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2018年10月号

火曜日, 9 月 25th, 2018

○月○日
私は、三方の山で囲まれた呉市街地の一方である休山の麓で育った。清水の丘の家から街に出るには、坂道を下りて行き、本通りの交差点に出る。広い本通りを渡ると、そこから賑やかな中通り商店街が広がっていた。昭和30年代の頃だ。
私が食堂と出合った記憶の始まりである。当時の中通り9丁目界隈は、銀座デパートが中心だった。私の父がその銀座デパートの中で店をしていたので、私もその界隈にはよく顔を出していた。銀座デパートの並びには3軒の食堂が連なってあった。「吉野屋」「巴屋」「ロンドン屋」である。「吉野屋」はカウンターだけの小体な店で、昼は食堂、夜は居酒屋という形態の店だった。その隣の「巴屋」は店先におはぎやいなり寿司を並べて販売、店内ではうどんなどが食べられる食堂だった。またその隣には、派手な「ロンドン屋」。ここは一・二階を使った大店で、洋食や和食はもちろんのこと、いち早くソフトクリーム機を店頭に置いて人気があった。街の大衆レストランの代表のような存在だった。この3軒で私が最初に食べたのはうどん、素うどんだった。他のメニューも食べたのだろうが、思い出すのはうどん。子どもの私が小遣いを貰って食べるのだから、いつも決まって一番安いうどんである。私の食堂事始めである。
食堂との本格的な付き合いは、東京の大学に進学してからだ。東京暮らしは10年以上続いたが、その間私は10回位、住居を変えた。だから、その都度住む街の中に、行きつけの食堂があった。いまその頃のことを思い出しながら、この文章を書いているが、これがただ懐かしいだけでなく、なんというかじんとくるものがある。とにかくお金に余裕がないのだから、毎日外食出来るはずがない。そのやりくりを思い出そうとしても、見事に忘れている。はっきりと覚えているのは、うまかった食堂や行きつけの居酒屋やスナックのことである。じんとくるのは、私の青春時代で忘れ去りたいときどきのことで、食堂のことと共に蘇ってくるのである。
私が食堂で一番通ったのは中華食堂だ。駅の近くには必ずあった中華食堂、今のようなラーメン店ではない。炒飯、ギョーザ、中華飯、天津飯、ラーメンが定番メニューで、懐に余裕があるときはビールを頼んだ。これが旨かった。そんな中華食堂での食事はいつもひとりだ。中華食堂は私にとって〝青春食堂〟だったのかな。
中華料理でいうと、今でも東京に行けば必ず顔をだすのが、渋谷の〝麗郷〟だ。道玄坂を少し上った路地にある老舗で、私が通い出して40年以上になる。こちらは駅前中華食堂より本格中華で、腸詰、タン、シジミ炒め、大根モチ、チマキ、五目焼そば、ビーフンと次々と定番メニューが出てくるから、私にとって今でも一番の〝東京食堂〟なのだろう。この店にはひとりでも二人でも通った。二人で料理をシェアして食べる方が色んなメニューが食べられるからだ。〝麗郷〟はハレの〝青春食堂〟でもあったのだ。
今回の食堂特集では30軒近くの店を取材した。昭和の時代から続くスタイルや味を守る店が思った以上にあり、呉は大衆食堂と呼べる店がまだまだ健在だとひと安心したのである。
いま〝食堂〟と名のつく店が東京などで増え続けている。〝カフェ〟と名をつけるより〝食堂〟という方が〝新しい〟イメージを与えるというのである。都会の飲食業界の多様化はどんどん進んで魅力たっぷりである。
地方の街である呉も〝食堂〟の概念を変える店が必ず現れてくるだろう。私としては、昭和のいいところを前面に出した、〝大衆食堂〟の再来を期待している。
〝 食堂は街と共にあり 〟です。

