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2008年2月号

金曜日, 2 月 1st, 2008

新年会早々、清水通りの私の実家に行こうとするのだが、家の前に車がつけられない。亀山神社への初詣の車がずらりと並んでいるからである。いつの頃から か、亀山神社の初詣に車で来る人が多くなったのである。神職の姿をした人が、車の誘導をしているから、文句もつけられない。
私は小さい頃から清水地区に育ったので、小学校の横にある亀山神社は、自分の遊びのテリトリーの一部なのだが、そこは神域なので、遊んでいい時と駄目な 時をわきまえていたことを覚えている。10月17日の祭りの日には、近くに住む悪ガキにとっても大いなるハレの日だった。勝手知ったる亀山神社の境内から 四ツ道路に至る祭りの場を、子どもながら見事に把握していたのである。私にとって正月は、一年の中で二番目のイベントで、境内に集まる人出を、わがことの ように、気にしたものである。こんな事を思う子どもって、何かへん!?と思うのだが、人出を気にすることは、“マツリ”の盛り上がりにつながることを子ど もながらに分かっていたのである。
さて、今年の亀山神社の正月の人出を見ていると、例年になく多い。正式な参拝者の数を知らないが、境内に行ってもズラリと長く並んだ参拝者の例を見て、私など元旦には参ることが出来なかった。
本誌の新年号で神社特集をした手前、神社の人出が多いことは、おお、少しはウチの特集が効いたかな!?と思いたいのである。

初詣といえば、元旦の亀山神社に続いて、二日、倉橋島の尾立の八剣神社に参った。八剣神社に参ったのは何十年振りだろう!?父の故郷である尾立には、小 学生時代、夏休みの盆の時期の一週間位、いつも世話になっていた。だから、私にとっては土地鑑のある所である。冬の八剣神社の境内からは、尾立湾がきれい に見渡せる。夏は木が生い茂り、海は小さくしか見えない。神社の本殿にかかる絵馬を、初めてじっくりと見た。戦前の絵馬、そして明治初期の奉納の絵など、 神社の時間だけはゆるやかに流れていることを感じるのである。
そして、神社の寄附者の名前を無意識に目で追う。私と同じ名字を捜しているのである。近しい親戚はもういないと聞いてはいるが、同じ名字の人の名前を口にする自分がいる。
正月早々尾立に来たのは、マッサージを受けるためだ。かねてから聞いていた、痛いと評判のマッサージ治療をやって貰いにきたのだ。ギシギシ、グキグキと相当の荒療治だったが、そこは体全体を看る人のようで、適格なアドバイスを頂く。

忘年会、新年会と続く会合で気づいたことがある。挨拶をする人のスピーチのコトバが、みんなズレてるなあと思ってしまうことだ。
今の地域社会の状況を語るコトバがいつも判で押したように、マスコミの切り口と同じような展開だからである。“格差”“品格”“景気”。聴いている私た ちの反応といえば、テレビのコメンテーターの短いコトバがスタンダードになってしまっている。冗長で、聴き慣れたコトバだからこそ安心して聞き流してい る、そんなカンジだ。私たちは、異物が入るコトバが耳に入ることを結局は拒否しているのかもしれない。業界や地域だけの仲間内と認め合う人々の中で、地域 活性化や、政治でいう格差問題を自分たちに通用するコトバで語り合っているだけのようなのだ。日本の地方社会がドツボにはまった状態なのは、全国至るとこ ろに張りめぐらされた商工会議所や、○○クラブの集まりの保守的な付き合いにあるのではないか!?知った顔ばかりの中での勉強会のような集まりが、実は一 人一人の想像力をどんどんそぎ取る去勢の役割を果たしていると思うのである。有名な経済人の方々のコトバも、よくよく聴き入ると、独自のコトバの展開は殆 どなく、先人のコトバやアメリカンスタンダードのことを持ち出す人ばかり。自分のコトバを持たない経済人や政治家ばかりである。
“プロフェッショナル”のことをもう一度考えたい。あの人はプロだ、という見極めがつかない、認めない、判断出来ないことが、私たちの問題なのかもしれ ない。自分と同じノンプロと思いたいことが、仲間意識につながり、“皆で渡れば恐くない”式になってしまっている。“本物のプロ”のコトバを聞きたいと 思ったのである。

今年、本誌ですでに動き出している企画が二つある。一つは、街のお医者さんグループと料理人が共に作り出す“こだわりのヘルシーグルメメニュー”を呉か ら全国へ発信する企画。もう一つは、呉の酒蔵と居酒屋が合体して、地酒と地肴は、地元でどんどん味わおうよ、という“酒祭り”を作ろう、という企画。二つ の企画は、相反しているようで実は同じ方向を向いている。スローフードの考えを実行しようというものだ。ゆっくりとした気持ちで、速やかに進める。いいこ とを人に伝えることは実に楽しいことなのである。