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2017年12月号

月曜日, 11 月 20th, 2017

○月○日
〝戦後〟という言葉遣いをして、70年以上のときがたつ。戦争という歴史の伝えかたは本当にむずかしい。
学校での歴史教育は、古い時代から進めるので、昭和の時代の頃になると、時間配分が押してきて、戦争の歴史というか、敗戦の歴史ははしょってしまう傾向にある。そのせいだけではないが、中国に〝満州〟と呼ばれた地があった、という歴史がどんどん忘れさられていっている。
一冊の本が出版された。「満州の土建王・榊谷仙次郎」という本だ。土建国家「満州国」の深層、満州国を造った一代記、国土建設の視点から見た満州史、と表紙に書かれてある。
下蒲刈町三之瀬に歴史のある豪荘な建物が残っている。この建物こそ、今回本誌で取り上げた榊谷仙次郎が戦前に造った別荘だ。実をいうと、私はこの建物に上げて貰ったことがある。元下蒲刈町の町長だった竹内さんの住居だったからだ。海べりの邸内からは蒲刈大橋や 対岸の向地区、そして本土方面には遠く野呂山の山容が見える素晴らしい立地だ。邸内や外観は日本風というより、どこか異国の雰囲気だ。聞くと、建てた人は満州で立身出世をした下蒲刈島の出身者ということだった。
一冊の本が、今も残る榊谷仙次郎別荘、観瀾閣を通して想像力をかき立てるのである。
〝満州と呉〟のつながりは、歴史に数多く刻まれている。たとえば満州千福工場の隆盛だったり、土建の松本組の進出などである。また、満州での活躍が書かれた本も出版されている。浜崎真二の「48歳の青春・球界彦左自伝」と呉工業試験場の初代所長、日下和司の一代記「炎は消えず」だ。日下和司は元満鉄撫順製鉄工場長で、浜崎真二は満鉄野球部のエースだった。
榊谷仙次郎と浜崎真二、そして日下和司の共通項は〝満鉄〟。そして三人が満州で出会った重要な人物が、外務大臣、満鉄総裁を歴任した〝松岡洋右〟だ。松岡洋右のような日本のトップの人と渡り合った三人の本が、私の机の上に3冊並んでいる。今回の特集は、誌面の都合で「炎は消えず」は掲載出来なかったが、また誌面にしたいと思っている。
先日も飲み友達の一人、ジャパンマリンユナイテッドの関係者から、レアメタルの研究者として有名だった日下和司の話題が出た。それほど技術者として今も語り継がれていることが分かったのだ。
そして、〝満州〟は遠い歴史ではなく、「この世界の片隅に」の物語にもつながっていることも知った—。
○月○日
11月12日の呉市長選挙で新原芳明さんが初当選した。当日の有権者数は19万3116人。投票率は52・4%。前回を10・29ポイント上回った。
今回の選挙は立候補者が戦後最多の4人、現職の小村さん、元衆議院議員の三谷さんと新人二人の戦いだった。
私は小村さんや三谷さんのことは、何回かお話しさせて貰ったりしていたので、お二人のことは存じている。また、新原さんには呉市長に立候補するときお話しさせて頂いた。
ひと月程前、中小企業家同友会が開催した立候補予定者の政策を聞く会で、4人の話を聞いた。そのとき思ったことだが、4人が舞台の上に並んで話をする姿や声、そしてコトバは、その人のすべてが透けてみえるような気がしたものだ。
私は、新原さんが当選してよかったと思った。呉市民はよく見ていたのである。旧態依然とした政治のシステムを少しでも変えたかった。そして、地元の有力者たちへの利益優先政治を許したくなかったのである。
呉市は新原新市長の誕生で、日本のどこにでもある地方都市から、独自の自治体になる希望が残った、とそう思いたい。
新原さんには是非、1期4年、その期間の年間カレンダーを4枚市長室に掲げて貰いたい。
期待しています。

2017年11月号

火曜日, 10 月 24th, 2017

○月○日
今月号に掲載したニュージーランドで見つかった古い写真。それを見たとき、すぐに「戦争花嫁」としてニュージーランドにわたった呉の人を思い出した。太平洋戦争、沖縄戦で不朽の電文を残して有名な大田中将、その遺児である4女アキコさんのことだ。
早速、大田中将一家のことが書かれている本に掲載されている写真を確認した。庭に立つ和装の男性は大田中将ではないようだ。もう一枚に写る幼児は、3男の畯さんに似ている!?
アキコさんは、現在もニュージーランドのウェリントン在住と聞いている。アンティークの日本の裁縫箱が購入されたのはクライストチャーチだという。古い裁縫箱に残された白黒写真は撮られてからすでに70年以上経っているのである。
ニュージーランドの女性が〝写真を返すため、ご家族捜しを手伝って下さい〟とツイッターに投稿して、話題になり、そのリツイートは4万件を超えている。
70年の時を超えて、現れた写真の主を捜し当てること自体が物語になりそうだ。

