そのチームの地力というか、練習の豊富さが見てとれるのだ。補球して送球、ボールがキャッチャーに戻る。その連携の流れるようなパフォーマンスは、観客を魅了するものがある。ノックの音、球を取る音、ミットの音が、リズムを作ってグランドからスタンドに響き渡る。〝このチームはやるな〟と感じさせるのだ。
市立呉の守備練習は、まさにこれだった。無駄のない動きで淡々と守備をこなす姿は、広陵に全く遜色ないものだ。2年前の甲子園初出場のチームとは、何というか貫禄がついている。野球部に歴史の力が乗っかったのだろう。
女子高だった豊栄高校が男女共学校として名前も変わり、市立呉高校がスタートする。そして、野球部は2007年に中村信彦監督の元に誕生する。
一人の優れた監督が現れると、こうも強くなれるんだ、ということを創部以来、本誌の卒業高校生特集で追ってきた。県大会でベスト8、ベスト4、決勝と、どんどん結果を出していく。そしてついに2年前、甲子園出場を果たす。呉では54年振りの快挙だった。それも、創部間もない公立高が県代表になったから地元で盛り上がることー。
前述した秋季県大会の決勝広陵との戦いは2対1で惜敗した。そして中国大会では1・2回戦を勝ち上がり、準決勝で米子東と延長タイブレークでこれまた惜敗したが、優勝した広陵と共に甲子園出場を決めた。
〝2007年創部の市立呉野球部2度目の甲子園までの道のり〟と題して今月号に掲載した。10名余の野球部員が並んで映っている。こういう編集をすることがタウン誌の役割だと、逆に教えてもらった気がする。
元々呉は野球が盛んな地で、〝野球市〟と呼ばれていたこともある。明治時代には海軍工廠で野球が広まり、日本でも早い時期に実業団の定期戦が始まっている。
一躍〝呉野球〟の名を上げたのは呉港高だ。夏の甲子園に6年連続出場し、初優勝を果たす。藤村富美男を中心としたチームは圧倒的に強く、後にプロ野球に進んだ選手が5人もいたというから驚きである。
今まで呉からプロ野球に進んだ選手は数多くいるが、中でもプロ野球殿堂入りした選手が4人もいることを知っているだろうか。南海ホークスで選手兼監督として大活躍した鶴岡一人。ミスター阪神タイガースと呼ばれた藤村富美男。48歳まで投手だった浜崎真二は阪急や国鉄など多年にわたり監督をつとめた。そして、広岡達朗は三津田高、早稲田大から巨人に入団し、長嶋と共に三遊間を守った。その後は監督として大活躍、現在も健在だ。
この4人が育ったのは、皆揃って二河川のほとりだ。こんなに狭い地域からプロ野球殿堂入りのレジェンドが4人も出ていることは、日本中どこにもないことで、呉の歴史が生んだワンダーランドなのである。
そんな歴史が呉に刻まれているから、余計呉の高校野球の今の現状に、市民は嬉し涙を流している(笑)。市立呉が県の強豪校として認められる存在になったから、呉地域の高校も市立呉の戦いを身近に見ることで、力を上げている。まさにこれが、〝市立呉効果〟なのである。
一人の野球部監督が、公立校の野球部を創設し、10年で甲子園出場を果たすという奇跡を成しとげた。そして、今回2度目の快挙なのである。一年一年、選手を率いて戦い、結果を残し続ける中村監督に、改めて注目している。

2019年2月号

2019年01月17日(木)

