2017年4月号

2017年03月23日(木)

○月○日
「この世界の片隅に」の、呉の町の桜がどんどん姿を消している。
昭和20年、呉の町は戦時空襲で丸焼けになった。そして、戦後の町の復興は、町全体を「鎮守の森」に、という意を託して桜一本一本を「公」の地に植えていったのである。二河川、堺川、小学校、中学校、高校、そして各地の公園にである。
そして、戦後10年近くになると、やっと市民生活も落ち着き、一年に一度の花見詣でに、市民がこぞって繰り出すようになる。とくに呉の4月3日は〝花の節句〟と称し、会社も休業となり、市をあげてのハレの日だった。昭和30年代、花見に繰り出す市民は10万人を軽く越えていたというからすごい。
当時、桜名所一番の人出は灰が峰の麓、平原浄水場だった。桜の時期にだけ浄水場が開放されて、出店も並び、まるで桜祭り。立錐の余地がないほど浄水場は花見客で埋まった。桜並木の向こうには町の市街地、そして呉港が見渡せる絶好の地である。
その平原浄水場から桜の姿が消えた。残っているのは無残に伐られた桜の根っこだけである。本当に寂しい風景が広がっている。どうしてこんな無残なことになったのだろう。
地元の人たちは、どんどん伐られていく桜を見て、桜を伐らないで下さい、と何度も水道局に陳情に行ったそうである。
それに対して水道局は、地元の人から桜が大きくなり、自宅にかかる枝が邪魔だとクレームがきて、桜を伐採したという。また古木になった桜は台風などで倒木する恐れありとして、古木から順番に伐ることにしている、と答えたそうだ。
倒木の予算がついたので、毎年伐り続けていたら、浄水場の桜は数えるほどになってしまった。何百本あった桜が殆ど姿を消した、という笑い話のようなことが、「この世界の片隅に」に起きてしまった!?
戦前、呉から出ていく戦艦から見える灰が峰の桜、平原浄水場の桜を目に焼きつけて出撃したという兵士の言葉が多く残されている。戦死した兵士だけではなく、呉に住む者にとって平原浄水場の桜には、それぞれ人の歴史の中にハレの風景として刻み込まれている。
その〝公の桜〟をいとも簡単に行政は伐ってしまったものである。行政は、伐った桜は市や県や国の土地にあるのだから、問題はないというのか。
呉の町には、これと同様に〝木々の伐採事件〟が数多いのである。最近では呉市新庁舎建設で中央公園の緑の森をなくした。それ以前も堺川沿いの緑、各小学校の桜などあちこちで見られる。
桜は古木ほど見事な花を咲かすのである。古木には枝ぶりや大きな幹に風格が備わり、厳かな気が感じられる。古木の桜の満開の下、見上げて目に映る桜は別格の美しさである。
呉の町から古木桜が消えていく。
「この世界の片隅に」の〝すずさん〟は、あれから満開の桜を何度愛でたものだろう—。
「この世界の片隅」に咲く桜をいつまでも愛でたい。

2017年3月号

2017年02月21日(火)

○月○日
メバルの刺身がうまい。
行きつけの居酒屋で活魚のメバルがいると、頼んで刺身にしてもらっている。メバルは小さな魚だから、刺身にできる身は少量である。また、メバルは悪いことに背ビレなどに棘があるので、三枚におろすとなると技術がいるのだ。一尾のメバルから取れる刺身はせいぜい5、6枚である。その稀少な刺身は、適度にアブラが乗り、旨味があるからたまらない。
瀬戸内海でとれる小魚では、オコゼと共に双璧の旨い魚がメバルなのである。オコゼは高価だが、メバルはそれ程でもない。しかし、メバルは何といっても鮮度が命、とくに刺身は活魚でないと身がゆるくなり、うまくない。
そんな地魚が食べられる土地に住む私たちは、本当に幸せものなのである。
思い返すと、20〜30年前までの呉の各界隈には、必ず魚屋さんがあり、朝締めの地魚の刺身が食べられたものだ。しかし、今や魚屋さんも激減してしまい、細々と営業を続けている店が殆どである。
呉地域の地魚といえば、メバル、タイ、小イワシ、アジ、タコ、アナゴ、タチウオ、オコゼ、ハゲ、ナマコ、カキ、サヨリ、白魚―。
まさに、これらの魚は瀬戸内海からの一年間にわたる贈りものなのである。
この贈りものは、地元の私たちだけで享受するのではなく、呉を訪れるソトの人たちにも食べて頂くのが筋である。
海軍さんの料理やカレーライスもいいのだが、本当のおもてなしは、呉の地でなければ食べられない刺身を中心にした料理を提供することだ。鮮度が命の小魚の刺身、観光客にとってこれが一番の御馳走だと思うのだ。おもてなし側の感性がちょっとばかりずれている、としか私には思えないのだが、どうだろう。
小魚料理は、変にこねくり回さず、〝焼く〟〝煮る〟〝揚げる〟、そして〝刺身〟。素材のよさやうまさをオーソドックスに生かすのが一番である。
間違ってもマグロやハマチの刺身を観光客には出さないで欲しい。地魚の盛り合せで呉らしさを強調することが、食で人を呼び込む一番の答えだと思うのだ。
メバルの刺身が入った〝刺身定食〟。このぜいたくさが分かる観光客を増やしたい。
映画〝この世界の片隅に〟の大ブーム、そして〝市立呉の甲子園出場〟と、呉に贈りものの風が吹いているときこそ、色々と発想を変えた取組をしていきたい。