2018年9月号

水曜日, 8 月 22nd, 2018

○月○日
私と「この世界の片隅に」のかかわりはずいぶんと長い。「漫画アクション」に平成18年から21年にわたって連載されたこの作品は、すぐに単行本化され、その結果こうの史代さんは数々の漫画賞を受賞する。私が初めてこうのさんにお会いしたのは、「夕凪の街 桜の国」が発表されて評判になったときで、次回作は呉が舞台になると聞いて、東京在住のこうのさんに取材で伺ったのである。
こうのさんは本誌のことを御存知で、母方の里の呉には、休みになるとよく来ていたと言われた。また母方の、ルーツは川尻の「東河野家」ということで、その由緒が祖母から母へ、そしてこうのさんに受け継がれていると感じた。
「この世界の片隅に」は、その後北川景子主演でテレビ化され、そして長い時間がかかってアニメーションで映画化された。苦労して出来上がった映画は封切られ、あっという間に封切館が全国に増え続け、大ヒットを記録したのは衆知のとおりである。
そして、今年7月に始まった連続テレビドラマにつながるのである。
今回の連続ドラマを観て、一番おもしろいな、と思ったのが榮倉奈々が演じる2018年の呉のドラマである。「北條すず」という表札がかかった古民家が呉に残っていた!?という「現代篇」のパートだ。原作にもアニメにもない、オリジナルの物語を加えたのである。
米軍の爆撃で右手を失ったすずさんは、そのときまだ20歳だった。すずさんの戦後はそれからえんえんと続いたのである。そして、すずさんに子どもが出来ていたとしたら、ベビーブームの団塊世代の子どもである。戦後は今年で73年、すずさんが生きていたとしたら93歳ー!?
すずさんは〝この世界〟から長い長い〝この世間〟をどう生きただろうと想像するのである。本誌で〝この世界〟から〝この世間〟にという連載をしているが、まさにそのコンセプトなのである。〝呉の世間〟で生き続けたすずさんはどんな処で佇み、〝この世界〟を振り返りながら生きだろう!?
すずさんが生きていたとしたら、どんな暮らしをしていただろう!?
「この世界の片隅に」の単行本の下巻の最後に、参考文献の頁がある。その中の〝お世話になった方々〟に私の名前も掲載されている。私がこうのさんにすすめたのは、呉出身の作家田中小実昌さんの本だ。こうのさんが参考にしたのは、〝アメン父〟と〝田中小実昌自伝〟とある。
実は田中小実昌さんは昭和元年生まれで、すずさんと同じ齢だったのである。小実昌さんの作家の原点は中国戦線に出兵したこと。そして終戦、戦後のどさくさ時代に東京に上京、無頼な生活が地平にある。そして多くの作品に故郷呉のことや父のことが記されている。
小実昌さんも〝この世界〟から〝この世間〟の片隅に生きていたのである。そこで想像力たくましくして、すずさんが〝呉の世間〟で生きていたとしたら!?と考えるのだ。
そこで今回の連続ドラマだが、〝現代篇〟は戦争と今とは地続きですよ。つながってますよ、ということを伝えたいのだろう。
もし、すずさんにずっと右手があったなら、戦後も彼女は絵を描くことで現実逃避をすることもあっただろう。しかし、右手を失ったからこそ、彼女はきちんと周りの人と向き合い、長い戦後を生き抜いたのではないか、と想像するのである。
そんな想像が止まらない「この世界の片隅に」は、この12月に新しいパートを加えた新バージョンの映画として公開されることとなった。
この物語はまだまだ私の心の片隅に住み続けそうだ。