○月○日
今年は平成最後の年、31年である。昭和からは94年、大正は108年、そして明治は152年を数える。
日本は1872(明治6)年に、旧暦から西洋の太陽暦にぱっと切り替わった。新暦と旧暦、2つの時間を生きる中で、日本文化の継承は時間を経るごとに細くなりながらも連綿と保っている。
日本の正月はそのまま新暦だが、昔のまま、旧暦の正月を年始にしている国がアジアにある。中国と韓国だ。今年の旧正月は2月5日で、その前後1週間は休日だ。故郷に帰る民族大移動で、国内の交通は大混雑に陥るそうだ。
明治、大正、昭和、平成と年号が変わり、今年5月から新しい年号になる。30年間の平成の時代を振り返り、様々な視点で時代を編集する作業が始まっている。
先月号にも書いたことだが、本誌は平成の始まりから終わりまで発行を続けたことになる。まさに平成と共に30年ー。
天皇陛下の〝お言葉〟があり、生前退位が決まった。改元である。そこで、昭和から平成に改元したときのことを思い出すが、どうもおぼつかない。昭和という時間があまりに長く、戦前から戦後の昭和を総括できない日本があったように思う。平成に改元されたときの日本はまさにバブル経済に浮かれていた!?だから、前回の改元の受けとめ方と、今回はどうも違ってきそうな気がしてならない。
天皇の生前退位の報道を時間をかけて見ているからである。天皇陛下の〝お言葉〟の中にある深い意味を少しながらも分かるように感じる。
〝象徴天皇〟とはー、という表面的なだけの教育を受けた私たちに対して、国家というコト、そして日本の歴史を、元号が変わる今だから、少し考えてみて、と言われている気がするのである。
そこで話は変わるが、平成30年間のくれえばんを見直してみた。毎年2月号は〝新成人の貌〟と題した特集が定番だ。成人式の会場での撮影である。晴れ着姿の新成人の〝よそゆきポーズ〟を毎年掲載し続けていると、こちらもマンネリでおもしろくない。だから出来るだけ新成人のコトバを取り入れて編集してきた。これらの新成人のインタビューは意外と真面目に答えてくれており、今読んでも興味深い。
ここで、平成時代の成人式のことについて書いておかなければならないことがある。呉市の成人式会場は、市民会館から文化ホールに移った。本誌も会場の外で新成人を待ち受け、撮影を繰り広げた。撮影した新成人を数多く誌面に載せることで、2月号はよく売れたのである。評判がいいので、私も調子にのって毎年会場の外で〝くれえばんです。撮りますよ〟とやり続けていたら、新成人が集まり過ぎて、変な盛り上がりにさせてしまったのだ。一部のやんちゃ新成人が酒を飲んで暴れてしまうことが続きだした。
そのことが原因で、呉市の成人式は、各自治体に分散して行うようになってしまった。そして、本誌も分散開催の一因になったかもしれないと思ったので、分散になった年から2年間、本誌主催で大和波止場で撮影会を実施した。しかし、それも会場での後味が悪いさわぎだけが残り、撮影会もやめてしまった。
そんなこんな平成の成人式だったが、いま思うことはやはり成人式は一括開催がいいと思う。人口減が続く中、〝私と同年の新成人が呉にはこんなにいるんだ〟と思いを持つことが大事なのだ。町に人出がない最近だけど、集まればまだまだ元気な町だということに、思いが繋がればいいのである。

2019年1月号

2018年12月20日(木)

○月○日
平成31年4月で〝平成〟の年号が終わる。平成の時代は約30年。月刊くれえばんの創刊は昭和62年だから、平成時代はずうっと発行し続けたことになる。
今号で382号、こんなに長く続くとは思ってもみなかった。〝困った困ったコマドリシマイ〟と誰かが言っていた。
平成元年(1989年)最初の号である2月号を開いてみた。特集は「くれ路上観察倶楽部誕生」と「新成人ファイル」。路上観察として、〝塩の道〟の古道、仁方から広の塩焼までを読者と歩いた記事には、昨年亡くなられた名水博士の佐々木健さんが道案内役として登場している。
また、「街のアリバイ」には〝昭和の1ページ〟と題して、昭和64年1月7日の天皇陛下崩御の記事と共に、昭和22年12月に呉に巡幸された3枚の写真が掲載されている。
「新成人ファイル」には、本誌の表紙モデルをした4人が着物姿で写っていた。ああ懐かしい。いやはや、彼女達はなんと50才になったということかー!?
やはり30年という歳月は長く、遠い想い出の印刷物、くれえばんだけが残ったということか。
最近BSテレビで、昔のテレビドラマの再放送をやっている。その中で、1970年のドラマに「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」を見た。向田邦子脚本、演出久世光彦コンビの連続ドラマだ。今年亡くなった樹木希林さんが両方に出演して人気を博した。ドラマで興味深かったのが、1シーンだけのゲストとして出演する人たち。呉出身の作家田中小実昌さんが両方のドラマに出て、笑いをとる役をやっていたからおもしろい。
また、藤田まことの「新・必殺仕置人」シリーズに、なんと呉出身の野球選手、ミスタータイガースと呼ばれた藤村富美男さんがレギュラーで出演している。仕置人の元締役で、髷も似合う堂々とした演技で驚くのである。
いやー、昔のドラマのおもしろいことー。今のテレビドラマと比べると、昔の方が遊び心に満ちて、自由闊達、役者の魅力が伝わってくる。
「沢村貞子」を知ってるだろうか。女優であり、エッセイストとして有名だった人だ。沢村さんは明治41年に生まれ、大正、昭和を経て、平成8年まで生きた。
エッセイストとしての著作は数多く、日本エッセイスト・クラブ賞も受賞している。中でもふだんの暮らしを〝食〟から見直すエッセイの人気が高かった。
新年号の特集に「沢村貞子」を取り上げたのは、いまの時代、自分の体や心は自分で守ること、誰も助けてはくれないと肝に銘じ、〝食〟さえ大事にして生活すれば、何とか楽しく暮らせると思うからである。
沢村さんの献立日記を参考にして、料理を作ってみた。沢村さんの得意料理〝煮豆〟だ。私はこういう煮もの料理は初めてである。沢村さんのレシピ通り、二日がかりの料理だ。煮豆をつつきながらの気長な料理だ。出来上がった煮豆は、写真でレシピとともに掲載した。
煮豆を食べながらつくづく思ったことは、和食は色あせない、未来の〝食〟そのものということ。
沢村さんのエッセイの多数は、文庫本として今も刊行が続いている。「沢村貞子の献立日記」は30年近く亡くなるまで続いた。
平成が終わる年に向けて、
「温故知新ー孔子」
「バックミラーを通して未来に向かうーマクルーハン」
「『いき』であるとは眼に過去の潤いをもつことだー九鬼周造」
「過去は前方にあり、未来は後方にあるー」