2017年2月号

2017年01月24日(火)

○月○日
今年の新成人6人にインタビューをして写真を撮った。
今年の呉地域の新成人は2311人。今年も各自治体ごとに成人式が開かれた。何年か前までは、成人の日に呉市文化ホール一ヶ所に集まり、20才の晴れ姿を撮るカメラマンもつめかける賑やかな風景が町の風物詩として定着していた。
しかし、主催する呉市も、度重なる新成人のもめ事に手を焼いて、ついに各自治体18ヶ所での分散開催に落ち着いた。
本誌も毎年2月号は〝新成人の貌〟として特集を組むのが定番になっている。今年の特集は、6人の新成人の〝今のコトバと貌〟をアップして載せてみた。
彼女たちの話を聞きながら、一番興味深かったのが〝両親のような穏やかな夫婦になりたい〟と言うコトバだ。6人中5人がそう言うのは、ちょいと驚いた。彼女たちは続けて〝親に恩返しをしたい〟と私の目をしっかりと見ながら言うのである。そして〝早く結婚して子どもを産みたい〟と。少子化対策で右往左往しているお上にとっては、〝アッパレな若者じゃ〟と誉められること受け合いである。
彼女達はまた、仕事や結婚をしても親の近く、呉や広島市圏に住み続けたいとも言う。
〝地元族〟というコトバがある。
コトバどおり、生まれ育った地元が大好きで、小・中学校の限られた友だちと、結婚した今も家族ぐるみで付き合っている人たち。
学校時代はヤンチャで鳴らした人が多いのだが、今は家族第一、そして仲間と過ごす時間が何より楽しいという人たち。
映画館がある大型ショッピングセンターが大好きで、都会に出掛ける用はほとんどない人たち。なのに、ブランド品好き。
そして、EXILEが好きで、パチンコ好き。どこの町でもある〝よさこい祭り〟は彼女等で持っている。
もっというと、地元の祭りを支えているのも彼等なのである。
〝地元族〟を〝マイルドヤンキー〟と呼ぶ人がいる。
〝ヤンキー〟というコトバは、今かつてないほどの広がりを見せている。
〝ヤンキー〟とは、本来はアメリカ人を指すyankeeが語源だ。周囲を威嚇する強そうな格好をして、仲間から一目おかれたい、という少年少女のことだったが、今〝ヤンキー〟とは単に不良や非行を示すコトバではなくなってきている。
とくに地方都市では、地元で家族や仲間を大切にして、堅い消費を続ける若者層、〝マイルドヤンキー〟は貴重だということを、やっとお上も気づいたようである。
〝地元愛〟〝母性〟〝ファンシー〟〝コミュニケーション力〟〝保守志向〟〝現実的〟これが〝ヤンキー〟センスだという。
〝マイルドヤンキー〟こと〝地元族〟が、今から地方都市のキーワードになりそうである。
ちなみに、呉の地元族の愛読書はくれえばんということになっている。それはどうしてかというと、今の若者たちは生まれたときから、身近にくれえばんを目にしていたからだ。〝卒業高校生〟と〝新成人〟の特集には掲載されたい、というコトバをたくさん聞いてきた。かれこれ30年近く2つの特集を続けてきたので、自分の若かりし頃の姿が掲載されている本誌を大事にしている人も多いとも聞く。
本や新聞は読まないが、くれえばんは見るよ、という地元族も多い。嬉しいことである。
その月、この月と地元の情報を編集して発行してきたタウン誌が、時と共に町の歴史になっていると思えば、ありがたいことである。

2017年1月号

2016年12月24日(土)

