Archive for 2 月, 2016

2016年3月号

木曜日, 2 月 18th, 2016

○月○日
青森空港は一面の雪景色。空港から弘前までの道路は両側1メートル位の雪の壁が続いていた。呉から弘前まで電車、新幹線、飛行機、バスと乗り継いで6時間あまり、やはり弘前は遠い。佐藤初女さんの葬儀に出席するために、5年振りに、弘前に来たのである。着いた足で、そのまま初女さんの家へ行き、霊前で焼香をすませる。初女さんは1月31日に病院に入院して、数時間で亡くなられた。乳ガンが肺に転移していたそうだ。10年前に初めてお会いして以来、1・2年に一度はお会いしていたが、少しずつ体が小さくなられるのを感じていた。しかし、初女さんは相変わらずお元気な様子で、初女さんは特別の人だから、100歳を越えても元気だろう、と周りの人たちも私も思い込もうとしていたところがあった。初女さんのガンの闘病は、医療にかかわず薬も飲まなかったそうで、いつもの食生活を続けてきたという。昨年、久し振りにご挨拶に伺おうと思っていたのだが、果たせなかったことが悔やまれる。初女さんと近しくして頂いたのは、やはり絵本の〝初女さんのおむすび〟を出版してからである。講演会のたびに絵本を取り寄せて会場で売って下さった。また、出版記念講演会を呉の森沢ホテルで開催し、翌日おむすび講習会も開いた。初女さんのおむすびは2枚の真四角のノリで包まれている。黒くて丸いおむすびはふんわりとしたご飯の中に梅干しが入り、ガブリとほうばりたいおむすびの形をしている。実際ガブリとやると、ご飯が口の中でほどけ、ご飯一粒一粒の味が立ってくる。同じご飯なのに、にぎるとどうしてこんなにおいしくなるのだろう、と初女さんのおむすびを食べた人は皆同じように思うのである。この〝初女さんのおむすび〟を講談として語らせたらどうだろうと考えて、介護講談で名を上げている田辺鶴瑛さんと共に弘前の森のイスキアを訪ねたことがある。初女さんの作る食事を一緒に頂き、おむすびの作り方をマンツーマンで習った鶴瑛さんは、お返しに即席の介護講談を語った。初女さんと鶴瑛さんを会わせた私は、講談〝初女さんのおむすび〟をすぐ書くはずだったのだが、いまだ書いていないのである。これも約束を果たしていない。亡くなった初女さんが伝え続けた〝食が大事〟ということを、本とは別のジャンル、講談で伝える約束を果たしたいと、いま思っている。

○月○日
母が介護施設に入ったので、空き家になった母の家の整理をしていたときのことである。たくさんの写真が入った手提げ袋を見つけた。中国での父の軍隊時代の写真、母の従軍看護婦の写真などその時代の中で生きた母の姿が写真に写し込まれていた。懐かしい。時がたつということは、良くも悪くも人間の記憶に膜をかけるが、母のいない家での古い写真束との出合いは、一瞬膜が消えてその時代が蘇るのである。そしてまた、写真の束にはさまった一通の手紙を見つけたことで重なった。あれ!?見た字だなと思い、差し出し人を見ると、なんと私である。それは19才になったばかりのときのものだった。私は東京での大学受験に失敗して浪人の身だった。手紙の内容は、要するにお金の無心である。当時の私は浪人なのだが、大学に行く気はなく映画を作る現場に入ろうとしていた。しかし、その業界の人たちは決まって大学を出てからの方がいいよ、と言うのである。自分の思いが弱かったんだろう、大学受験することに逃げこんだ私である。父にはこの手紙のことは言わないで下さい、と書いてある。高校を卒業して半年、まことに中途半端だらけの19才の私である。どうして母はこの手紙を取っておいたのだろう。と思いながら当時の母の写真をさがす。肥った母の写真ばかりである。介護施設にいる今の母はやせて、当時の面影は殆どない。自分が生きてきた過去のことを思い出せなくなってきた母に、小さなアルバムを作ろうとその時思ったのである。戦中、中国での従軍看護婦時代から、戦後結婚して呉れに住み始め、昭和の時代と共に生きた証を写真でつなぐこと。母が生きてきた人生アルバムである。今号は恒例の卒業高校生特集である。私も40数年前、呉宮原高校を卒業して東京に出た。しかし、素直な浪人ではなかった19才の私は、母にはお金の無心をする手紙を書いた。その手紙を偶然発見したことは、なんとも苦いというか複雑な思いが込み上げる出合いだった。青春時代の只中にいる卒業高校生のことを考えながら、いまこの文章を書いている。