2018年12月号

2018年11月19日(月)

○月○日
日本シリーズで広島カープが負けてしまった。セリーグ優勝三連覇のカープでも、やはりパリーグのソフトバンクには歯が立たなかったということである。
私も予想はしていたが、やはり駄目だったかと、落胆しながらも、カープの戦力を自分なりに整理してコトバにしようとしていたときだ。
中国新聞紙上に、〝結局、新井は凄かった〟という一面広告が掲載された。一面カープ色の赤、中央の上部に新井選手のイラスト、その下に〝結局、新井は凄かった〟という文字。そして、右下に黒田さんの自筆サインが小さく書かれているだけの一面、これって広告?
黒田博樹さんの新井選手の引退へのエール広告だった。裏面を見ると、新井選手のこれまでの活躍の歴史というより、〝カープの駄目な場面に新井あり〟とちょっと笑ってしまうような記事が編集されている。そうして、また赤い一面ページを戻ると、そこには黒田さんの新井選手への想いが見る者に伝わってくるのである。
カープの日本シリーズでのあっさりとした負けっぷりに、〝負けた日が新井選手の引退の日だ〟ということがマスコミもファンにも薄まっていたときだった。
このど派手な黒田広告を見た新井選手は、感想を聞かれて、〝結局、黒田は凄かった〟と返したというから洒落が分かる二人の絆が見えてくるのだ。
この何年間の広島カープの人気は、異常といっていいぐらい凄いものがある。観客動員やグッズ販売、テレビ放映など、広島だけではなく全国区の人気ぶりだ。
この凄いカープ人気を作ったのが、黒田、新井選手のカープへの復帰劇である。二人それぞれの物語が、ファンの心を掴んだからである。
力が衰えても、真摯に野球に取り組む姿に、ファンはもちろん、カープナインにも二人の姿勢が伝染していった。そのチームの姿を見て、またファンは熱くなり、まさにカープブームが立ち上がった。
この二人がカープに帰ってきたからこそ、25年振りのセリーグ制覇に結びついたのだ。そして、ここのところが一番の肝なのだが、カープの試合の内容というか、展開が他チームと比べてダントツにおもしろいということだ。とくにマツダスタジアムでの〝逆転劇のカープ〟試合は、グランドと観客席が相まってまさにエキサイティング、エンタテイメントの場になるからさらに盛り上がる。野球の試合は、筋書きのないドラマだから、登場人物は同じでも、一つとして同じドラマは起きないのだ。〝逆転劇のカープ〟の物語にファンは魅せられ、裏切られても、またそこにも魅せられる。ピッチャー陣に弱味があるからこそ、カープの試合がおもしろいのである!?
話は最初に戻るが、かつてないカープ人気を支えるファンは、今こそ今回の〝黒田・新井選手広告〟の意味を受けとめたい。
広島には、ファンの数だけ〝カープ評論カントク〟がいるそうだ!?
〝好きなくせに誉めることを知らないカントク〟
〝監督采配を常にけなすカントク〟
〝堂林選手が出ると、あーあとため息をつくカントク〟
〝この敗戦は私の責任です、とコメントする監督に、じゃあ、どういう責任を取るんだ、とツッコミを入れるカントク〟
そんなこんな、カープファンや球団にひとこと〝結局、新井は凄かった〟と言いたかった黒田さんのスジを感じたい。
それにしても、〝カープ元気晴朗なれど呉の町の人出なし〟とはいかがなものかー。