○月○日
NHKテレビの「日曜美術館」で谷川晃一さんの特集を見た。谷川さんには長い間本誌の表紙絵を描いて頂いた。故宮迫千鶴さんの夫であり、パートナーだった。
放送は、谷川さんのこれまでの画業や現在の伊豆高原での一人暮らしの生活が紹介されていた。また、ちょうど今神奈川県立近代美術館での谷川さんと宮迫さんの「陽光礼讃」という美術展が開催されているので、その紹介もされていた。谷川さんの〝雑木林シリーズ〟の絵を見に行きたいと思っている。

○月○日
テレビのニュース番組「報道ステーション」で、呉が舞台のアニメ映画「この世界の片隅に」が取り上げられていた。全国60館程でスタートした映画が、ネットや口コミで観客動員が伸び、異例の大ヒットを記録していると   。
戦争末期に広島から呉に嫁いできた主人公の生活を丹念にそして淡々と描いた監督のインタビューが続いた。制作費は2億5千万円、現在の収益は5億円を超えた。
12月中旬には「のん、呉へ。2泊3日の旅」という写真集が出る。これは映画の主人公、すずの声を担当したのんさんが映画の舞台になった場所を訪れるという企画である。まるで、呉の〝観光本〟のように仕上がっている。

○月○日
全日空の機内誌「翼の王国」の新年号に、呉の町の味どころが掲載されている。「二度目の」呉という旅の企画だ。呉の中通りは100年前から中国地方でも有数な繁華街だった。その歴史の上に成り立つ中通りらしい店、として紹介されている。
呉を訪れる観光客にとって、町での食は重要な位置づけである。私など旅の目的の一番は、うまくて居心地のいい店を訪れるためにある。そうして考えてみると、観光客相手の店より、地元の人が集う店に実は観光客も行きつきたいのである。
そのことに関連して、先日九留米大学の情報社会学の先生が、生徒を連れて呉に来られた。九留米と呉の〝町の食〟の共通する文化から、町の〝贈りもの〟のことを考えたいと。町の文化は、その町に連綿と続く経済活動の上に成り立つ贈りものとして捉えたいといわれるのだ。同感である。
経済と文化を別々として考えるから、どうもそのへんで地方自治は〝思考停止〟してしまっているとも言われていた。
来年の終わり頃に呉市長の選挙が行われる。町の〝贈りもの〟の意味が分かる、頭の柔らかい市長が現れて欲しいものである。

○月○日
呉が舞台の物語がまた映画化されると聞いた。2年前に出版された柚月裕子さんの単行本「孤狼の血」である。直木賞候補作で昨年の「このミステリーがすごい!」の3位になった作品だ。
舞台は昭和63年の呉である。警察と極道の壮絶な闘いを描いて、評判を取った作品である。作者は、「仁義なき戦い」の物語に連なる物語を描きたかったといわれる。
「仁義なき戦い」は極道が主役だったが、「孤狼の血」は刑事が主役だ。〝大上と日岡〟二人の刑事がハードボイルドなのである。本を読み終えた時、映画化するならどの俳優が演じたらいいか、想像力を働かせたことを思い出す。
〝今世紀最高の悪徳警官小説〟という評論もある。その舞台が呉というのも、歴史の〝贈りもの〟なのである。極道が目立った町というのも、見方を変えれば、清濁あわせ呑む町として魅力があるということである。
呉は映画の贈りものが続いている。

2016年12月号

2016年11月24日(木)