2018年8月号

木曜日, 7 月 19th, 2018

○月○日
ケータイから緊急情報のシグナル音が響いた。テレビからも西日本の大雨警報が繰り返し流れた。そして、屋外から呉市の防災放送が聞こえてくるが、これがよく聞きとれない。テレビを消して窓をあけて、耳を澄ますが、雨や川の音で正確なところが伝わらないー。
このたびの〝平成30年7月豪雨〟のときのことだ。その中で、土砂災害を一番被ったのがなんと呉地域だった。テレビに映し出される変わり果てた被災風景を、全国ニュースで知らされた。自分の中で複雑な思いがこみ上げてきて少々ショックだった。
呉周辺地域を含めた主な被災地は、矢野、坂、水尻、小屋浦、天応のJR呉線沿線地域、そしてお隣りの熊野町・東広島市などである。すでに、広島県の死者及び不明者は100人を越えた。
そこで思い出すのが、4年前の広島安佐南八木地区で起きた大規模土砂災害のことだ。今号の〝歴史のじかん〟で紹介した磯田道史さんの〝天災から日本史を読みなおす〟の中で、この土砂崩れを検証している。筆者は、この地の古い記録を探した。
〝八木の扇状地は、背後に急斜地を持つことから、幾度もの土石流が重なって形成されたと考えられる〟という記述だ。また、住宅地にありありと残る土石流あとの竹やぶの写真も町史に掲載されているという。
〝前近代には、土砂崩れは「蛇崩れ」「蛇落」などといい、大蛇の出現になぞられていた。また、地誌「芸藩通史」によれば、八木村に上楽寺(上楽地)という字がある。そういう名前の寺があるからだが、この地にある観音堂が「蛇崩地観音菩薩堂」と呼ばれ、土砂崩れをおこす大蛇の霊を祀って、村の安寧を祈ってきたことが想像される。上楽寺は元来「蛇楽地」から名付けられたと考えねばならない。それが江戸期に上楽寺という楽しそうな名前に変わった。元々「蛇楽地」に建てられた団地だった〟と、磯田さんは推察しているのだ。また、「土砂崩れは、しばしば前兆があり、地鳴りや異臭を察知しなくてはならない」と呼びかけるが、津波より頻繁に襲ってくる山津波(土砂災害)について、もっと取り上げてくればよかった、と磯田さんは記している。
それで、つながるのが今回の熊野町川角団地のことだ。テレビニュースで被災した高校生二人が〝ドンという地鳴りと土のむせかえるような異臭がした〟と土砂崩れの前兆を察知していたことを話していた。川角も八木と同じ「蛇楽地」の可能性が大のようである。
私が土砂災害で思い出すのは、1967年7月9日の集中豪雨のことだ。山崩れ、崖崩れ、河川の決壊、氾濫、崩壊箇所2700、死者88人と市史の年表に記されている。私の住む清水地区の川が決壊して氾濫、四ツ道路まで道路が急流に変わり、何十人かの死者が出た。今でもその光景は目に焼きついている。
日本列島は災害列島だとつくづく思い知らされる。激甚災害が起こるたびに避難や支援のことが問題に上がる。毎年繰り返す災害後の対処がいつも後手後手になるからだ。今更ながら〝防災省〟が必要だと思うのである。復興庁というより、常時災害が起き続ける日本列島だから防災省でないとー。
そして、もう一つ地域に必要なのが、地域のラジオ、コミュニティ放送である。広島発の地域報道に、呉地域はいつも後回しなのである。もっと細かい地域情報が災害時に必要だ。高齢者が多い地域はラジオで情報を流すのが一番。今回の災害でつくづくコミュニティ放送が必要だと思った。

