Archive for 7 月, 2015

2015年8月号

金曜日, 7 月 17th, 2015

◯月◯日

ブゥオーッ、ブゥオーッという大き
なサイレンの音が突然呉の町中に響き
渡る。何ごとだ と思いきや、そうだ、
今日は呉空襲の日だったことを思い出
す。昼過ぎのサイレンに合わせて、黙
祷するならいだった。
その時である。ブゥオーッというサイ
レンに答えるように、ウォーン、ウォーッ
という犬の吠える声が重なって聞こえ 「防空壕を掘れ、掘れ」というきつい
てきた。隣りの家の犬である。犬の声 高く泣くようなウォーンがサイレンの ブォーッにハモることハモること―。あ まりの見事さに、黙祷から目を開けさ せられたのである。 そういえば、今頃和庄中学校下の小さ な公園で呉空襲の慰霊祭が行われてい る筈だ。今から 年前の7月1日の夜半、 和庄地区の防空壕に避難した人たちの 中で五百人以上の人が亡くなった。この 慰霊祭は 年続いたが、今年で最後に なるという。戦争を経験した人たちの 高齢化のため、ということは誰でも想 像できることだ。しかし、地域の歴史は、 その地域の人たちが伝えていかなけれ ばならない。 年前の戦争の中で呉地 域は大空襲に遭い、たくさんの人が防 空壕で亡くなった。その歴史を伝えて いかなければならないのである。 そんな中、呉空襲で和庄の防空壕に 逃げ込んだ自分の体験を語り継ぐため に紙芝居を製作した人がいる。中峠房 江さんだ。中峠さんは、本誌でもお馴 染みの絵本作家のよこみちさんに紙芝 居を依頼した。そして、出来上がった 紙芝居の初披露が最後の慰霊祭になっ たのである。
通達に従い、山際や丘陵地に横穴の壕 をたくさん作ったのである。日本一防 空壕密度の高い町が呉市だったのであ る
「飛燕の鮮やかさ」「満場アッと感嘆」 とある。前日の広島県総体の陸上女子 走り高跳びで、山下リエは1m の 日本記録を樹立したのである。その時 の山下はまだ 才、呉精華女学校(現 清水ヶ丘高)の生徒だった。 彼女は、 歳の頃からほぼ独学で三 段跳びや走り高跳びの練習を重ね 歳 で日本新記録を出したが、 年の東京 五輪で走り幅跳びが採用されると知 り、国際舞台を見据えて猛練習を始め ていた。 しかし、政府は国際情勢の悪化を受 けて五輪開催を返上。 年と 年の五 輪は中止となる。陸上選手として最高 潮のときを、戦争で奪われた山内は「悲 運のジャンパー」と呼ばれた。アスリー トとして最後の輝きを放つはずだった
年前、日本海軍の拠点だった呉市 はアメリカ軍の標的になった。呉の地 勢は三方を山に囲まれ、一方は港、海 軍や工廠地帯が広がるすり鉢の町であ る。その町に投下された爆弾は東京、 名古屋、大阪の大都市に次ぐ程、大量 の爆弾が投下された。戦時中の呉地域 は、敵のアメリカ軍に狙われているこ とを行政も住民も分かっていたから、