○月○日
広島カープの長いお祭りは、やっと終った。日本シリーズで日本一を逃した〝物語〟を抱えながら、カープ優勝パレードが行われ、31万人もの人が集まり、祝った。また、数字でスゴイのはカープ優勝の経済効果が、300億円を越えるといわれていることだ。
それにしても今年のカープは、私たちファンに本当に多くの感動を与えてくれた。黒田投手の200勝、新井選手の2000本安打達成、そして8月から優勝に至るまでの快進撃はスゴかった。そして、CSシリーズ、日本シリーズ、最後が黒田投手の引退発表―。
思い返すと物語は2年前、黒田博樹投手の大リーグから〝おとこ気〟でカープに帰ってきたことから始まったのである。そして同じように新井貴浩選手も出戻りで帰ってきた。2人とも〝お金だけじゃない〟という生き方を通そうとする姿に、ファンは反応しないわけがなかった。2人の野球姿勢にカープナインもまた反応して、様々な物語が雪ダルマのように大きくなっていたのである。
そんな中、地元マスコミは異常といえるカープ応援を繰り広げた。それを受けたファンの熱狂振りは〝赤い社会現象〟といわれる盛り上がりを見せたのだ。
ところが、カープ協奏曲を奏でていた広島地区で、ポカッと穴があいたように人出がなくなったのが呉の商店街である。昼は〝カープ優勝セール〟で広島市の商業施設にとられ、夜はテレビ観戦で皆帰宅。カープのテレビ放送の視聴率は50%を越えたという。これも、県庁所在地でありマスコミ在住の広島市と呉市の大変な格差が見えるのだ。カープ優勝!と騒いでいた呉の町は、一瞬にして閑古鳥が鳴き、静かな町に戻ってしまった。
あまりこんなことは言いたくはないが、先日の優勝パレードのマスコミの〝カープ狂奏曲〟を眺めるにつけ、広島市はええのぉ、と思ったのである。
○月○日
〝こないだ黒田投手のグローブ見せてもらったで〟と自慢顔で携帯の画面を見せる客。
〝カープ大野寮の寮長だった吉田さん宅での。いっぱいカープの宝物があったねぇ〜〟〝どこで見たん?〟〝内神町よの〟〝何それ、呉じゃないか〟〝いや、吉田さんは寮長を退職して、いま呉に戻っておられる〟周りの客が〝へぇー〟と言いながら黒田のグローブの画面をのぞいている。
そんなとき、
〝市立呉が甲子園に出るそうなでー〟〝何、今日の準決勝で勝ったんか?〟〝おお、6対3じゃと〟〝そりゃ、大ごとじゃの〟〝ほんまかいのぉ?〟と店内はひと騒ぎである。
市立呉がまさかの春の選抜大会の切符をほぼ確実にしたのである。
昨年の夏の広島大会で決勝に進んだ市立呉の実力は本物だったということだ。いやはや驚いた、というのが呉市民の感想だろう。出場となると、呉では54年振り、呉港以来だそうだ。
そういえば、先日のプロ野球ドラフト会議で、呉出身の堀瑞輝投手(新庄高)と畠世周投手(近畿大)の2人がそれぞれ日本ハム1位、巨人2位指名されていた。
カープ優勝から始まり、呉から2人のプロ野球選手誕生、春の高校野球に市立呉が出場!?と、当分の間、呉の町は〝野球の話〟が続きそうである。
○月○日
本誌がB6版に小さくなって3号目になる。色々と意見を頂いている。30年に渡りタウン誌の編集を続けてきて、変わらなければと思っていたことが、30年経って確信に変わり、今回の様式にたどりついた。
インターネットの定着で時代が変わり、メディア情報の流れが一変してしまった。印刷メディアである月刊のタウン誌は、町の情報をヨコ並びで紹介するだけでは、時代に追いつかなくなったのである。情報がじっとしてしまい、動かないのである。タウン誌と同じように町を編集することをもう一度考え直してみた。
「いじりみよ」とは〝位置・状況・理由・見方・予測〟の頭文字である。タウン誌の情報はこれにならいたい。タウン誌からネットに乗り換え、その情報はネットの波に乗り、着換えをしてまた印刷メディアに様変りして現れる。そんな編集がタウン誌の役割だと思ったのである。それで、持ち歩きの出来るB6版にさせてもらいました。
情報を〝わかる〟が〝かわる〟。〝かわる〟が〝わかる〟を目指します。
どうぞ、もう少し見守って応援して頂けたらありがたいです。

2016年11月号

2016年10月24日(月)

「この世界の片隅に」という贈りもの

○月○日
こうの史代さんの「この世界の片隅に」がアニメーション映画になって、やっとこの11月に全国公開を迎える。
監督は片渕須直さんである。原作のマンガ「この世界の片隅に」は今から10年前に、「漫画アクション」に掲載されて、単行本として上・中・下巻が発行されている。
私がこうのさんを知ったのは評判になった前作の「夕凪の街 桜の国」の単行本である。原爆投下の広島を描いたものだ。その広島出身のこうのさんが次回作は呉が舞台の物語を準備している、という記事を読んで、私は東京に住むこうのさんを訪ねたのである。
ほどなくして、「この世界の片隅に」の連載が始まった。物語は昭和18年12月から始まり、雑誌連載もまた平成18年12月より始まる。漫画アクションは隔週誌だったので、ひと月に2話づつ進む仕掛けだ。連載の発売月と作中の月が同じだから戦時中の時間の流れが、読む者にリアルタイムで伝わってくる。特に私のような呉に住むものにとって、町の背景や呉弁の会話に時を超えた〝この世界〟が感動を与えてくれたのである。
〝この世界の片隅に〟という題名のことを連載中、私はいつも考えさせられていた。〝この世界〟とは、どのような世界を指しているのだろう?作者の意図を受けとめたいのである。
物語は、広島の江波から呉の上長ノ木に嫁いでくる主人公すずの日常である。呉での新しい生活、そして故郷広島への愛着が折りなす、すずの〝この世界〟が変っていく。すずの視点が狭くなったり広くなったり、深くなったり、浅くなったり戦時下の厳しい現実がすずの生きる意識を変えていくのである。
〝この世界の片隅に〟生きざるを得ないことをすずは自覚していく。のんびりとした性格のすずが自分の本心に気づいていく物語の展開に、読者も〝この世界〟のとらえ方が一様でないことに気づかされる。
このへんが作者こうのさんのスゴさである。〝この世界の片隅に〟が発表されてすぐ、これこそアニメーション映画にしたいな、と思っていたが、まさに10年たって実現した。
監督の片渕さんは制作において大変な苦労があったと聞いている。原作の脚本も担当したという片渕さんの映画は、監督独自の〝この世界〟になり上がっているはずである。
私たち呉に暮らす者にとって70年前の呉の町の日常風景が垣間見られることに感動したい。
11月公開のこの映画、呉の人々への贈りものとして受け取りたいのである。そして映画を観た人は〝この映画は私たちへの贈りものだよ〟と言って誰かに伝えてあげてください。