2018年10月号

2018年09月25日(火)

○月○日
私は、三方の山で囲まれた呉市街地の一方である休山の麓で育った。清水の丘の家から街に出るには、坂道を下りて行き、本通りの交差点に出る。広い本通りを渡ると、そこから賑やかな中通り商店街が広がっていた。昭和30年代の頃だ。
私が食堂と出合った記憶の始まりである。当時の中通り9丁目界隈は、銀座デパートが中心だった。私の父がその銀座デパートの中で店をしていたので、私もその界隈にはよく顔を出していた。銀座デパートの並びには3軒の食堂が連なってあった。「吉野屋」「巴屋」「ロンドン屋」である。「吉野屋」はカウンターだけの小体な店で、昼は食堂、夜は居酒屋という形態の店だった。その隣の「巴屋」は店先におはぎやいなり寿司を並べて販売、店内ではうどんなどが食べられる食堂だった。またその隣には、派手な「ロンドン屋」。ここは一・二階を使った大店で、洋食や和食はもちろんのこと、いち早くソフトクリーム機を店頭に置いて人気があった。街の大衆レストランの代表のような存在だった。この3軒で私が最初に食べたのはうどん、素うどんだった。他のメニューも食べたのだろうが、思い出すのはうどん。子どもの私が小遣いを貰って食べるのだから、いつも決まって一番安いうどんである。私の食堂事始めである。
食堂との本格的な付き合いは、東京の大学に進学してからだ。東京暮らしは10年以上続いたが、その間私は10回位、住居を変えた。だから、その都度住む街の中に、行きつけの食堂があった。いまその頃のことを思い出しながら、この文章を書いているが、これがただ懐かしいだけでなく、なんというかじんとくるものがある。とにかくお金に余裕がないのだから、毎日外食出来るはずがない。そのやりくりを思い出そうとしても、見事に忘れている。はっきりと覚えているのは、うまかった食堂や行きつけの居酒屋やスナックのことである。じんとくるのは、私の青春時代で忘れ去りたいときどきのことで、食堂のことと共に蘇ってくるのである。
私が食堂で一番通ったのは中華食堂だ。駅の近くには必ずあった中華食堂、今のようなラーメン店ではない。炒飯、ギョーザ、中華飯、天津飯、ラーメンが定番メニューで、懐に余裕があるときはビールを頼んだ。これが旨かった。そんな中華食堂での食事はいつもひとりだ。中華食堂は私にとって〝青春食堂〟だったのかな。
中華料理でいうと、今でも東京に行けば必ず顔をだすのが、渋谷の〝麗郷〟だ。道玄坂を少し上った路地にある老舗で、私が通い出して40年以上になる。こちらは駅前中華食堂より本格中華で、腸詰、タン、シジミ炒め、大根モチ、チマキ、五目焼そば、ビーフンと次々と定番メニューが出てくるから、私にとって今でも一番の〝東京食堂〟なのだろう。この店にはひとりでも二人でも通った。二人で料理をシェアして食べる方が色んなメニューが食べられるからだ。〝麗郷〟はハレの〝青春食堂〟でもあったのだ。
今回の食堂特集では30軒近くの店を取材した。昭和の時代から続くスタイルや味を守る店が思った以上にあり、呉は大衆食堂と呼べる店がまだまだ健在だとひと安心したのである。
いま〝食堂〟と名のつく店が東京などで増え続けている。〝カフェ〟と名をつけるより〝食堂〟という方が〝新しい〟イメージを与えるというのである。都会の飲食業界の多様化はどんどん進んで魅力たっぷりである。
地方の街である呉も〝食堂〟の概念を変える店が必ず現れてくるだろう。私としては、昭和のいいところを前面に出した、〝大衆食堂〟の再来を期待している。
〝 食堂は街と共にあり 〟です。