○月○日
呉市美術館の「無言館・遺された絵画展」に行く。長野県上田市にある戦没画学生慰霊美術館「無言館」開館20周年記念の巡回展だ。ずうっと見に行きたかった美術館だったが、その巡回展が呉に来たのである。
戦争で志半ばで亡くなった画学生は召集が決まると、一晩のうちに自画像を描き上げ、「写真ではなく、これを遺影に」と言い残した。
やはり自画像の絵はインパクトがあった。描いた本人の目についつい引き込まれるのである。また、各々の絵の横にその人の写真と短い人生のプロフィールが書かれている。最後にどこで、どういう死に方をしたのか記されている。
無言館の建設は、早世した画家の絵を収めた「信濃デッサン館」を創った作家の窪島誠一郎さんが、画家の野見山暁治さんと出会ったことがきっかけといわれる。「戦死した仲間の絵を残したい」という野見山さんと二人で絵の収集を始めた。そして、開館して20年、所蔵品は増え、現在は約130人の絵700点が集まっているという。
「彼らの描く絵はことごとく静寂につつまれている。この静寂を無言と解釈することは簡単です。しかし、無言ということからいえば、無言のままでたちすくむしかないのは、今を生きる我々のほうではないでしょうか」と、窪島さんは言われている。
のほほんと生きている私自身をこれらの無言館の絵が見据えている気がしたのである。
○月○日
呉市長選の立候補者の討論会を本誌に掲載する準備をしていた矢先、まさかの衆議院解散が起きた。野党のしくじりや小池新党の準備不足に乗じての安倍首相の解散劇だ。
急遽決まった衆院選の影響で、呉市長選の立候補予定者は活動の見直しを迫られている!?公選法により、衆院選と広島県知事選(10月26日告示)の期間中、呉市長選の立候補予定者の各陣営は、街頭演説などの政治活動が制限されることになり、この追い込み時期に!?と困惑しているという。
しかし、中でも自民党推薦を受けた現職市長は事情が異なる。衆院選広島5区に立候補する自民党前職の応援演説には立つことができるのだ。市長選に触れなければ、現職としてのこれまでの取り組みや町の現状のことを話すことができる。市長選に触れなければ、というが11月12日選挙のことは衆知されているのだから、これで現職市長は〝棚からボタ餅〟有利この上ない。
今号に掲載した10月4日の市長選立候補者討論会は、思った以上に興味深く候補者の言葉を聞いた。
いいことばかりの〝これをやります。あれもやります〟という公約は何か聞く者の心に届かない。それより何より、これからの右肩下がりの社会状況の中で、私たちがどれほどの自治負担をおうのか、そのへんのことを選挙戦でキレイごとでない言葉を聞きたいと思ったのだ。