©こうの史代/双葉社

2016年10月号

2016年10月01日(土)

呉市営二河プールの競泳プールが、この8月末で廃止された。新しく室内プールが出来るそうである。
二河公園内に市営プールが出来たのは、昭和26年、広島国体の競泳種目の会場になったからである。戦後の呉市は英連邦占領軍の統治下にあった。そんな中、国策で広島、呉での国体の開催になった。その会場のプールは、水泳協会お墨付きの競泳50mプールで、9000人収容の観客スタンド、そして練習プール、飛び込みプールを備えた、当時としては日本有数で、一地方のプールとしては最高の施設だった。
当時の呉市中央地区の小学生や中学生の夏休みの遊び場の一番人気がこの二河プールだった。私は清水通りに住んでいたので、二河プールへは循環線バスを使って通った、蝉が大音響で鳴く二河公園の風景を今でも思い出せるのである。プールの前には、タコ焼やわらび餅の小さな屋台があったり、プールの門をくぐると、左側のフジ棚の処にかき氷やうどんなどが食べられる出店が並んでいた。
プールに浸かり過ぎて唇が白くなるとき、無性に暖かいうどんが食べたくなるのだが、何しろ小遣いが足りない。プールの入場料もバス代も安かった筈だが、夏休み中に出来るだけプールに来ようと思うと、小遣いが足りなかったのだろう。
出店の食堂からの食べ物のいい匂いも、今思い出すとプールの情景の中に入っている。
競泳プールの思い出といえば、とにかく50mが遠かった。クロールでいいかっこして泳ぎ切ろうとするのだが、途中で息が続かなくなって平泳ぎでやっとたどりつくのである。そんなとき、横をバタフライでさっそうと泳ぐ女子がいた。そんなバタフライの出来る女子に憧れたものである。
また、競泳プールのプールサイドで他校女子中学生の姿を見ることが、ませたガキたちのステージでもあった。
そしてもう一つ、苦い思い出がある。中学校の友達が競泳プールで水死したことだ。その頃からか、競泳プールは地下水を使用して水温が低くなり、中学生たちは競泳プールにあまり入らなくなった。そんな中学生は練習プール、通称しょんべんプールではしゃぐのにも思春期が災いしてか、冷や水を浴びせられたように、二河プールから足が遠のいていったことを覚えている。
しかし、二河プールの思い出は泳ぐことだけではなかった。水を抜いた競泳プールにリングを設けてプロレス会場になったのだ。当時大人気だった力道山が来たから大変、急斜面のスタンドやプールサイドの観客席は超満員で、すり鉢状になった会場は野外にかかわらず、大盛り上がりだった。そして、盆踊り大会や花火大会も同じように催され、二河プールは市民が集まる人気の広場でもあった。
今でこそ、ハコモノ行政は色々批判があるが、呉の二河プールに関していえば、まさに偉大なハコモノだった。先人が呉に持ってきたハコモノだ。先人からの〝贈りもの〟は50年以上続いていたのである。いや、プールの消えない思い出は、私たち一人一人に贈りものとして今でも届き続けている。
こんなマチの贈りものを誌面で伝え続けていきたいものである。

2016年9月号

2016年10月01日(土)