2018年9月号

2018年08月22日(水)

○月○日
私と「この世界の片隅に」のかかわりはずいぶんと長い。「漫画アクション」に平成18年から21年にわたって連載されたこの作品は、すぐに単行本化され、その結果こうの史代さんは数々の漫画賞を受賞する。私が初めてこうのさんにお会いしたのは、「夕凪の街 桜の国」が発表されて評判になったときで、次回作は呉が舞台になると聞いて、東京在住のこうのさんに取材で伺ったのである。
こうのさんは本誌のことを御存知で、母方の里の呉には、休みになるとよく来ていたと言われた。また母方の、ルーツは川尻の「東河野家」ということで、その由緒が祖母から母へ、そしてこうのさんに受け継がれていると感じた。
「この世界の片隅に」は、その後北川景子主演でテレビ化され、そして長い時間がかかってアニメーションで映画化された。苦労して出来上がった映画は封切られ、あっという間に封切館が全国に増え続け、大ヒットを記録したのは衆知のとおりである。
そして、今年7月に始まった連続テレビドラマにつながるのである。
今回の連続ドラマを観て、一番おもしろいな、と思ったのが榮倉奈々が演じる2018年の呉のドラマである。「北條すず」という表札がかかった古民家が呉に残っていた!?という「現代篇」のパートだ。原作にもアニメにもない、オリジナルの物語を加えたのである。
米軍の爆撃で右手を失ったすずさんは、そのときまだ20歳だった。すずさんの戦後はそれからえんえんと続いたのである。そして、すずさんに子どもが出来ていたとしたら、ベビーブームの団塊世代の子どもである。戦後は今年で73年、すずさんが生きていたとしたら93歳ー!?
すずさんは〝この世界〟から長い長い〝この世間〟をどう生きただろうと想像するのである。本誌で〝この世界〟から〝この世間〟にという連載をしているが、まさにそのコンセプトなのである。〝呉の世間〟で生き続けたすずさんはどんな処で佇み、〝この世界〟を振り返りながら生きだろう!?
すずさんが生きていたとしたら、どんな暮らしをしていただろう!?
「この世界の片隅に」の単行本の下巻の最後に、参考文献の頁がある。その中の〝お世話になった方々〟に私の名前も掲載されている。私がこうのさんにすすめたのは、呉出身の作家田中小実昌さんの本だ。こうのさんが参考にしたのは、〝アメン父〟と〝田中小実昌自伝〟とある。
実は田中小実昌さんは昭和元年生まれで、すずさんと同じ齢だったのである。小実昌さんの作家の原点は中国戦線に出兵したこと。そして終戦、戦後のどさくさ時代に東京に上京、無頼な生活が地平にある。そして多くの作品に故郷呉のことや父のことが記されている。
小実昌さんも〝この世界〟から〝この世間〟の片隅に生きていたのである。そこで想像力たくましくして、すずさんが〝呉の世間〟で生きていたとしたら!?と考えるのだ。
そこで今回の連続ドラマだが、〝現代篇〟は戦争と今とは地続きですよ。つながってますよ、ということを伝えたいのだろう。
もし、すずさんにずっと右手があったなら、戦後も彼女は絵を描くことで現実逃避をすることもあっただろう。しかし、右手を失ったからこそ、彼女はきちんと周りの人と向き合い、長い戦後を生き抜いたのではないか、と想像するのである。
そんな想像が止まらない「この世界の片隅に」は、この12月に新しいパートを加えた新バージョンの映画として公開されることとなった。
この物語はまだまだ私の心の片隅に住み続けそうだ。

2018年8月号

2018年07月19日(木)