2017年10月号

月曜日, 9 月 25th, 2017

○月○日
11月にある呉市長選に立候補を表明している4人の〝政策を聞く会〟が、10月4日㈬呉市文化ホールである。主催は広島県中小企業家同友会呉支部だ。
町に立候補者のポスターがあちこちに貼られ、各候補者の動向が耳に入るようになり、市長選本番を思わせる空気である。
全国でも有数の高齢化都市であり、右肩下がりの経済の町をどのように引っ張っていくのか、候補者の言葉を聞いてみたい。
各候補者は共通して、呉駅前のそごう跡地の再生と安芸灘大橋の無料化を重点施策にしている。しかし、この2つは4年前の選挙の時と全く同じ案件である。選挙のたびに〝おいしいことばかりの公約〟をあたかもすぐにやります、と繰り返す政治家は信用出来ないのは、誰しもが思っていることである。
2つの案件は解決させないといけない町の最重要のことだが、町のトップにはもっと人格というか、哲学というか、〝私は呉をこういう町にしたい〟という確固たる言葉を聞きたいのである。いいことばかりのメッセージは御免をこうむりたい。
すでに、企業や団体は支援する候補者を決めつつあるというが、身近な市長選挙だけに、社員やメンバーにトップダウンすれば票は取れるという旧来の力関係は成り立たなくなっているのが実情である。
また、〝誰が市長になっても同じよ〟という人は、すでに有権者ではないということだ。お国や地方自治体に文句を言う権利を手放しているのだから。選挙に行かない人は、お上のいうとおりにするしかない。
自分の暮らす町のトップになる人の実際の言葉を聞きたい。その一助になる〝呉市長選立候補予定者に政策を聞く会〟を主催する同友会呉市部という経営者の会にも注目である。
○月○日
広島カープが強い。リーグ2連覇確実の戦いが続いている。赤いユニフォームで町を歩く姿があちこちで見かけられる。いま広島は、マスコミも町も〝カープ、カープ〟で大盛り上がりだ。どこまで盛り上がろうとするのか、いささか心配である(笑)。
中国新聞の主催で11月に〝カープ検定〟をするそうだ。今号でも「中国新聞カープ検定」公式テキストを紹介している。
そこで突然だが〝編集長の鍋〟版〝カープ裏検定〟を出題してみよう。この解答を言える人こそ、真の〝特級検定者〟と認定したい。

□金本知憲選手はFA権で阪神に行ってしまって、カープファンは凄くガッカリしたこと覚えてます?金本選手は実はカープに残りたかったのだが、〝ミスター赤ヘル〟は金本選手ではないとオーナーのひとことでカープを去った。その真相は!?
□新井貴浩選手はFA権を行使せずカープに残ると決めていたにもかかわらず、金本選手を追って阪神に行ったとされ、裏切り者とカープファンに叩かれました。その後カープに戻り、今の活躍につながる新井選手の、退団、再入団の真相は!?
□今から10年前のこと、ライブドア社長の堀江貴文氏、通称ホリエモンがニッポン放送やパリーグ球団を買収しようとして、一躍有名になった。その年の衆議院の解散で、広島6区から立候補した堀江氏。そのとき、同時に進行していたのがカープ球団の買収だった。選挙も球団買収もあと一歩のところまでいったのだが、その真相は!?
□ミスター赤ヘルこと山本浩二氏。その妻の行動、言動が様々なところで話題になり、悪評がのろしのように上がっていること、知ってる!?
□伝説の高校野球広島大会決勝、延長両試合を戦った瀬戸内高山岡、新庄高田口投手。2人ともプロ入りして、現在オリックスと巨人のローテーション投手として大活躍の2人だが、どうしてカープは地元出身の2人をドラフトで獲らなかったのか、いや、獲れなかったのか!?
□地元出身の日ハム中田翔選手。今年FA権取得して、どこに行くのだろう。獲得の噂があった金本阪神は獲らないという噂が!?しかしカープは中田選手にドラフトでもFAでも興味を示さないのは何故!?
表があれば、必ず裏の話が湧いくる世間は、それぐらい健全ということなのか!?

2017年9月号

火曜日, 8 月 22nd, 2017

○月○日
毎年8月9日になると思い出すことがある。永六輔さんが呉の寺で話をしたときのことだ。それは、永さんが60代の頃のことで、2年か3年ごとに呉で話をする会を続けたことがある。一日に3ヶ所2時間ぐらいのトークショーをするのである。
その中で、特に印象に残っているのが、広長浜の専徳寺での会だ。猛暑の日だったが、高台の専徳寺本堂は風通しがよく、まさに気のいい高座だ。永さん独特の小気味のいい話の展開に、笑いながら引き込まれる集まった人たち。私もいつもながらの永さんの話術に感服しながら一観客になり切っていたとき、寺の外から市の広報のアナウンスが大きく聞こえてきたのである。長崎に原爆が投下された時間の広報だった。永さんは、それを聞いて〝皆さん一分間の黙祷をしましょう〟と話を中断したのだ。永さんは、広島原爆の日の黙祷は広島に近い呉では当りまえのように行われていることだが、長崎原爆の日の黙祷時間をも知らせる呉市の広報を誉められた。気をよくした永さん、話がどんどん盛り上がったのである。
このときの話は、岩波新書の〝親と子〟(永六輔著)にすべて掲載されている。今回読み返してみたのだが、永さんがとくに力を入れている戦争の話を若い世代に伝えること、これが本当にいい話なのだ。新書の言葉を追ううちに永さんの口調が蘇ってくるのである。
この夏、マスコミの〝8・6特集〟は何か低調だった。〝8月ジャーナリズム〟がマンネリ化した平和報道に陥り、年々弱くなってきているといわれている。
そんな中、旧呉鎮守府の地下壕が戦後初めて一般公開された。灼熱の陽ざしが照りつける中、海上自衛隊呉基地の海側、正面階段の横の地下壕入口にたくさんの人の列が出来た。
私は戦後残された地下壕のことは人より知っているつもりだ。小学生のとき、旧海軍病院の地下壕に入って、よく遊んでいた。当時の地下壕は、割れた薬瓶や注射器が散乱していて、この地下壕に入院患者を避難させていたことがうかがえたのだ。
私の地下壕体験のもう一つは、東京市ヶ谷の自衛隊本部に残っていた地下壕だ。地下壕の作戦本部、そして皇居までつながる地下通路。すごい歴史遺産を見せて頂いたことがある。取り壊す予定と聞いたが、今はどうなっているのだろう。
歴史の中で、忘れさられたまま日の目を見ない事実も多いが、今回の海上自衛隊呉基地の地下壕公開は〝8月ジャーナリズム〟では大きなニュースである。自衛隊広報も変わってきているのである。
ここでもう一度、永さんの言葉を伝えたい。