○月○日
月刊くれえばんは今号で354号になった。月刊になる前に季刊で10号を出版している。創刊は84年、月刊で再スタートしたのは88年4月号からである。
創刊時、〝呉は文化が育たない町〟とよく先輩諸士から言われたものである。〝よく持って3年じゃ〟と高を括られたりもした。
しかし、出版を続けて10年過ぎた頃から、〝継続は力なり〟の言葉が少しずつ本誌にも効いてきたのを感じた。
それからまた20年、町と共に時を紡ぐ編集を毎月誌面化してきた。バックナンバーの頁をめくる度、その時代のことが一つ一つ蘇ってくる。私にとって、これらのバックナンバーは、まさに宝物だと、思うようになった。編集し、出版したものは過去のもので、殆ど読み返したりしなかった。また、自分が書いた浅くつたない文章に出合うことも嫌だった。出版の恐さはそこにある。出版物は半永久に残るからである。
しかし、編集がうまく出来なかった号も含めて、愛着が湧いてきて、バックナンバー総てが宝物のように思い始めたのは最近である。
くれえばんは次号から現在の版型をB5版からB6版に変えることにしました。頁数は同じで、全頁カラーになります。型が小さくなるが、情報量は殆ど変らないように編集を工夫しています。
コンテンツはより〝食〟に比重をおき、人を介した町の歴史、文化を伝え続けたいと思っています。
30年タウン誌を編集してきて、確信したことがあります。それは〝贈り物〟のことです。
私たちは絶えず見知らぬ先人から贈り物を受け取り、自分の活動を通じて、見知らぬ後世の人々のために贈り物を用意しています。
私たちが享受している平和も、豊かな自然環境も、社会的なセキュリティも、医療や教育や司法のような制度も、先人からの贈り物です。
私たちは、それらの社会的な資源をできるだけいい状態で、できるだけ使い勝手のいいものにして、次世代に引き継ぎたいものです。
私たちは共同体の中でこの〝贈り物〟を認識して、暮らしてさえいれば、どんな時代でも生きのびる確率が高いと確信しています。
この〝贈り物〟論は、文筆家の内田樹さん達の自論です。私も全く同じ考えを持っています。次号からのくれえばんは、より地域の共同体の中で、その様々な〝贈り物〟を誌上にあぶり出して、編集していけたらと思っています。
○月○日
次号の巻頭企画は〝カープ優勝を呉の町で祝杯!!〟である。8月12日現在、カープと巨人の差は5.5ゲーム差。8月の初めは10ゲームの差をつけていたのだが、あっという間の追い上げである。ペナントレースは、カープと巨人に絞られたようだ。
それにしてもカープ人気は異常で、地元マツダスタジアムは連日超満員。また、テレビに映る他球場の観客席も半分以上、赤いユニフォームで埋めている。マスコミもファンも、このまま優勝に向かって突っ走っている!?
本誌も新しい型のくれえばんのスタートにふさわしい企画を考えたのである。広島の町の〝カープ優勝〟への盛り上がりに乗り遅れないように呉もカープ応援を表に出したい。
カープ優勝!となれば、呉の町に出て、〝よっしゃーやったぁー、カープ万歳〟と多くのファンと祝杯を上げたい。乾杯のハシゴをしてみたい。
そこで、呉の町の飲食店で〝カープ優勝、みんなでカンパーイ〟のサービスをやるぞ、という店を本誌で掲載したいのである。
〝どうかいの、カープが25年振りに優勝しそうなで〜〟の期間が長ければ長いほど、ファンは幸福な時間を過ごしていることになるのだが、何はともあれ、カープもファンも乞うご期待である。

2016年8月号

2016年07月19日(火)