○月○日
ケータイから緊急情報のシグナル音が響いた。テレビからも西日本の大雨警報が繰り返し流れた。そして、屋外から呉市の防災放送が聞こえてくるが、これがよく聞きとれない。テレビを消して窓をあけて、耳を澄ますが、雨や川の音で正確なところが伝わらないー。
このたびの〝平成30年7月豪雨〟のときのことだ。その中で、土砂災害を一番被ったのがなんと呉地域だった。テレビに映し出される変わり果てた被災風景を、全国ニュースで知らされた。自分の中で複雑な思いがこみ上げてきて少々ショックだった。
呉周辺地域を含めた主な被災地は、矢野、坂、水尻、小屋浦、天応のJR呉線沿線地域、そしてお隣りの熊野町・東広島市などである。すでに、広島県の死者及び不明者は100人を越えた。
そこで思い出すのが、4年前の広島安佐南八木地区で起きた大規模土砂災害のことだ。今号の〝歴史のじかん〟で紹介した磯田道史さんの〝天災から日本史を読みなおす〟の中で、この土砂崩れを検証している。筆者は、この地の古い記録を探した。
〝八木の扇状地は、背後に急斜地を持つことから、幾度もの土石流が重なって形成されたと考えられる〟という記述だ。また、住宅地にありありと残る土石流あとの竹やぶの写真も町史に掲載されているという。
〝前近代には、土砂崩れは「蛇崩れ」「蛇落」などといい、大蛇の出現になぞられていた。また、地誌「芸藩通史」によれば、八木村に上楽寺(上楽地)という字がある。そういう名前の寺があるからだが、この地にある観音堂が「蛇崩地観音菩薩堂」と呼ばれ、土砂崩れをおこす大蛇の霊を祀って、村の安寧を祈ってきたことが想像される。上楽寺は元来「蛇楽地」から名付けられたと考えねばならない。それが江戸期に上楽寺という楽しそうな名前に変わった。元々「蛇楽地」に建てられた団地だった〟と、磯田さんは推察しているのだ。また、「土砂崩れは、しばしば前兆があり、地鳴りや異臭を察知しなくてはならない」と呼びかけるが、津波より頻繁に襲ってくる山津波(土砂災害)について、もっと取り上げてくればよかった、と磯田さんは記している。
それで、つながるのが今回の熊野町川角団地のことだ。テレビニュースで被災した高校生二人が〝ドンという地鳴りと土のむせかえるような異臭がした〟と土砂崩れの前兆を察知していたことを話していた。川角も八木と同じ「蛇楽地」の可能性が大のようである。
私が土砂災害で思い出すのは、1967年7月9日の集中豪雨のことだ。山崩れ、崖崩れ、河川の決壊、氾濫、崩壊箇所2700、死者88人と市史の年表に記されている。私の住む清水地区の川が決壊して氾濫、四ツ道路まで道路が急流に変わり、何十人かの死者が出た。今でもその光景は目に焼きついている。
日本列島は災害列島だとつくづく思い知らされる。激甚災害が起こるたびに避難や支援のことが問題に上がる。毎年繰り返す災害後の対処がいつも後手後手になるからだ。今更ながら〝防災省〟が必要だと思うのである。復興庁というより、常時災害が起き続ける日本列島だから防災省でないとー。
そして、もう一つ地域に必要なのが、地域のラジオ、コミュニティ放送である。広島発の地域報道に、呉地域はいつも後回しなのである。もっと細かい地域情報が災害時に必要だ。高齢者が多い地域はラジオで情報を流すのが一番。今回の災害でつくづくコミュニティ放送が必要だと思った。

2018年7月号

2018年06月22日(金)