2018年7月号

金曜日, 6 月 22nd, 2018

○月○日
〝この世界の片隅に〟のテレビドラマが7月から始まる。このドラマを作るメンバーには、脚本岡田惠和、音楽久石譲という名が連なり、製作するTBSの力の入れようが分かる。その中で役者では、松坂桃李がすずの夫役、そして義父役に田口トモロウの二人が出演する。この二人は、映画『孤狼の血』にも出演していて、続いて呉弁で演じるのも呉の住民としては、実に興味深い。
『孤狼の血』といえば、先日続編の映画化が決定したばかりである。小説『凶犬の眼』が原作になる。主役は日岡巡査だ。前作では刑事だったが、今作では県北の僻地に飛ばされ、駐在所勤務である。あらすじは、そのとき日岡が出会ったのが、敵対する組長を暗殺して指名手配中の男だった。その男の身柄を拘束すれば、刑事として現場に戻れるかもしれない。日岡がそう目論むなか、男は自分が手配犯であることを認め、〝もう少し時間がほしい〟と直訴した。男気があふれる男と接するにつれて、日岡の中に思いもよらない考えが浮かんでいく。神戸の山口組の抗争事件が日岡にせまってくるー。時代設定は平成二年。今回、物語は呉が主な舞台ではないが、前作の主要人物は呉にいるから、日岡も呉に顔を出すのだ。日岡の心は呉にあったのである。
呉の住民にとって、松坂桃李の演じる日岡刑事、そしてすずの夫 北条周作から目が離せない状況にある。
○月○日
〝オコゼのおいしい店、教えて〟という電話が私のところに何本かかかってきた。聞いたところによると〝呉おこぜフェア〟というのをやっているらしい。調べると、主催オニオコゼブランド化推進協議会、事務局呉市役所農林水産課内とある。呉市もいろんな企画で町の活性化を計る仕掛けをやってくるもんだと、感心している。
実をいうとオコゼは私の一番好きな魚で、刺身とアラのみそ汁が定番だ。呉のオコゼのことは、吉田健一著作の〝舌鼓ところどころ〟の中で、絶賛している。吉田氏は呉の松本建設一族の野々上慶一氏の友人で、何回か呉を訪れ、瀬戸内のカキ、メバル、ハゲなどの味のことを詳しく書き残している。野々上氏は「文学界」創刊時の出版元の書店主で、自著の「ある回想」などで呉とのかかわりを書いている。ということで、呉のオコゼは昔から食通には有名だった。
そのオコゼフェア開催中のとき、東京から「居酒屋礼賛」で有名な浜田信郎さんが出張で呉に来て、いつものように居酒屋に繰り出した。行きつけの鳥屋さんはオコゼフェアの開催店ではなかったが、水槽にはちゃんとオコゼが泳いでいた。早速頼むと、一緒にメバルの刺身も並んで出てきたではないか!いやはや素晴らしい。小魚でトゲがあり、刺身にするのは厄介な魚なのである。浜田さんも喜んで箸が進む。そして極めつけは、オコゼのアラのみそ汁だ。酒を飲む手がとまり、皆一斉にみそ汁をすすっている。うまい、やはりオコゼはみそ汁にかぎる、と吉田健一氏同様、皆も申してました。
○月○日
7月に呉市民劇場の例会で、坂本長利さんの一人芝居〝土佐源氏〟を絆ホールで開催するという。もう30年くらい前に、二河川にかかる木造の太平橋のたもとを舞台にして、〝土佐源氏〟の芝居を開いた。〝土佐源氏〟は戯曲ではない。民俗学者の宮本常一が昭和16年に〝土佐檮原の橋の下の小屋に住む盲目の老人から聞き書きされたものだ。それを坂本さんは自分で脚本にして一人芝居として上演した。初演は1967年、私が主催した二河川太平橋たもと上演は1980年代だから、いやはや今回の呉公演は何回目になるのだろう。
坂本さんが本当に年老いて演る〝土佐源氏〟がどう変わったか、是非会いにいきたい、と思っている。

2018年6月号

火曜日, 5 月 22nd, 2018

○月○日
呉二河球場へ、広島県春季高校野球大会の準々決勝を見に行く。準々決勝に勝ち進んだ8校のうち、4校が呉勢だったからである。市立呉、広、呉港、呉工だ。この日、呉二河球場で試合をしたのは、新庄対広、市立呉と五日市で、新庄と市立呉が勝ち、呉港と呉工は福山球場で戦い、呉港と西条農が準決勝に進んだ。
呉二河球場は、先日のカープ、ヤクルト戦では満員の観客が詰めかけたが、この日も呉の高校が2校出場するというので、バックネット裏には数多くの観客の姿があった。
それにしても、呉地域の高校野球部も強くなったものである。やはり市立呉が甲子園に出場したことのいい影響が出たのだろう。市立でしかも新しい野球部を甲子園に導いた中村監督が、呉の高校野球を活性化させたのだ。
呉の高校野球は歴史をたどれば、全国優勝をした呉港を筆頭に、プロ野球で活躍した選手を何人も生んだ〝野球市〟だった。亀山神社の境内に対に置かれた立派な全国優勝記念の石灯籠が物語っている。
今回の大会では、市立呉が西条農に、呉港は新庄に負けはしたが、夏の甲子園に向けて呉勢の強さが垣間見える戦いだった。
○月○日
呉地域の「レッドデータ」本を編集した神垣健司さんについて灰ヶ峰の裏側にある灰ヶ峰公園に行く。レッドデータに掲載されている動物、植物、昆虫がしぶとく生き延びる山が、実は呉の里山である灰ヶ峰だ。全国的にもギフチョウや昆虫など多様な生きものがいる灰ヶ峰は、実は好事家の間では有名だという。灰ヶ峰公園は広島県でも有数の自然公園で、園内には川が流れ、森の中の道も整備され、鳥の声やせせらぎの音を聞きながら森林浴ができる自然公園が、こんなに近い所にあるとは知らなかった。
〝自然に接するときは、植物や昆虫、鳥など、その一つに関心を絞って入っていけば、見えてくるものが違ってきます〟と神垣さん。呉の中心地から25分足らずの所にこんな別天地があったのである。キレイな水洗トイレや駐車場も整備されている灰ヶ峰公園、これはまさに〝呉のお宝〟である。
7月にはヒメボタルの光で森が輝くそうだ。
○月○日
呉中央桟橋から宮島行きの高速艇に乗る。土・日・祝日運行の瀬戸内海汽船の定期便だ。宮島に45分で到着した。
私のお目当ては、呉市出身のデザイナー西本修さんの展示会である。参道のにぎやかな道を山側に一本入った町家通りにギャラリーはあった。通りの店には西本さんの描いた〝カープ猫〟のイラスト行灯が飾られていた。展示会は、〝型抜き染め〟が中心で、多才な西本さんのデザイン力に圧倒された。
西本さんは仁方町生まれで、6年前に一家で東京からJターン、現在は廿日市市に住んでいる。子ども向けの絵本など著作も多く、多方面で活躍が続いている。
西本さんの詳しくは来月号に掲載予定です。