〝体験を語り継ぐということは、これはほんとにむずかしいことです。
でも、やりましょう。
それぞれお家のなかで語り継ぐ、先生が子どもに語り継ぐ。
そういうふうにみんなが、親から子に、教師から子どもへ、ご住職から在家へというふうに語り継いでいく。
それをやりましょう、ということですよ。
だれもぼくみたいにおしゃべりじゃない(笑)。無口の方もいらっしゃいます。
でも、無口でいるとこの世の中よくなりません。
やっぱり、体験したことは語り継がれなければならない。
われわれは、記憶というものを上手に語り伝える技術も持たなければいけないんです。
みなさん、これは今日の宿題ですよ(笑)。
ハイ、宿題を出したところで、お話を終わります。〟

ところで、私から皆さんに伝えることがあります。8月4日、午前4時30分、呉駅前の呉阪急ホテル東側で東和交通タクシーとイノシシが衝突。タクシーはバンパー破損、イノシシは血を流しながら逃走しました。イノシシは遂に駅前まで進出してきた!
これは語り継ぐ話ではないのですがー。

2017年8月号

月曜日, 7 月 24th, 2017

○月○日
今月の特集〝観光・御手洗のデザイン〟を企画するとき、一番に頭に浮かんだのが田中小実昌さんの〝オチョロ船の港〟という小説だった。御存知と思うが、田中小実昌さんは呉三津田町育ちで2000年に亡くなった。ハードボイルドの翻訳家であり、直木賞作家でもあり、人気エッセイストでテレビなど出演も多かった。その小実昌さんに2度本誌に寄稿してもらった。その縁で、小実昌さんが帰郷されたときは、何度か御一緒させてもらった。
私は元々小実昌さんの短編小説のファンなので、地元を舞台にした小説の一つ〝オチョロ船の港〟は印象深く残っていた。この小説はフィクションだが、舞台になった港のモデルのような食堂は現存しているから、おもしろいと言ったらおもしろいようなー。
ところで、今号に引用した小実昌さんの文章の中に〝オチョロ船が出てくる映画〟のことが出てくる。私も小実昌さんと同様の記憶をたどると、〝大地の子守歌〟増村保造監督、原田美枝子主演の映画だと確信した。1976年に公開されて、その年の数々の映画賞を獲得した名作だ。私は早速DVDを取り寄せ、40年前のその作品を観た。
いや、おもしろかった。泣けてしまったのである。40年前に観たときは、何かやりきれないなあ、という物語で、主演の原田美枝子の始終何かを訴える強い声だけが耳に残った。
物語のあらすじはこうである。時は昭和初期。少女りん(原田美枝子)は四国の山奥でばばと二人で自給自足の暮らしをしていた。しかし、ばばが亡くなり一人ぼっちのりんは人買い佐吉の甘言に乗り瀬戸内海の御手洗の置屋で働くはめになる。そのときりんは13才。置屋で女郎になるのを拒みながら、オチョロ船の漕ぎ手になる。しかし、そうはいかないよ、という物語が展開する。
映画のシーンで、りんが絶望して地面に突っ伏して、ばばの声を聞こうとしたり、土を食べたりする。そんなシーンの後に、必ず四国巡礼をするりんの姿が映し出される。その巡礼シーンを繰り返し見ることで、観る者も救われる気がした。〝大地の子守歌〟という題の意味が見えてくるのである。
御手洗の歴史に遊女が果たしてきた役割はあらゆる意味で大きい。時代は変われど、御手洗全人口のうち、約四分の一が遊女だったといわれている。町の祭礼・行事には必ず彼女たちの参加があり、華やかさで盛り立てる遊女に町民は大事に接していたのである。
これからの御手洗の観光デザインは、歴史の編集こそが重要になってくる。たとえば、レコード盤のA面は、維新志士が集い、倒幕を画策する討議を重ねた御手洗。B面は、花魁、遊女が主役の港町。柔道ではないが、〝A面、B面、合わせて一本〟という歴史のデザインが観光の根っこなると思うのだ。