台地で、その前には原っぱが広がって ○月○日 いた。三本松の裏側は竹薮に覆われ、 中国新聞に〝戦後 年・戦争とアス そして地下には防空壕が貫通してい リート〟という連載4回目に、呉出身 る。まさに子どもが遊びたい魅力をた の山内リエ(1922年~2000年) くさん備えていたのがカンチだった。 が取り上げられている。彼女は、女子
しかし、この横穴式防空壕が、煙穴 が火を吸い込むような状態になり、熱 気と煙が入ってきて、避難した人たち の多くは意識がなくなり、そのまま亡 くなった人が多かった。そのことが戦 後分かったのである。防空壕が避難場 所足りえなかったのだ
戦後生まれの私にも防空壕の思い出 がある。特に団塊世代の人たちは、市 内のあちこちに残っていた防空壕で遊 んだことがある筈である。 呉市の防空壕の中でも有数の規模 だった壕が海軍病院の裏手にあった。 今の国立病院裏の坂道に入口があり、 清水ヶ丘高校の元テニス場に抜ける長 い防空壕だ。 この防空壕は、私の小学校時代の遊 び場だった。防空壕が貫通していた小 山は、地元では〝カンチ〟と呼ばれて いた。小山のてっぺんには〝三本松〟 という大きな松があった。清水通りか ら見たカンチは粘土質のハゲた段々の
年のロンドン五輪にも日本は参加を 許されなかった。ちなみにこの大会で の女子走り幅跳びの優勝記録は5m 695。山内が持つ6m の日本記録 を大きく下回っていた。
私たちは清水ヶ丘側の入口からまっ 暗な防空壕を探検して回った。曲がり 角ごとにロウソクを立てていたのだ が、やはり暗くてヒンヤリした防空壕 内の空気は何か恐いものを感じさせ た。病院の壕なので薬瓶や注射器の砕 けたガラスがまだ散乱していて、薬の 匂いがコンクリートの壁に染みついて いたような記憶がある。 防空壕の中心には教室が二つか三つ 入るような空間があった。その空間か ら病院の入口に続く壕は〝ズイドウ〟 と呼ばれていたことを後で知った。病 院の患者の避難所として使われ、千人 以上の収容規模だったという。 私たち悪童は〝、度胸試し〟と称して、 生意気な遊び仲間を誘っては防空壕に 入り、打ち合わせどおり壕の角のロウ ソクを次々と消して、まっ暗な防空壕 に置き去りにした。今思えば、これは まさにイジメである。置き去りにされ た子どもはいろんな行動に出た。すぐ に泣き出す奴、こちらが心配になる程 気配を消す奴、大声で置き去りにされ たことを怒る奴、色々である。私もも ちろん順番ように置き去りにされた。 そのときどう対処したのかは覚えてい ない。 私にとっての防空壕は、遊びの〝通 過儀礼〟の場所だった。
走り高跳び・走り幅跳びの元日本記 録保持者で、「呉のスーパーウーマン」 と呼ばれていた。
1936年 月4日の中国新聞の社 会面のトップ記事の小見出しに、
紙面が尽きるが、呉市が生んだ日本陸 上界の偉才・山内リエのことは次号で 紹介したいと思っている。