2018年5月号

木曜日, 4 月 19th, 2018

映画『孤狼の血』がやっと全国上映される。ちょうど1年前、呉で全編撮影された映画だ。4月から5月にかけてひと月、主演の役所広司、松坂桃李など役者陣が演技を町で繰り広げたのである。そのひと月間の町の雰囲気は、いつもの静かな町の表情とは違っていたことを思い出す。
〝中通の横丁で撮影しよったで〟
〝黄ビル前に人がいっぱいおったわ〟と、現在進行形で町の様子が耳に入ってくる。小さな祭りが、町のあちこちで立ち上がり、そして消えていった。
その映画が5月12日から呉ポポロでも封切られる。呉が舞台の映画『仁義なき戦い』を封切時にサン劇で観たことを思い出す。映画を観終わった男たちは、皆肩をいからせて、男前風に映画館を出て行ったものだ。『孤狼の血』は『仁義なき戦い』があったから生まれた作品だと、原作者の柚月裕子さんは書かれている。
その柚月さんから昨年電話をいただいたことがあった。本誌のバックナンバーを参考にしたいということで、何冊かお送りした。柚月さんの小説は『孤狼の血』で終わりではなく、小説カドカワに連載が続いており、続編の『凶犬の眼』は山口組抗争事件を基にしたフィクションになっていて、主人公の日岡刑事の活躍は続いていくのである。
また、『孤狼の血』のビジュアルブックも発刊されて、その中で役所広司さんのインタビューが興味深かった。
〝何より、呉の皆さんには申し訳ないですけど、男が怒鳴ったりするときに、こんなにも威勢よく聞こえる方言もなかなかない(笑)〟と言うように、呉弁には〝おおじょう〟したようである。何しろプロの役者だから、呉弁の台詞に対しての思いは半端ではないのだ。
〝呉弁は激しい言葉だけでなく、たとえば「ありがとう」を「ありがと」と言う、柔らかい、さらっとした言葉の中にも魅力が溢れてるんですよ〟と役所さんは私たち呉人にエールを送っている。
その役所広司さん、呉と少しばかりだが縁があることをご存知だろうか?役所さんは仲代達矢主宰の無名塾の出身だ。無名塾は仲代さんの妻、宮崎恭子さんが塾長だった。その宮崎さんの母巴さんの故郷が呉なのである。役所さんは宮崎家の人たちに可愛がられたことを恭子さんの妹、総子さんの『わが家の食卓』という本で読んだことがある。
呉と宮崎家、そして無名塾出身の役所さん、小さな縁だけどつながっていること知ってる人いるかな!?
呉に縁があるといえば『孤狼の血』のプロデューサーが呉出身の天野和人さんである。天野さんは、東映で『極道の妻たち』シリーズなど数多くのプロデュースを手掛けている。呉でオールロケということで、天野さんは、故郷の土地鑑を生かした昭和の風景を設定したはずである。
呉に住む私たちだけに分かる場所が、昭和の風景として展開する映画『孤狼の血』を早く観たい。