○月○日
カープが強い!
そして、カープの試合は、なんとおもしろいのだ!?カープファン、いや野球ファンが増えるはずだ。
ノリにノルカープ、マツダスタジアムでの巨人戦に、巨人ドラフト2位ルーキー畠世周投手がプロ初登板した。呉市川尻町出身で、本誌1月号に掲載した選手だ。試合は4回4失点でほろ苦デビューだったが、巨人高橋監督は〝楽しみなところはたくさんあった〟と今後に期待しているとコメント。
私も初めて畠投手を見たが、オーソドックスな本格派で、気の強さが表に出ればいいピッチャーになりそうと思ったのである。

2017年7月号

金曜日, 6 月 23rd, 2017

○月○日
ある日、家の前の街路樹の枝がバッサリと切られていた。新緑の葉がこんもりといい形をつくり、家の前はこれからの季節、木陰の道になるなあ、と思っていた矢先である。大きな枝も根元から無残に切られ、以前の樹の形が思い出せない。切られた枝の幹が生白く妙に目立っている。
呉の町の樹は、どうしてこうもバッサリと伐られ続けるのだろう。公の場所の樹のことである。こんなに大ざっぱな伐採をしていいのだろうか、とそんな場に出合うたびにそう思う。
私も本誌にそのたびに書いて、反響も少しはあるのだが、何も変わらない。その変わらないことが、腹が立つというか、空しいのである。同じ町に暮らす住民として、お上の施策に対して少しは声を上げてはどうかと、いつも思う。みんな傍観者で居続けたいのだろうか―。
町の主だった伐採は、古くは堺川沿いの樹木。最近では新市庁舎建設時の中央公園の樹木。そして今も続く呉各所で起きている桜の木である。
ヨーロッパでは、町の街路樹はその町の知性を表すといわれている。町の景観デザインに街路樹の緑が重要な役割を果たしていると認識されている。私たちはそんな環境を大事にする町に暮らしたい。
ところで、呉の町にも街路樹の存在が際立つ景観があった時代がある。戦前の本通りや中通りには柳の並木が植えられていた。その当時、呉に来た藤田嗣治画伯が描いた絵ハガキ〝本通り夕景〟が今も残っている。描かれている呉の町に訪れてみたいな、という風景がそこにある。
また、呉には歴史的に見ても古い街路樹が見事に残っている道がある。市民広場(旧練兵場)、入船山附近、呉医療センター(旧国立呉病院)辺りの松並木である。かれこれ100年近い街路樹が呉に残っているのだ。よく残したというか、勝手に残ったというか、お上に聞いてみたいものだ。
この松並木の通りにある海上自衛隊集会所の建物を残そうとする企画案が出ていると聞いた。あれあれ、珍しいことである。何でも壊して新しい建物を作ることに熱心なこの町には、珍しい発想だ。この集会所は増岡組が100年前に建てたもの。当時、名建築物として賞賛された建物だ。それを生かそうとする企画とは珍しい!?
入船山一帯の景観を生かす企画であって欲しいのだ。この発想をもう少し前、名建築といわれていた旧市役所の建て替えの時に出して欲しかった。そうすれば、中央公園の林の伐採もなかったろう。
そういえば、そのとき中央公園の主だった樹木を移植して、新しい公園作りのときに戻すと、お上は言っていたが、どうなっているのだろう。嘘であって欲しくない、と思うのは私だけではない。また、そういえば、嘘であって欲しいことが、現市長の4選出馬宣言だ。市長は前市長の3選出馬に、多選は市政上よくない、として選挙に出馬した。そして落選。4年後に、また、多選阻止を掲げて当選したお人である。その多選云々という御本人が、多選である4選に出馬するとはどういうことか、いやはやである。3期で培った強いリーダーシップで市政をもう1期務めたいそうだ。
ますます先行き不透明な今の時代。皆が喜びそうなビジョンを示すことすら困難といっていい。町づくりは短時間で勝敗を決するスポーツとは違う。先が読めない中を、リーダーの判断で勇敢に突き進んでもらっては困るのである。
意見を出し合い、試行錯誤を重ねながら解決を目指すのは、市政に参加する全員の共同作業だ。リーダーに求められるのは、全員が歩調を合わせて自由に意見が出し合える状況を〝チーム〟の中につくり出す。そして出てきた意見を調整しながら方向性を定めることである。今は強がりのリーダーはいらない。
市長だけではなく、誰もが自分が暮らす町をいい町にしたいと思っている。じゃ、自分にとっていい町とはどんな町?と聞いてみたい。皆さん、言葉にしたことがありますか?