○月○日
〝この世界の片隅に〟のテレビドラマが7月から始まる。このドラマを作るメンバーには、脚本岡田惠和、音楽久石譲という名が連なり、製作するTBSの力の入れようが分かる。その中で役者では、松坂桃李がすずの夫役、そして義父役に田口トモロウの二人が出演する。この二人は、映画『孤狼の血』にも出演していて、続いて呉弁で演じるのも呉の住民としては、実に興味深い。
『孤狼の血』といえば、先日続編の映画化が決定したばかりである。小説『凶犬の眼』が原作になる。主役は日岡巡査だ。前作では刑事だったが、今作では県北の僻地に飛ばされ、駐在所勤務である。あらすじは、そのとき日岡が出会ったのが、敵対する組長を暗殺して指名手配中の男だった。その男の身柄を拘束すれば、刑事として現場に戻れるかもしれない。日岡がそう目論むなか、男は自分が手配犯であることを認め、〝もう少し時間がほしい〟と直訴した。男気があふれる男と接するにつれて、日岡の中に思いもよらない考えが浮かんでいく。神戸の山口組の抗争事件が日岡にせまってくるー。時代設定は平成二年。今回、物語は呉が主な舞台ではないが、前作の主要人物は呉にいるから、日岡も呉に顔を出すのだ。日岡の心は呉にあったのである。
呉の住民にとって、松坂桃李の演じる日岡刑事、そしてすずの夫 北条周作から目が離せない状況にある。
○月○日
〝オコゼのおいしい店、教えて〟という電話が私のところに何本かかかってきた。聞いたところによると〝呉おこぜフェア〟というのをやっているらしい。調べると、主催オニオコゼブランド化推進協議会、事務局呉市役所農林水産課内とある。呉市もいろんな企画で町の活性化を計る仕掛けをやってくるもんだと、感心している。
実をいうとオコゼは私の一番好きな魚で、刺身とアラのみそ汁が定番だ。呉のオコゼのことは、吉田健一著作の〝舌鼓ところどころ〟の中で、絶賛している。吉田氏は呉の松本建設一族の野々上慶一氏の友人で、何回か呉を訪れ、瀬戸内のカキ、メバル、ハゲなどの味のことを詳しく書き残している。野々上氏は「文学界」創刊時の出版元の書店主で、自著の「ある回想」などで呉とのかかわりを書いている。ということで、呉のオコゼは昔から食通には有名だった。
そのオコゼフェア開催中のとき、東京から「居酒屋礼賛」で有名な浜田信郎さんが出張で呉に来て、いつものように居酒屋に繰り出した。行きつけの鳥屋さんはオコゼフェアの開催店ではなかったが、水槽にはちゃんとオコゼが泳いでいた。早速頼むと、一緒にメバルの刺身も並んで出てきたではないか!いやはや素晴らしい。小魚でトゲがあり、刺身にするのは厄介な魚なのである。浜田さんも喜んで箸が進む。そして極めつけは、オコゼのアラのみそ汁だ。酒を飲む手がとまり、皆一斉にみそ汁をすすっている。うまい、やはりオコゼはみそ汁にかぎる、と吉田健一氏同様、皆も申してました。
○月○日
7月に呉市民劇場の例会で、坂本長利さんの一人芝居〝土佐源氏〟を絆ホールで開催するという。もう30年くらい前に、二河川にかかる木造の太平橋のたもとを舞台にして、〝土佐源氏〟の芝居を開いた。〝土佐源氏〟は戯曲ではない。民俗学者の宮本常一が昭和16年に〝土佐檮原の橋の下の小屋に住む盲目の老人から聞き書きされたものだ。それを坂本さんは自分で脚本にして一人芝居として上演した。初演は1967年、私が主催した二河川太平橋たもと上演は1980年代だから、いやはや今回の呉公演は何回目になるのだろう。
坂本さんが本当に年老いて演る〝土佐源氏〟がどう変わったか、是非会いにいきたい、と思っている。

2018年6月号

2018年05月22日(火)

○月○日
呉二河球場へ、広島県春季高校野球大会の準々決勝を見に行く。準々決勝に勝ち進んだ8校のうち、4校が呉勢だったからである。市立呉、広、呉港、呉工だ。この日、呉二河球場で試合をしたのは、新庄対広、市立呉と五日市で、新庄と市立呉が勝ち、呉港と呉工は福山球場で戦い、呉港と西条農が準決勝に進んだ。
呉二河球場は、先日のカープ、ヤクルト戦では満員の観客が詰めかけたが、この日も呉の高校が2校出場するというので、バックネット裏には数多くの観客の姿があった。
それにしても、呉地域の高校野球部も強くなったものである。やはり市立呉が甲子園に出場したことのいい影響が出たのだろう。市立でしかも新しい野球部を甲子園に導いた中村監督が、呉の高校野球を活性化させたのだ。
呉の高校野球は歴史をたどれば、全国優勝をした呉港を筆頭に、プロ野球で活躍した選手を何人も生んだ〝野球市〟だった。亀山神社の境内に対に置かれた立派な全国優勝記念の石灯籠が物語っている。
今回の大会では、市立呉が西条農に、呉港は新庄に負けはしたが、夏の甲子園に向けて呉勢の強さが垣間見える戦いだった。
○月○日
呉地域の「レッドデータ」本を編集した神垣健司さんについて灰ヶ峰の裏側にある灰ヶ峰公園に行く。レッドデータに掲載されている動物、植物、昆虫がしぶとく生き延びる山が、実は呉の里山である灰ヶ峰だ。全国的にもギフチョウや昆虫など多様な生きものがいる灰ヶ峰は、実は好事家の間では有名だという。灰ヶ峰公園は広島県でも有数の自然公園で、園内には川が流れ、森の中の道も整備され、鳥の声やせせらぎの音を聞きながら森林浴ができる自然公園が、こんなに近い所にあるとは知らなかった。
〝自然に接するときは、植物や昆虫、鳥など、その一つに関心を絞って入っていけば、見えてくるものが違ってきます〟と神垣さん。呉の中心地から25分足らずの所にこんな別天地があったのである。キレイな水洗トイレや駐車場も整備されている灰ヶ峰公園、これはまさに〝呉のお宝〟である。
7月にはヒメボタルの光で森が輝くそうだ。
○月○日
呉中央桟橋から宮島行きの高速艇に乗る。土・日・祝日運行の瀬戸内海汽船の定期便だ。宮島に45分で到着した。
私のお目当ては、呉市出身のデザイナー西本修さんの展示会である。参道のにぎやかな道を山側に一本入った町家通りにギャラリーはあった。通りの店には西本さんの描いた〝カープ猫〟のイラスト行灯が飾られていた。展示会は、〝型抜き染め〟が中心で、多才な西本さんのデザイン力に圧倒された。
西本さんは仁方町生まれで、6年前に一家で東京からJターン、現在は廿日市市に住んでいる。子ども向けの絵本など著作も多く、多方面で活躍が続いている。
西本さんの詳しくは来月号に掲載予定です。