2018年4月号

日曜日, 3 月 25th, 2018

○月○日
〝イタリアの小さな村
ここで命が生まれ、恋が芽ばえ
始めも終わりも
大地に包まれている
よく笑い、よく食べ、よく遊ぶ
私たちが忘れてしまった
素敵な物語
人生のすべてがそこにある〟
BS日テレのドキュメンタリー番組の〝イタリアの小さな村〟冒頭のナレーションである。このナレーションと共に流れる歌も、美しいイタリアの風景と相まって、あっという間にテレビ画面に引き込まれる。
私は、日曜日の朝10時になると、BS日テレのこの番組を見ている。見ていて心地いいというか、心が洗われるというか、ナレーションの〝私たちが忘れてしまった素敵な物語〟というコトバが私に響き、腑に落ちるのである。
イタリアの半島には小さな村や町が各地に点在して、昔ながらの生活の歴史をつないでいる。それはどっしりと地に足をつけた〝スローライフ〟そのものである。番組では毎回村に暮らす一・二家族の日常が淡々と映し出される。その主人公が語るコトバや相貌からその人の物語が少しずつ現れてくる。
中でも、村の年寄の存在感がすこぶるいいのだ。年寄は村でも家でもハネにされていない風景が見てとれる。そして、その年寄が人生を語るとき、画面に自分の若い時の写真が映し出される。結婚した当時の夫婦は皆生き生きとして魅力的だ。そして、その貌は今の当主である息子や娘にそっくりなのである。時代は変わっても、変わらない村の風景と共に生きる村人の貌も変わらないのだなと感じる。そしてもう一つ、世代を超えて語られる変わらないコトバが〝故郷が好き、ここで暮すことが幸せ〟ということ―。

〝守るべきは「お金」より「山河」〟と書いているのは〝ローカリズム宣言(デコ)〟の著者内田樹。〝イタリアの小さな村〟のテーマと同じである。
この本の中で、〝人口3000人の村で27軒の飲食店が潰れないのはなぜか?〟という章がある。岐阜県中津川市加子母という自治体のことだ。飲食店一軒あたり100人少々の顧客しかいない計算になるが、そこを村の人々が考えた。27軒すべての店の経営が成り立つように、外食するときに行く店が「ばらける」ように工夫しているというのである。だから成り立っている。
加子母という地域は、木曽檜という守るべき資源があり、植林、製材と木造建築の技術が伝承されている。森と技術を村の次世代に伝えなければならない。その使命感が集団的に共有されていたから、地域共同体では相互扶助、支援のマインドが育っていた。だから、27軒の飲食店が潰れないという。
〝イタリアの小さな村〟に戻るが、各々の村には必ず一軒以上のバール(飲食店)が町の装置として設けられていて、集会所のような役割も果たしている。朝から夜まで、時間と共に村人が入れ変わり立ち寄っていく。そのバールも村人にとっては村の「山河」のように思っているのだろう。
呉にもこんな〝バール〟が欲しい。

2018年3月号

月曜日, 2 月 26th, 2018

○月○日
潜水艦に乗る機会に恵まれた。全長81・7m、幅8.9m、乗組員71名の潜水艦いそしおである。呉のFバースから見える灰が峰はまさに真正面、頂上には先日の雪が白く残っていた。
私が見学した潜水艦いそしおは「おやしお」型の5番目艦である。今回潜水艦内で見たかったのは、食堂と居住区、とくに寝床だ。思ったとおり、寝返りをうつのも大変そうである。私の義兄が自衛隊の潜水艦乗りだったので、少しは艦内生活のことを聞いていたから想像はしていたが、実際に入ってみると、やはり過酷な住空間である。海上自衛隊員の中で潜水艦乗りの適性が一番むずかしいといわれる任務がここにある。
私はちょうどいま、「幻の潜水空母」といわれる伊400型潜水艦のことを調べている。
昭和19年12月末に呉海軍工廠で竣工されたのが潜水艦伊400。艦の全長122m、最大幅12m、深さ10m、燃料満載時の排水量は5523㌧で乗組員177名という空前絶後の巨艦である。そして何よりこの潜水艦には攻撃機3機を搭載していた。航空魚雷、または800㎏爆弾1個を搭載する特殊攻撃機「晴嵐」だ。これが「幻の潜水空母」といわれた伊400型で、同時に佐世保で造られたのが伊401である。
この2艦の潜水空母作戦は、帝国海軍最後の作戦といわれるパナマ運河爆撃計画だった。こんな途方もない計画が敗戦の年、昭和20年に行われようとしていたことは、殆ど知られていない。その理由としては、伊400型潜水艦は就役から降伏までわずか8ヶ月しか任務についていないこと。そして全く戦闘に参加することができなかったからである。そして敗戦、伊400型潜水艦はハワイで調査の後、電撃処分された。
しかし、これらの潜水空母の歴史を後世に伝える努力は続けられていた。そんな中、敗戦後60年、ハワイオアフ島の沖合の冥界から伊400・401潜の沈没映像が伝わってきたのである。
それに続いて、2015年、アメリカのジャーナリストによって「伊400型潜水艦最後の航跡」上下巻が発行され、〝幻〟の潜水空母の真実がまたまた話題になっているのだ。呉で造られた戦艦大和の後に、このような潜水空母が続けて造られたことに驚くのである。これらのレポートは次号に掲載予定している。