2017年6月

水曜日, 5 月 24th, 2017

○月○日
映画「孤狼の血」の撮影が、連日呉の町のあちこちで行われている。物語の舞台である撮影現場には、必ずヤジ馬が群がる風景があった。
このひと月、呉は小さな祭りのようだった。撮影隊がまるで神輿のように、行く先々で祭りを作り出していた。町の人たちは、その現場の緊張感を共有したことで、祭りに参加した感じを持ったことだろう。
〝川原石の裏通りで、血だらけの松坂桃李を見たで〟
〝血だらけ?〟
〝ほうよ、ありゃあ、アクションシーンじゃったで〟

〝役所広司がヤクザのようなかっこうして、レンガ通り歩いとったが、あれは刑事の役じゃと聞いとったけど―〟
〝呉原東署の刑事、大上刑事の役よ〟
〝呉原?〟
〝呉のままだと、色々問題が出るかもしれんけ、呉原市というフィクションの地名になっとるんよ〟
〝役所広司、やっぱりかっこよかったで〟
〝ヤクザのような刑事じゃったろ〟

と、あいさつのように町で交わされる映画撮影の会話である。
今回の「孤狼の血」以前でも、呉が舞台になった映画やテレビドラマは数多くあった。最近では、映画「海猿」がヒットして、撮影地巡りが話題になったし、大ヒットアニメ映画の「この世界の片隅に」も、いまだに〝呉の聖地巡り〟のファンが絶えない。
また、テレビドラマで代表的なのが、呉出身の脚本家池端俊策さんの作品だ。NHKドラマの〝帽子〟〝幸福の条件〟〝約束の旅〟やフジテレビの連続ドラマ〝並木家の人々〟などである。
撮影地としての呉の特長は、海軍がつくった港を持ち、三方を山で囲まれたすり鉢状の町で、丘陵地の坂道は昭和の風景が数多く残っていることだ。
「孤狼の血」の時代設定は、昭和63年、今から約30年前の呉である。この映画のルーツのような「仁義なき戦い」はそのまた30年前の時代の物語である。
昭和の風景のままの地が、撮影場所になったのだが、その場の多さを教えてくれたのもこの映画の撮影隊だった。
中通りのお好み小路、黄ビル、アカプルコ付近、珍来軒、料亭近惣、〝呉原東署〟になった旧呉市水道局、広多賀谷の邸宅などだ。

1988年、昭和63年の本誌のバックナンバーを開いてみた。中でもおもしろかった記事が12月号だ。特集の〝酒のある風景〟に今回の映画の舞台にぴったりの酒場がたくさん出ている。
中曽根元首相が海軍時代に通ったという〝ラパン〟、文学座の杉村春子も訪れた〝どん底〟、長谷川一夫の舞台で新内を演じた窪田美津子さんの〝新内〟、そして名物マスターがいた〝海賊〟だ。これらの店はすでに閉店してしまったが、今も健在なのが、シロクマ、ナポレオン、アカプルコなどである。
それらのモノクロの店風景は、そのまま見事に〝昭和〟である。映画の役所広司がその風景に入るのを想像してみる。
呉は、また〝映画の撮影地〟という贈りものをもらっている。