2018年5月号

2018年04月19日(木)

映画『孤狼の血』がやっと全国上映される。ちょうど1年前、呉で全編撮影された映画だ。4月から5月にかけてひと月、主演の役所広司、松坂桃李など役者陣が演技を町で繰り広げたのである。そのひと月間の町の雰囲気は、いつもの静かな町の表情とは違っていたことを思い出す。
〝中通の横丁で撮影しよったで〟
〝黄ビル前に人がいっぱいおったわ〟と、現在進行形で町の様子が耳に入ってくる。小さな祭りが、町のあちこちで立ち上がり、そして消えていった。
その映画が5月12日から呉ポポロでも封切られる。呉が舞台の映画『仁義なき戦い』を封切時にサン劇で観たことを思い出す。映画を観終わった男たちは、皆肩をいからせて、男前風に映画館を出て行ったものだ。『孤狼の血』は『仁義なき戦い』があったから生まれた作品だと、原作者の柚月裕子さんは書かれている。
その柚月さんから昨年電話をいただいたことがあった。本誌のバックナンバーを参考にしたいということで、何冊かお送りした。柚月さんの小説は『孤狼の血』で終わりではなく、小説カドカワに連載が続いており、続編の『凶犬の眼』は山口組抗争事件を基にしたフィクションになっていて、主人公の日岡刑事の活躍は続いていくのである。
また、『孤狼の血』のビジュアルブックも発刊されて、その中で役所広司さんのインタビューが興味深かった。
〝何より、呉の皆さんには申し訳ないですけど、男が怒鳴ったりするときに、こんなにも威勢よく聞こえる方言もなかなかない(笑)〟と言うように、呉弁には〝おおじょう〟したようである。何しろプロの役者だから、呉弁の台詞に対しての思いは半端ではないのだ。
〝呉弁は激しい言葉だけでなく、たとえば「ありがとう」を「ありがと」と言う、柔らかい、さらっとした言葉の中にも魅力が溢れてるんですよ〟と役所さんは私たち呉人にエールを送っている。
その役所広司さん、呉と少しばかりだが縁があることをご存知だろうか?役所さんは仲代達矢主宰の無名塾の出身だ。無名塾は仲代さんの妻、宮崎恭子さんが塾長だった。その宮崎さんの母巴さんの故郷が呉なのである。役所さんは宮崎家の人たちに可愛がられたことを恭子さんの妹、総子さんの『わが家の食卓』という本で読んだことがある。
呉と宮崎家、そして無名塾出身の役所さん、小さな縁だけどつながっていること知ってる人いるかな!?
呉に縁があるといえば『孤狼の血』のプロデューサーが呉出身の天野和人さんである。天野さんは、東映で『極道の妻たち』シリーズなど数多くのプロデュースを手掛けている。呉でオールロケということで、天野さんは、故郷の土地鑑を生かした昭和の風景を設定したはずである。
呉に住む私たちだけに分かる場所が、昭和の風景として展開する映画『孤狼の血』を早く観たい。