○月○日
海上自衛隊呉地方総監の池太郎さんにお会いした。池総監は江田島の術科学校の校長も務めた。池総監は海上自衛隊と呉の地域の住民の間を少しでも身近にするために、様々な取組みをされている。昨年夏の呉基地でのサマーフェスタでは呉JCと共催で呉地域の高校生を巻き込んだ祭を企画したり、地域の小学校の遠足に呉基地を開放している。また、〝海自カレー〟企画も引き続き積極的な協力が続いている。
今回私が伺ったのは、本誌への協力のお願いである。〝お隣の自衛隊さん〟という企画で、呉市在住の自衛隊さんにインタビューに応じて貰うお願いだ。
心よく引き受けていただいたのだが、それにしても海上自衛隊基地の空気は、町のそれとは違うことに改めて気づくのである。背筋がシャンと伸びる感覚というか、隊員の礼の姿や、言葉使いに新鮮さを感じるのだ。普通に自衛隊員と接することは、呉市民だとよくあることだが、町で会う自衛隊さんと自衛隊基地で会う自衛隊さんの雰囲気が断然が違うということが新鮮なのである。
呉市民は海上自衛隊基地にもう少し近づくべきだと思ったのである。お隣の自衛隊さんの基地は空気が違います。

2018年2月号

木曜日, 1 月 25th, 2018

○月○日
興味深いニュースが流れた。
呉市音戸町にある広島県水産海洋センターで、養殖の殻付きカキを夏でも生食用で出荷できるレベルまで浄化する実用的な方法を確立したという報道だ。その方法は、清浄な海水を入れた水槽で数日間寝かせ、カキの細菌や大腸菌を吐かせ、紫外線ランプで殺菌するというものだ。
私は何年か前に、同じような浄化システムを使って生食カキを出荷する業者を取材したことがある。倉橋町にあるこの業者の本部は東京で、世界中のカキを輸入して、倉橋のその工場に集め、独自の浄化システムを通して生食カキを再出荷していた。
カキの本場広島ながら、生食カキを提供する店がどんどん少なくなっていった頃である。生食カキの食中毒を恐れたためだ。しかし、一方で生食カキを売りものにするオイスターバーが全国で人気を呼んでいたのである。
紫外線ランプで殺菌する浄化システムは、当時は公表出来ない安全基準に関わる問題があったのだろう。
私はそのとき思ったものだ。この浄化システムを使って、呉の生カキを売りにして観光に結びつけたらと。カキ生産日本一の呉だからこそ、安全で新鮮な生カキが食べられる、そして多彩なカキ料理と呉の地酒と合わせて提供できたらと。
今号で、約70年前に広島・呉の料理人が出版した「突出優秀料理集」の中のカキ料理を再現している。その料理を呉の「花月」の沖松さんに頼んだ。10種あった料理から五つを作って貰った。どの料理も手間を惜しまない作り方で、日本料理の本分をついている料理である。
カキ尽し料理といえば、〝広島かき船〟が有名だった。戦前までは、11月になると広島からかき船が全国に向けて出帆した。北は仙台、東は東京、大阪へ。西は博多、長崎。また朝鮮のソウルまで行っていたというから驚きだ。
かき船の多くは矢野から出帆した。その中に大阪の有名料理店〝吉兆〟を作った湯木貞一さんがいた。桜が咲く頃になると、かきの季節が終わるので、かき船はみな広島に帰っていくのだが、湯木さんはそのまま神戸に止まり、仕出し屋を始め、成功していった。かき船から日本を代表する料理人になったのである。本誌でも湯木さんの「吉兆味ばなし」の料理を何回か掲載させて貰っている。語り口の料理話から湯木さんの人柄が透けてみえる。私にとって最高の料理本なのだ。
私のかき体験は、母が作ったかき御飯が最初である。大きなかきがボコボコ入っている炊き込み御飯だ。そして東京で食べたカキフライ、これはおいしかった。小さいカキが2・3粒入ったカキフライ、油もラードで揚げてあり、これぞ洋食と思わせる料理だ。これらのカキはみな殻付きカキを使っていて、さすがに鮮度もよかった。また、四国松山で食べたカキのオデンも忘れられない。宇和島のカキで、小振りの四角い形で、オデン出汁に浸けてさっと上げて、一口で食べる。これもうまかった。何個でもいけた。もう一つ、大阪のオイスターバーで食べたカキフライのトルティーヤ巻き。サラダ巻きのカキフライ、これも呉で流行させたいと思ったものである。
そういえば岩かきを忘れていた。初夏に食べる大きな天然岩かきとは違い、小さなかきで、養殖かき筏から落ちたかきが、岩に付いて自然かきに変身したかきだ。これも本当にうまい。手間をかけて洗い、生で食べる。これも生産地にいるからこそ食べられるのである。