2017年5月号

月曜日, 4 月 24th, 2017

○月○日
春の甲子園に出場した市立呉は、大会初戦に逆転勝ち。そして2回戦、今大会準優勝校至学館と接戦を演じ、1対0で負けはしたが、〝本当にようやった〟の声が地元呉で広がった。とくにエースの池田投手のピッチングには、正直驚かせられたのである。
昨年末、秋季中国五県大会で市立呉はなんと決勝まで勝ち抜き、準優勝を飾った。ということは、ほぼ春の甲子園出場が決まった!?と呉市民がざわついていたとき、私は市立呉の中村監督に話を伺いに行った。
そのときの会話で、とくに印象に残ったコトバがこれである。
〝投手には、とにかくコントロール、緩急つける投球術を身に付けさせる。このチームをもっと成長させて、甲子園に挑みます〟
いやはや、中村監督のコトバ通り、エースは確実に成長していたのである。選手の〝伸びしろ〟を引っぱり上げた監督、〝アッパレ!〟の声が方々で上がっている。
2007年に野球部創設、10年目の今年見事甲子園出場を果たした。呉地域の高校で甲子園出場は54年振りというおまけつきの快挙でもあった。自前の野球グランドもなく、年間予算も少ない市立呉の野球部が、強豪校ひしめく広島県で勝ち上がることなどまず無理、と言われてきた。
その常識をくつがえしたのが、中村監督である。かつて〝野球市〟といわれるほど、野球熱が高く、実力も備えていた呉市は、いつのまにか生ぬるい体質の弱い野球界に成り下がっていたのだ。その状況に〝カツッ!〟を入れてくれたのである。
リーダー中村信彦さんに感謝である。

○月○日
同じように感謝したい〝監督〟が映画「この世界の片隅に」の片渕須直さんだ。昨年11月の映画封切りから6ヶ月、いまだに呉ポポロでロングラン上映が続いている。呉ポポロ上映作品史上10本の指に入る大ヒットを記録しているそうだ。いや、呉だけでなく、全国で大ヒットしたこの作品の魅力は何だろう、その理由は?!という評論も数多く取り上げられている。ヒット作品イコール質の高い作品かといえば、そうでないことが多いのだ。
「この世界の片隅に」の封切りは当初60館余りの小規模公開だった。それが今や200万人動員という大ヒット。そして、キネマ旬報作品賞、日本アカデミー賞とこれも立て続けに20余の映画賞を受賞している。
その中の授賞式でのスピーチで、片渕監督は、〝あきらめなくてよかった〟と声を震わせたという。
こうの史代さんの漫画「この世界の片隅に」の映画化を企画してから公開まで約6年。クラウドファンディングでの支援で何とか公開までこぎつけたが、実は資金難の連続だった。当初の資金は監督の持ち出しだったので、貯金残高が4万5千円になってしまったこともあったという。
何としても制作を続けた6年間のプロセスに監督の資質が見てとれるのである。映像作家としてのリーダーの資質であり、〝あきらめない〟という人格の資質だ。
先日、呉ポポロで片渕監督の何回目かの上映挨拶があった。そのときの観客に何人かインタビューしたコトバを今号に掲載している。
驚いたことにインタビューした全員が既に何回か映画を見た人ばかりだった。その中に50回見たという人がいたのである!?その人は全国の封切館を廻り、50回目の区切りを〝聖地呉ポポロ〟で迎えたというからすごい。まさに「この世界の片隅に」全国50ヶ所巡礼の旅である。
これほどの映画を〝まだ見ていない〟という呉の人たち。〝聖地呉ポポロ〟で見るチャンスは後少しですよ。
〝ゴールデンウィーク明けまでは確実に上映してます〟と言われてます。

