Archive for 8 月, 2015

2015年9月号

水曜日, 8 月 19th, 2015

◯月◯日
ドカーン、ドカーンという花火の音が呉湾の方から聞こえてきた。呉の町の夏まつり、海上花火の音だ。夏まつりは今回で66回目だという。今年は〝戦後70年〟だから、始まりは昭和24年ということになる。
たしか昭和30年代の夏まつりはニ河プールが会場だった。水を抜いた競泳プールに舞台を作り、スタンドから盆踊りを見た記憶がある。クライマックスは何といっても花火だった。頭の真上に大きく広がる花火、そして腹の底に響くドカーンを思い出す。
子どもの頃の夏休みの思い出は、何故かはっきりと憶えている。真夏のグヮン、グヮンというセミの声を聞くと、いつも当時の夏休みの風景が蘇る。
一学期が終わり、待ちに待った夏休みが始まるのだが、終業式の頃が、一番ワクワク感が強かった。夏休みのスケジュールの中心はお盆に父母の故郷に行くことだった。倉橋島の尾立と秋田県の象潟である。秋田県は遠いから3・4年に一度位で、いつもは4・5日、倉橋島へお盆にかけて行っていた。それ以外は、大したスケジュールもなく、ニ河プールに何回通えるかなとか、早朝の小学校でのラジオ体操の判をどうやって誤魔化すかとか、友達と三角ベースをやることとか、遊ぶことばかり考えていて、勉強のことなど頭にない夏のボンクラだった。
そのボンクラが倉橋島へ行くと、何故かチヤホヤされてモテたのである。モテたといっても男の子にだ。当時は、呉に住む私は〝町っ子〟として見られていたようなのだ。親戚の家には、イトコの三歳年上の男と一歳上の女の子がいて、その友達がそれぞれ私と姉を遊んでくれるのだ。遊び場はどこにでもあった。キレイな砂浜や岩場での水遊び、段々畑でセミを標的に空気銃遊び(こんな悪いこともしていた!?)、小学校での卓球や三角ベース。尾立の迷路のような路地でカクレンボ――。
また、夜になると太鼓の音が町に響き、盆踊りの人出で路地がにぎやかになる。尾立の盆踊りのテンポは倉橋島で一番早く、踊りも輪になったり、男女の出合いの踊りになったりと、仲々艶っぽいのである。昔の島の盆踊りには、〝祭りだから無礼講〟のようなところがあったのだ。
浴衣を来たカップルが海辺などの闇に消えるのを追っかけて、私たち悪ガキは2B弾を擦ってパァーンと驚かし、一斉に逃げるというバカなことも遊びの一つだった。
そんな島での短い日々が終わり、呉に帰る船に乗るとき、どこからともなく船着き場にいて、恥ずかしそうに私を見送ってくれた風景を私は忘れえないのである。

○月○日
最近、立て続けに新聞に知人の貌を見い出す。
訃報では俳優の加藤武さん。私の師匠だった小沢昭一の親友で、私が研究生をしていた芸能座の座員だった。何しろ顔もコトバも恐かった。しかし、草野球の時だけはやさしかった。加藤さんが捕手、一塁には高橋悦史さんという文学座のメンバーと芸能座はよく試合をしたものだ。80歳を過ぎても体を鍛えていたそうで、ジムのサウナで急に亡くなられた。
破顔一笑の貌が素敵な、生粋の江戸っ子役者だった。
知人ではないが、作家の阿川弘之さんが亡くなられた。元大和ミュージアム名誉館長である。私の友人の縁で、阿川さんに本誌が発行したマンガの〝戦艦大和本〟を読んでもらい、感想を頂いたことがある。
中国新聞の〝どう見る安保関連法案〟のインタビューで、元海上自衛隊ペルシャ湾掃海派遣部隊指揮官だった落合畯さんが出ていた。〝自衛隊活動はまだ不十分。国際的に「安全ただ乗り」は通用しない〟と話されていた。落合さんは、太平洋戦争の沖縄戦で最後の司令官大田中将の息子である。私とは、噺家の桂才賀さんの縁で知り合った。落合さんが江田島の海自隊第一術校の校長のとき、無理をいって中級管理者講習(定年退職前の海自隊員がシャバに出る前の講習)を見学させていただいたことがある。そのときのことも思い出した。
続いて上嶋英機さんが、中国新聞SELECT〝想〟にエコツーリズムの推進というエッセイを掲載されていた。上嶋さんは、広の中工試から広島工大の教授になり、今年退職、瀬戸内海エコツーリズム協議会理事長をされている。今だに瀬戸内海の環境問題のキーマンである。
中国新聞経済面に〝新社長・中国放送、畑矢健治氏〟とある。私のよく知る畑矢さんではないか!
畑矢さんは中通りに生まれ、呉三津田高出身である。中国新聞の記者となり、呉支社にも二度赴任している。また、松江局長のとき、私が遊びに行って話が盛り上がったのは〝新聞社を早う辞めて、呉で二人でコミュニティ放送をやろうや〟という話。いやはや、広島の大マスコミ、中国放送の社長になってしまわれたのにはまいった。よくやったと拍手を送りつつ、あのときのことを思い出しながら苦笑いするのである。
続いてまだ紹介したい人がいるのだが、誌面が尽きました。また次号で。