2018年1月号

月曜日, 12 月 25th, 2017

○月○日
毎年、11月になると出回る広甘藍が楽しみである。最近は農協だけではなく、スーパーの地物野菜コーナーでも販売されている。
その広甘藍が主役の料理を連日作り、舌鼓をうっている。ちなみにその料理を記してみる。酢づけ、肉炒め、ギョウザ、パスタ、お好み焼き、みそ汁、鍋である。鍋はクリームシチュー風にしたら、キャベツの甘みがより増してほんとうまいんだなぁ。
○月○日
年末になると、町でなじみの店が閉店するという寂しい情報が編集室に入ってくる。ギョウザの福万、広の東陽軒が閉店した。そして年末で閉店するのが、中華の山口山、スタンド・スーだ。スタンド・スーは年が明けた2月頃に別の場所で小さな居酒屋をすると聞いた。
40年前に、毎日新聞呉支局が出版した「呉うまいもん」という本の中に前述の東陽軒、福万、山口山が掲載されている。
本誌でも、この「呉のうまいもん」にならって「新呉うまいもん」と題して連載を続けたこともある。呉のうまいもんの店の新陳代謝が、町として図れればいいのだが、どうもうまくいっていない。需要と供給のバランスが崩れている。新店をオープンする供給側の戦略をもっと練って勝負して欲しいものだ。
○月○日
「浮世過」、「うきすぎ」という通称がある。
明治初期、阿賀には412軒の町場があり、「百姓」が73軒、漁師が119軒、職人が5軒、「浮過」が212軒という記述が残っている。「百姓商買」とされた人は、おそらく土地を持ち、商いに従事した者。「浮過」は小作となる者もいたが、多くは「小商い、日雇い、船頭、加子などに雇われ」る者だった。
今回の特集「呉の世間の歴史をデザインした人々」の中の「呉のアウトローのデザイン」のところで「阿賀者」のことが出てくる。「仁義なき戦い」の始まりはまさに阿賀者同士の争いだった。「阿賀者」の活躍!?は、全国に鳴り響くのだが、どうしてこれほどまでのアウトローが多く出現したのか、以前から判然としなかったのである。呉に海軍が来る前までは、港町として阿賀の方が規模が大きく、人の出入りも多かったというのだが—。
そこで今回の特集を組むとき、もう一度市史を読み返していると、前述の「浮過」の記述を見つけた。当時の阿賀町の412軒うち半分以上の212軒が「浮過」というのだ。「浮過」という身分は、あいまいなところが多いのだが、無職渡世人というか、遊び人というか、何でも助っと業という日雇いか、その日暮らしの人が多かった。そういう渡世を生きる人の中から「阿賀者」という元気なアウトローが出現したと思ったのだが、どうだろう!?
世間というのは、陰と陽で成り立っている。陽といえるオモテの歴史をなぞるだけでは、本当の歴史に追いつかない。ウラの歴史もオモテに出す「世間の歴史」が必要なのである。
今回の特集の編集は、〝世界〟ではなく〝世間〟がコンセプト。
それにしても、呉の世間という歴史は本当におもしろい。