Archive for 5 月, 2016

2016年6月号

火曜日, 5 月 24th, 2016

○月○日
今から30年前、1986年5月発行のくれえ版10号である。くれえ版は私を含めてボランティアで集まり始まった。2ヶ月に一回の発行で、〝10号まで突っ走ってガンバルので、何とか御支援をー〟と呼びかけ、10号までこぎつけた、その号である。休刊記念号と銘打った特別な仕様で、A4版136ページ、価格は580円という、なかばヤケッパチに編集した号だった。
〝1986年ただいま くれ〟と題して、この街を「動詞」(遊ぶ・つくる・みる・流行など)で切り取り編集したのである。
ちょうど30年たった今、読み返すと本当に感慨ものである。30年という時間が過ぎているのだが、地方都市くれはあまり変わっていないことが、感慨ものなのである。
変わっていない、というのは街に漂う気配のことだ。三方を山に囲まれた環境で、こじんまりとした風景の中に生きる私たち住民は、この風景に同化しないしぶとく粘りのある何パーセントかの人たちに引っぱられて歴史を重ねてきたから、と思ったのである。
人口減少と住民の高齢化が進み、閑散とした地元商店街の姿は、いまのくれと変わりはない。30年前とそれほど変わらないのである。マチの平地の風景はキレイになったようだが、その分人間の気配が薄くなった、
30年前のくれえ版、イロイロ教えてくれます。

○月○日
東京の新宿にあるゴールデン街が燃えていた。テレビのニュースに映し出されるゴールデン街を見て、延焼しないで欲しい、と祈ったのである。
東京にいた時、本当によく通い、よく飲んだ。常連だった店は〝ガルシアの首〟、サム・ペパンキー監督の映画名を付けた店だった。確か2代目のママさんのときで、作家の高橋三千綱さんも常連だった。当時のゴールデン街は、ボッタクリバーなど怪しい店と小さなスナックが隣り合わせで立ち並び、独特の気配漂う酔い処だった。
劇団にいた私は、芝居系の強いスナックによく連れて行かれた。スナックも映画系、文学系、マスコミ系と少しずつ色分けされていたのだろう。当時はそこまで考えつく余裕もなかった。ただただ、一握りのお金をつかんで、ゴールデン街を目指したものだ。お金もないのに何軒もハシゴをする、それが出来たのだから不思議である。今思い出そうとしても、細かいことが思い出せない。20代の青春時代、鬱屈とお祭りのときだった。
最後にゴールデン街に行ったのは25年ぐらい前か、確か友川かずきさんと一緒だった。ゴールデン街に繰り込む前に、花屋に寄り、ひと握りの花を、包装せずそのまま掴んで店に向かうカッコイイ友川さんを見て、〝こりゃ負けた〟と痛感したことを思い出した。

○月○日
今からちょうど100年前、大正5年、熊本で数日間に数十回(最大M5.7)の地震があり、その後、昭和6年(最大M6.3)にも群発地震があったことが記されている。それは、呉の郷土史家 北村恒信さんが編集した「広島県の地震」の中の年表である。
今だ終息しない今回の熊本地震。住民は、口を揃えて熊本は地震の薄い地域だと思っていたという。住民は、親と自分が生きた時間の中だけで考えがちだが、地震の時間単位は百年、千年単位で検証しなければならないという。
地震は必ず周期的に起きるといわれている。北村さんの「広島県の地震」は、679年から1979年までに近畿以西で発生した被害地震184件を年表にし、その震源地を地震の規模の大きさとして示しながら地図に落とし込んだ貴重な記録である。
広島・呉地域の地震は、宮崎沖の日向灘、安芸・伊予灘、そして山陰の鳥取・島根に連なる活断層で起きていることが分かるのだ。
今から15年前に起きた芸予地震の後に、本誌で北村さんにインタビューした記事も今号に再録している。
阪神大震災、東日本大震災、そして熊本地震と、立て続けに起きる地震列島に住む私たちは、日本人の心性「あきらめ」を心に留めながら、生きていくしかないのだろうか―。