2015年7月号

金曜日, 7 月 17th, 2015

◯月◯日

今から70年前、昭和20年7月1日の夜半からアメリカ軍B29の呉空襲が始まった。死者2千人、家屋焼失2万戸以上、罪災者は12万人以上といわれている。
今号では、その昭和20年に呉市広町に住み、広空廠に勤務した神垣増雄さんの日記を13ページに渡って掲載した。
神垣さんは、昭和9年から37年までの日記を残している。その中の昭和20年、戦中、終戦、そして戦後の始まりの年、まさに戦災日記といえる呉の日常をありのままに記述しているのだ。
掲載した日記は1月8日の〝大詔奉戴日に際し、神風特別攻撃隊から贈られた鉢巻が手交された〟から始まり、12月14日〝敗戦犯罪者を徹底的に国民の前に引据へてやりたいものだ〟までである。
特に興味深いことは、神垣さんが広空廠の航空機部機体製図見習工として入り、飛工研工手として終戦を迎えるまで20年間に渡り勤務したベテラン技手であったこと、そしてまた広町の旧家の当主でもあったからである。
その神垣さんの綴る文章は、広空廠の工場疎開をしなければならないほどの戦況のことや広町の様子、そして日常の食糧難のことを、変わらない目線で、自分の言葉で記している。日記のページをめくるごとに、悲嘆、憤り、軽蔑、不安、絶望、希望、あきらめの感情が抑えた文章の行間からじわじわとにじみ出ているのである。
また、今号の神垣さんの日記のページの下に、昭和20年にアメリカ軍が撮影した呉の偵察写真を掲載している。
日記が書かれたときを同じくして、アメリカ軍は着々と呉と広島の空襲に向けて事前調査をしていたのである。
アメリカ軍の冷徹な戦略は、広島への原爆投下前まで空襲を受けた呉とは別に、広島へは空襲をしていないことでも分かるのだ。原爆による市街地の損害を精度に知るためだったのである。
神垣さんの日記の原本が掲載されている「呉戦災あれから60年」という本の中に「米軍による呉市民尋問録」というページがある。昭和20年の10月から12月にかけて、アメリカ戦略爆撃調査団が呉市民に対し尋問した記録である。
〝Q.アメリカが日本を空襲した時、その責任はどちらの側にあると思いましたか〟
〝Q.戦時中、戦争の指導者のやり方(施策)をどう思いましたか〟
〝Q.今後日本がどう変わらなければならないと考えますか〟
など、40ぐらいの質問をしてまとめている。
尋問された50〜60人の職業は様々で、主婦や労働者、そして芸者や娼婦もいた。
これほどまで徹底された戦略を遂行するアメリカという国のことを考えるのである。今から70年前に、すでに戦争戦略システムを作り上げていたアメリカという国は、つくづく恐ろしい国である。軍・産・学複合体国家であるアメリカのこの70年の歴史を見ると、なるほど、戦争を続けることでしか国の経済を維持できないという泥沼に陥っていることが分かる。
その泥沼のアメリカにどうしてもついて行きたいのが日本の政府らしい。今、国会審議されている安保法制改正案である。自衛隊の活動を広げる〝集団的自衛権行使〟のことだ。そこで一番に言われていることは、中東のホルムズ海峡が機雷で封鎖されると、日本に石油が入ってこなくなり、日本の存立が脅かされて国民の権利が覆される危険がある、とお上は申されている。
そこで思い出すのは、’91年の海上自衛隊呉基地のペルシャ湾派遣掃海部隊のことである。当時の政府の高度な政治判断で掃海艇派遣が決まり、日本を離れること一万三千km、187日の任務だった。
〝痩せて帰ってきた掃海艇隊員達!?〟という題で本誌の’91年12月号に掲載したことがあるのだ。当時、たまたま掃海部隊の一員として私の友人が派遣されていたことから、記事に出来たのだが、記事にしたのは食事のことなどほんのうわべのことで、実際の任務の危険な場面、目の前で起きるアメリカ軍の戦時攻撃のことなどは、実は書けなかった。戦争の渦中に入りそうな場面は多々あったのである。
政府は、この戦事派遣がまがりなりにも成功したことから、たとえば、という言い方でホルムズ海峡封鎖を事例にするのである。
自衛隊の出動を命じる政治家たちは、多分掃海艇がどのようなカタチのものか知らないことだろう。元々掃海艇は、本来は海岸近くで行動するから排水量は500トン位と小さく、磁気に反応する機雷を避けるために、船体は木造である。ペルシャ湾までの航行そのものが危ぶまれる艇なのである。だから、食糧保存の冷凍庫も小さなもので、掃海艇は長期航海にはまるで向いていないのだ。
このままいくと、掃海艇部隊のある呉基地に、政治家たちがまたぞろ派遣を命じそうな気配である。
「集団的自衛権行使」の今どきの最前線の現場に登場する主役は、実は呉基地の掃海艇部隊なのである。呉に住む隣りのおにいちゃん(自衛隊員)かもしれない。
戦争を続けなければ経済が持たないというアメリカという国家に追従したい日本の政府を、国民が認めているという現実を、同調しない人も含めて、そこのところを覚悟して暮らすしかないようである。
そんなことを考えながら、70年前の昭和20年の日記と絵本(とうせんばからの手紙)を編集しました。