○月○日
永六輔さんが7月7日に亡くなっていた、というテロップが朝のテレビで流れた。少し前、永さんの超長寿ラジオ番組が終了、と新聞で報じられていたので、病状が悪化したのかな、と心配していたところだった。
永さんは10年位前からパーキンソン病を患い、長い間続いていた旅暮らしが出来なくなっていた。奥さんの昌子さんが亡くなった後でも、お元気な姿で呉に来られていたのだが、今から思うと病のためか、10年少し前から旅も少なくなっていたようだ。
テロップが流れた次の日、〝徹子の部屋〟が永さんの追悼番組を放送した。黒柳さんと永さんは何十年来の親友なので、番組にも年に一回位というように定期的に出演を続けていた。その収録された永さんの40代、50代、60代、70代と時とともに齢を経た姿が流れた。それは感慨深いものだった。そして、私が永さんに最初にお会いしたのは40代の頃、また時を経て呉に定期的に来られたのは60代だったんだと、思い出すのである。
永さんはテレビ草創期から、放送作家なのに自分の番組に出演する〝おもしろい人〟の先駆けだった。また歌の作詞家としても大ヒットを連発、一世を風靡した。とにかく多様なジャンルを超えての作家活動だったから、当時、〝永六輔〟を知らない人はいないという有名人だった。
私が永さんにお会いしたのは小沢昭一主宰の劇団〝芸能座〟の舞台のときである。第一回公演〝清水次郎長伝伝〟と第三回〝純情二重奏〜大笑い計量法・伝伝 〟だった。二本とも永さんの脚本である。〝純情二重奏〟は出演もされていた。私はこの舞台の地方公演に同行していた。同行といっても、私の役目は小沢さんの付き人兼舞台の裏方だった。その当時、永さんは舞台づいており、〝六輔七転八倒〟というバラエティのような舞台を続けていて、芸能座の研究生の私たちもよく駆り出されていた。
その後、私は東京から呉に戻り、くれえばんを始めたのだが、何年かして本誌にエッセイを連載していた内田順子さんが、永さんと交流があり、その縁で呉に来られるようになった。永さんとの縁が私にあったのである。
岩波新書で永さんの著書〝親と子〟、〝夫と妻〟の二冊に呉で講演をした二つの話が掲載されている。その二冊の中で、永さんと私は、こういう縁があったと、少しだけ書かれている。
その当時、永さんから二年に一度位か、不意にハガキが届くのである。〝○月○日、この一日、木戸さんにまかすから、お話をしに呉に行けますよ〟というハガキだ。このときの講演会は8月9日、午前中に長浜の専徳寺、昼から音戸の法専寺、夕方は和庄中学校体育館で開いた。入場料は無料だが、阪神大震災で被災した障害者支援のための〝ゆめ風基金〟の寄付を募るというものだ。永さんは講演を終えると、自ら会場の出口で募金箱を持つのである。くれえばん主催の会は、永さんはすべて無償の仕事だった。
その頃のことでおもしろいエピソードを思い出した。広島に永さんを迎えて行って、呉の講演会場に向かうのだが、昼前だったので、軽く昼食を摂ろうということになった。永さんと二人きりでの食事は初めてである。私はかねてから呉の冷麺を永さんに食べて貰おうと思っていたので、これはいいチャンスと思い、〝呉冷麺という呉独自の平麺で麺もかたくなく、うまいです〟とおすすめした。呉冷麺といえば、珍来軒と呉龍だが、永さんは麺がやわらくなくてはならないので呉龍にした。昼前の店の前には一台のタクシーが停まっているだけで、人の列も出来てはいない。店に入ると、客はタクシーの運転手らしい人ともう一人だけだった。常連らしい運転手は、なんと永さんのベストセラー本〝大往生〟を手にしながら、その話をしていたのである。〝大往生〟で盛り上がっているその場に、作者の永さんが突然現れたのだから、それはびっくりしただろう。そして、永さんも私も冷麺を食べているお客が、永さんの本を読んでいたことにまたびっくりしたのである。こんなびっくりすることがあったのである!?本物の永さんがカウンターに並んで冷麺を食べている姿に店内の人は口をあんぐりとさせていた。私も笑いをこらえながら冷麺をおいしく頂いたのである。
〝伊勢うどんも地方の名物だけど、この呉冷麺は伊勢うどんの衝撃を受けて以来の地方麺である〟とお墨付を頂いたが、永さんは〝大往生〟を読んでいたタクシー運転手の驚きの態度の方が実はおいしかったのかもしれない、と思ったりしたのだ。
小沢さんは常々、「日本の三大旅人」は西行法師、松尾芭蕉、そして永六輔であると断定!?していたが、永さん御本人は、民俗学の師である宮本常一こそ日本一の旅人として尊敬し続けていた。
もう何十年も前、その宮本先生に永さんは〝テレビの仕事をしたいのですが〟と相談したことがあったという。そのとき〝放送は日本中、世界中に電波が飛んでいく。もし、あなたが民俗学をやめて放送の世界へ行くなら、電波が飛んでいってるその現場に、自分の足で行ってほしい。電波が届いているその場所で考えて、そこでしゃべって、その言葉をスタジオに持って帰りなさい。絶対に、スタジオでものを考えるようなことはしてはいけない。それができるなら、放送の世界に行くことをあなたに勧めます〟この言葉は、今でも私の旅というものの考えの原点だといわれていた。
永さんは70歳を過ぎて、より一層人の死に方、自分の死に方を語ることが多くなってきていた。永さんのこのたびの自身の死に方は、自身の言葉どおり〝大往生〟だったとお聞きしている。
永さん、ありがとうございました。そして、おつかれさまでした。

2016年7月号

2016年06月19日(日)