2016年5月号

火曜日, 5 月 24th, 2016

○月○日
今年の山桜は例年以上に美しかった。休山と灰ヶ峰に咲く山桜のことである。呉は里山に咲く山桜、そして町中に咲く染井吉野と二つの桜が見られる町である。染井吉野の桜の名所は、二河川、二河峡、堺川、寺本公園、串山公園、音戸の瀬戸公園、大空山公園など枚挙にいとまがないほどで、呉は広島県でも屈指の桜の町なのである。
地元に暮らす私たちにとって、桜の咲くときは、一年に一度の自然の贈り物を受けるときである。だから、桜の開花は出来るだけ長くあって欲しいと、天気予報をいつになく気にするときでもある。
今年の桜の見頃は例年どおり、4月3日前後だった。4月3日といえば、“節句”の日。戦前から昭和30年代まで、この日の呉地域は休日だった。主な工場や会社は休みで、呉中が花見に出掛ける日だった。子供たちは春休み中だから、節句の日の次の日も山に登る残り節句を楽しんだ。花見のハシゴである。実に洒落たことをしていたものだ。まあ、今と違って食生活もまずしかったから、花見の重箱弁当はまさにハレの食だった。
当時の節句の思い出は多々ある。私は清水通りに住んでいたので、休山に登るルートは三のとりへ登る道だった。一のとりは頂上に近く、宮原五丁目から登るルートだ。節句の日は、朝から休山に登る花見客のざわめきが家の中にも聞こえてきた。昼頃になると、休山全体からザーッというかゴーッというか、自然の風ではない音が聞こえたことを思い出す。そんないつにない人山の音を聞くと、子供たちは早く山に登りたくてうずうずしていた。しかし、花見の主役は大人たちだから、酒やら重箱の料理やらゴザなどの点検で時間を食っている。うちの親父などは、花見に行く前から酒を飲んでいる風だった。
花見に酒はつきものだが、子供たちの飲み物は“トッピン”である。色のついたニッキ水だ。ひょうたんの形をしたトッピンをチビチビと惜しみながら飲んだものだ。
呉のもう一つの里山、灰ヶ峰には平原水源地という桜の名所があった。とにかく立錐の余地もないほど花見客が集まっていた。四方八方隣りのグループと肩すり寄せての花見だから、酔っぱらいの大声は方々で聞こえ、小さな喧嘩が起こるのも筋書どおりだった。うちの親父も花見になると酒に酔い喧嘩をしていた記憶がある。
平原水源地の桜は見事な眺めだったが、最近は桜が古木になり倒木の危険あり、と市が判断してばっさりと古木桜を伐ってしまった。それで怒ったのは地域住民である。長い間地域の桜として愛でていたのに、私たちに相談もなくいきなり伐るとは何事ぞ、と。しかし、ここは市の土地だから文句を言うな、とお上のお言葉である。
近年、呉では町中での名木桜の伐採が続いている。裁判所、労働基準局、中央公園、そして亀山神社参道などである。
地域の住民は、古木桜は枝振りもよく満開の姿は見事だといい、名木として称える。しかし、行政側は古木は倒木の恐れがあり、事故でも起きたら大変と、邪魔もの扱いである。行政の管理する桜は公共性の最たるものと思うのだが、桜も普通の樹木と同じ、差別してはならないという料簡らしい。
町の魅力の一つは、自然環境がどれほど町と共生しているかである。里山や里海、そして町を流れる川の環境、そして町の歴史を伝える環境がどれほど維持されているか、なのである。
伐ってしまったのだから、それこそ後の祭り、仕方がないなという町は人環境が悪い、やはり魅力がない町なのである。それはおかしいよ、と声を上げる。“公”に対して“私”たちがしっかりと対していなければ、実は“公”もすたるのである。
いま、公共という言葉が都合よく使われてしまっている。それが日本の様々な社会問題の解決を歪めてしまった。目先のことだけ考えて、専門業者にまかせ、効率がいいことを優先するのが、仕事が出来る奴となってしまっている。公務員は、公衆に奉仕するという“公僕”という言葉を忘却したらしい。
桜の木を伐ることから、こんなオーバーな話になってしまったが、言いたいことは、桜は一年ごとに私たちに大きな贈り物をくれているということだ。それを今年、つくづく思ったのである。
奈良の吉野の山桜ではないが、呉の休山、灰ヶ峰の山桜の素晴らしさに気づいたのだ。山容の緑の中にかすみをかけたように、ポツポツと白いところが見える。そして、その白いところがはっきりと緑の中から浮き出るようになる。ああ、山桜が開花したのだなと分かるのだが、まだはっきりとした桜の姿は見えない。それが満開の桜だと分かるとき、山全体の発色が変わり、何というか、いつも見ている山が一瞬別の山に見えてくるのである。
町中から休山と灰ヶ峰の満開の山桜を見た。そして、山に近づき山桜の姿を見ようとした。それから、また山桜の満開の下に立ってみた。山桜は近くに行けば一本一本見れるのだが、山全体の山桜は見えない。山桜の贈り物は山全体を見ることだと思ったのである。しかし、山容の山桜を見るには、見ようとする気持ちがないと見えないのである。見ることが出来る人は限られているらしい!?
来年こそ、休山と灰ヶ峰の山桜の贈り物を是非見て頂きたいと思ったのである。