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2011年10月号

火曜日, 9 月 20th, 2011

◯月◯日
私たちの心臓は一分間に60〜70回のペースで、かなり規則正しく打っている。
ところが、ハツカネズミの一拍は0.1秒もかからない。もう少し大きなドブネズミは0.2秒、ネコで0.3秒、人が約1秒、ウマで2秒、ゾウで3秒というふうに、サイズの大きい動物ほど一拍の時間が長くなる。ということで、心臓の時間は体重の四分の一乗に比例する。
本川達雄さんが、「ゾウの時間ネズミの時間」を著し、ベストセラーになったのは今から20年前である。本川さんは、ゾウとネズミのようにこれだけ生きるペースが違っていれば、世界の見え方や、時間のもつ意味や、その時間を使っての生き方が、動物ごとに大きく異なっていても不思議ではない、という時間論が話題になったのだ。
その本川さんの新刊「生物学的文明論」を読んだ。
その中で、ハツカネズミの寿命は2〜3年、インドゾウは70年ちかく生きる。時計の時間で比べれば、ゾウは桁違いに長生きだが、一生に心臓が打つ数は、どちらも同じ一五億回位である。そこで、ヒトの場合はどうかというと一五億回打ってもまだ41歳、まだ人生半ばなのである。
ところが40歳で人生半ばというのは、ごく最近のことで、縄文人時代の寿命は31歳、室町時代でも30歳代前半。江戸時代で40歳代、昭和22年に至ってもまだ50歳。みんながみんな、70だ、80だという状況になったのは、戦後60年、ごく最近のことである。
この長寿、医療の進歩はもちろんだが、上下水道などの衛生施設、豊かな食生活や住環境など、技術全般の進歩が長寿を支えてきたのだ。長い老いの時間は、医療をはじめとする技術が作り出したものといえる。だから、定年でリタイアした人間は、技術の作り出した「人工生命体」と自覚すべきというのである。
人生の前半は生物としての正規の部分、後半はその「人工生命体」という、二部構成で出来ているのが今の人生、と知るべきだという生物学的指摘だ。この二つの部分は大いに異なるものだと、きっちり覚悟して生きていくべき、と本川さんは訴える。
そして、老いの時間と若いときの時間の流れは明らかに違うことを実感する筈、とも言う。
ヒトの体重あたりのエネルギー消費量は、赤ん坊の時は非常に大きく、成長して
20歳を過ぎてからは、老年までゆるやかに減り続ける。これは、子供の時間は速く、老人の時間はゆっくりということを意味している。また、老人のエネルギー消費量は、子供の二・五分の一だから、老人の時間は子供の時間の二・五倍ゆっくりだということになる。ここでも子供はネズミ的、老人はゾウ的ということになる。
本川さんの「生物学的文明論」でいえば、定年後の人は姥捨山を目指すしかないようだが、そうそう死ぬわけにいかない、いつまでも生きたい人が殆どである。
老いの命は技術が生み出した「人工生命体」だと言ったが、技術で寿命を延ばせる生物など、ヒト以外にないのである。この「人工生命体」というのは、技術のたまもの、人類の英知の結晶、誇りに思うべきだ。英知が服を着ているのが老人なのである。
だとすれば、やはり英知の結晶にふさわしい生き方をしたいと一応は思うのである。
ではどうすればいいか?
本川さんはこう言う。定年後は忙しいビジネスの時間に付き合う必要がなくなり、人間らしい時間速度に戻れる。しかし、今の世は万事お金であり、金を稼ぐために忙しくビジネスに励む。では、何でそうする?に生物学的に答えれば、利己的遺伝子がそうさせているというのだ。
うまい物を食い精力をつけ、良い子を産みそうな相手を惚れさせ、いい家に住んで、安全に子を育てながら良い学校に行かせて、自分の子供の繁栄を図る。これらはすべて利己的遺伝子の欲求だ。利己的遺伝子の指令を受けて我々はせっせとお金を稼がされている。
生殖活動を卒業したことは、このような利己的遺伝子の支配から解放されたことを意味する。
本川さんは、生物学者としては、ここで利己主義の己、つまり私って何なんだ?ということを改めて考えてみたいと言います。
生物学的に言えば、子供は私であり、孫も私であり、私、私、私と私を伝えていくのが生物というもの。しかし、この個体だけが私というわけではない。時間的に個体を超えた広がりを持ったものが私なのである。
さらに、私というものは空間的にも個体を超えて広がったものだ。生物は環境に適応するように進化してきた。ある生物が生きている環境は、その生物にとってかけがいのないものであり、その環境がなくなれば、その生物も生存できなくなる。環境と生物とは一体なのである、。
それほど環境が大切なものだとすれば、環境も「私」の一部だと言っていい。
環境には土地や大気や温度などの物理的なものもあるし、家族やパートナーやペットや草花などの生物もある。パートナーを失うと、自分の半身を失ったような喪失感があるとよく言われる。パートナーが私の一部だからこそ、そう感じるのである。
だから、本川さんは、自分のパートナーも子供も、そしていつも使っている机も枕もわが家も、わが家の前の道路も、ご近所さんも角の公園も、そして日本も地球も、「私」の一部だと思っていると言われる。もちろん、道路やご近所の皆さんの「私度」は下がるが、でもみんな私をかたち作っているものであり、それを大切にしないということは、自分自身を大切にしないことに繋がる。
だからこそ安易に環境を変えるわけにはいかないし、環境を汚染するなどもってのほかだ。このように環境問題とは自分自身の問題なのだ、ととらえれば解決がずいぶん楽になる。今の日本人は、自分の体が占めている空間とこの体の一生という時間、それ以外は私でないととらえている。だからこそ、環境のことも、私の死後のことも、私とは関係ないと思い込んでいる。
このへんで「私」の見方を変えて、もう少し広く「私」をとらえることが何事にも大事だと本川先生は言われている。
本川達雄著「生物学的文明論(新潮新書)」はまさに「目からウロコ」の論考ばかり、東日本大震災後の我々日本人へのメッセージとして読んだのである。