○月○日
毎年夏の時期になると、恒例の終戦企画モノがマスコミで一斉に始まる。
その中で、毎年のようにテレビで繰り返し放映され続けるアニメーション映画がある。野坂昭如作の「火垂るの墓」である。作者自身が遭った神戸空襲のことを描いた物語である。野坂昭如は直木賞作家であり、〝マリリンモンロー・ノーリターン〟などの歌手でもあり、また参議院議員を務めたこともある。とにかく多面的に〝コト〟を起こしていた野坂さんを、マスコミはいつも彼の後を追い続けていた。その野坂さんが13年前に脳梗塞で倒れ、マスコミの表舞台に立たなくなって久しかった。
今回掲載している野坂さんの日記は「新潮」や「新潮45」に連載されていた。私はその日記を読みながら、野坂さんの体調と諦観を想像した。しかし、時代の動きに対しては、警世、憂国のコトバがほとばしるがどこか哀調を帯びたもので、脳梗塞以前より深く静かであった。
13年間の歳月の中で、毎年夏になると戦争のことが記されている。繰り返し繰り返し〝戦争はしてはいけない〟とー。
改めて、野坂さんの日記の文章である。
6月某日
どこで何をしていようと、ぼくにとって忘れない日。
昭和20年のこの日、神戸上空をB29が来襲、午前6時すぎ、轟音が体にねじ込まれる如き圧迫感をともないつつ、そこかしこにうまれた。続いて、カンカンカン、パンパンパン、焼夷弾が落とされた。
気づけばあたりは火の海だった。記憶はとぎれとぎれに残っている。ぼくの家は焼け、父は行方不明。この日を境に、人生が変った。こんな経験は別に珍しくもない。
あの時代を生きた人間なら、それぞれが戦争の実態を知っている。
しかし、後世に戦争がどれほど伝えられたか。考えるほどに心もとない。
野坂さんは〝戦中派〟と呼ばれる昭和ヒトケタ世代である。その昭和ヒトケタ世代である呉出身の黒樹五郎さんが書かれた本が「花野-クレの少年」だ。そこから抜粋した文章を合わせて今号に掲載した。
呉は海軍と工廠と共に歴史を刻んできた町である。だから町の中心部はハイカラな都会と同じ風景の佇まいがあった。「花野」は黒樹少年の終戦の年16才までの自分史が綴られている。戦前のこの時代の暮らしは、残された市民の日記で垣間見ることが出来るが、少年の低い目線を通した巷の風景描写は、本当に貴重なのである。
この「花野」は戦後50年を過ぎて、著者が仕事をリタイアした後に、故郷の呉、自身の少年時代のことを書き残したものだ。次世代に伝えたいと私家本を刊行されたのである。いつも戦争の影がつきまとっていた時代を生き、そして終戦。「経済万能」、景気さえよければすべてよし、という戦後日本の時代を生き抜いた著者の黒樹さんの、忘れ去られる戦争のことを今さらながら伝えておかなければ、という自責の念も感じられるのだ。
戦前の呉の街の様子は、〝戦時中〟というコトバでひと括りにされがちな暗い暮らしのイメージではない。街の子どもたちは、親からのしつけやしきたりを守りながら、それまでと変りないところで街に密着して明るく生きていたのである。
終戦の年、昭和20年の春から夏にかけてのひどい空襲で、呉の町は焼け野原になる。戦前と戦後、街の風景が一変してしまう。著者は16才で東京の学校へ入るところで自分史を終えている。
この黒樹少年が呉を出発するのと同時期に、占領軍が呉に進駐してくる。呉の占領時代は戦後10年近く続くのである。
日本の近代史の歴史を地で歩んだ町が呉市だといわれる由縁である。
戦後世代の私も、占領軍の匂いというか、身近に強い記憶として残っていることがある。
現在の清水一丁目にある国立病院宿舎の台地は、戦後占領軍の宿舎が建てられていた。中心に緑豊かな丸い庭園があり、その周りに二階建の宿舎が並んでいた。昭和30年代になってこの占領軍が撤退して宿舎が空になった時期があった。鉄条網が張られた宿舎に、入り込んで遊んでいたのが、近所のワルガキである。私もその一人だった。
とにかく驚いたのは庭園の植物のことだ。見たこともないサボテンや花が見事に配置されていて、季節ごとに咲く植物が、がらんどうの宿舎の前で匂いを発しながら咲き誇っていた。その風景が忘れられない。占領した地にこんな庭を造り、暮らしのことを大事にする文化を持つ豊かな国と戦争をした日本のことを想ったのだ。〝こりゃあかなわなかったわけだ〟とー。
7月1日は呉空襲の日である。
本誌でも〝とうせんばからのてがみ〟という絵本を昨年掲載した。原作は杉山津矢子さん、絵はよこみちけいこさんである。杉山さんが呉空襲で焼け出されたのは8才の時である。物語は3才から8才までの活気溢れる東泉場の商店街が舞台である。
黒樹さんも杉山さんも、呉の町の歴史の中の一コマを物語として伝えたかったのである。