2017年4月号

木曜日, 3 月 23rd, 2017

○月○日
「この世界の片隅に」の、呉の町の桜がどんどん姿を消している。
昭和20年、呉の町は戦時空襲で丸焼けになった。そして、戦後の町の復興は、町全体を「鎮守の森」に、という意を託して桜一本一本を「公」の地に植えていったのである。二河川、堺川、小学校、中学校、高校、そして各地の公園にである。
そして、戦後10年近くになると、やっと市民生活も落ち着き、一年に一度の花見詣でに、市民がこぞって繰り出すようになる。とくに呉の4月3日は〝花の節句〟と称し、会社も休業となり、市をあげてのハレの日だった。昭和30年代、花見に繰り出す市民は10万人を軽く越えていたというからすごい。
当時、桜名所一番の人出は灰が峰の麓、平原浄水場だった。桜の時期にだけ浄水場が開放されて、出店も並び、まるで桜祭り。立錐の余地がないほど浄水場は花見客で埋まった。桜並木の向こうには町の市街地、そして呉港が見渡せる絶好の地である。
その平原浄水場から桜の姿が消えた。残っているのは無残に伐られた桜の根っこだけである。本当に寂しい風景が広がっている。どうしてこんな無残なことになったのだろう。
地元の人たちは、どんどん伐られていく桜を見て、桜を伐らないで下さい、と何度も水道局に陳情に行ったそうである。
それに対して水道局は、地元の人から桜が大きくなり、自宅にかかる枝が邪魔だとクレームがきて、桜を伐採したという。また古木になった桜は台風などで倒木する恐れありとして、古木から順番に伐ることにしている、と答えたそうだ。
倒木の予算がついたので、毎年伐り続けていたら、浄水場の桜は数えるほどになってしまった。何百本あった桜が殆ど姿を消した、という笑い話のようなことが、「この世界の片隅に」に起きてしまった!?
戦前、呉から出ていく戦艦から見える灰が峰の桜、平原浄水場の桜を目に焼きつけて出撃したという兵士の言葉が多く残されている。戦死した兵士だけではなく、呉に住む者にとって平原浄水場の桜には、それぞれ人の歴史の中にハレの風景として刻み込まれている。
その〝公の桜〟をいとも簡単に行政は伐ってしまったものである。行政は、伐った桜は市や県や国の土地にあるのだから、問題はないというのか。
呉の町には、これと同様に〝木々の伐採事件〟が数多いのである。最近では呉市新庁舎建設で中央公園の緑の森をなくした。それ以前も堺川沿いの緑、各小学校の桜などあちこちで見られる。
桜は古木ほど見事な花を咲かすのである。古木には枝ぶりや大きな幹に風格が備わり、厳かな気が感じられる。古木の桜の満開の下、見上げて目に映る桜は別格の美しさである。
呉の町から古木桜が消えていく。
「この世界の片隅に」の〝すずさん〟は、あれから満開の桜を何度愛でたものだろう—。
「この世界の片隅」に咲く桜をいつまでも愛でたい。

2017年3月号

火曜日, 2 月 21st, 2017

○月○日
メバルの刺身がうまい。
行きつけの居酒屋で活魚のメバルがいると、頼んで刺身にしてもらっている。メバルは小さな魚だから、刺身にできる身は少量である。また、メバルは悪いことに背ビレなどに棘があるので、三枚におろすとなると技術がいるのだ。一尾のメバルから取れる刺身はせいぜい5、6枚である。その稀少な刺身は、適度にアブラが乗り、旨味があるからたまらない。
瀬戸内海でとれる小魚では、オコゼと共に双璧の旨い魚がメバルなのである。オコゼは高価だが、メバルはそれ程でもない。しかし、メバルは何といっても鮮度が命、とくに刺身は活魚でないと身がゆるくなり、うまくない。
そんな地魚が食べられる土地に住む私たちは、本当に幸せものなのである。
思い返すと、20〜30年前までの呉の各界隈には、必ず魚屋さんがあり、朝締めの地魚の刺身が食べられたものだ。しかし、今や魚屋さんも激減してしまい、細々と営業を続けている店が殆どである。
呉地域の地魚といえば、メバル、タイ、小イワシ、アジ、タコ、アナゴ、タチウオ、オコゼ、ハゲ、ナマコ、カキ、サヨリ、白魚―。
まさに、これらの魚は瀬戸内海からの一年間にわたる贈りものなのである。
この贈りものは、地元の私たちだけで享受するのではなく、呉を訪れるソトの人たちにも食べて頂くのが筋である。
海軍さんの料理やカレーライスもいいのだが、本当のおもてなしは、呉の地でなければ食べられない刺身を中心にした料理を提供することだ。鮮度が命の小魚の刺身、観光客にとってこれが一番の御馳走だと思うのだ。おもてなし側の感性がちょっとばかりずれている、としか私には思えないのだが、どうだろう。
小魚料理は、変にこねくり回さず、〝焼く〟〝煮る〟〝揚げる〟、そして〝刺身〟。素材のよさやうまさをオーソドックスに生かすのが一番である。
間違ってもマグロやハマチの刺身を観光客には出さないで欲しい。地魚の盛り合せで呉らしさを強調することが、食で人を呼び込む一番の答えだと思うのだ。
メバルの刺身が入った〝刺身定食〟。このぜいたくさが分かる観光客を増やしたい。
映画〝この世界の片隅に〟の大ブーム、そして〝市立呉の甲子園出場〟と、呉に贈りものの風が吹いているときこそ、色々と発想を変えた取組をしていきたい。