2016年6月号

○月○日
今から30年前、1986年5月発行のくれえ版10号である。くれえ版は私を含めてボランティアで集まり始まった。2ヶ月に一回の発行で、〝10号まで突っ走ってガンバルので、何とか御支援をー〟と呼びかけ、10号までこぎつけた、その号である。休刊記念号と銘打った特別な仕様で、A4版136ページ、価格は580円という、なかばヤケッパチに編集した号だった。
〝1986年ただいま くれ〟と題して、この街を「動詞」(遊ぶ・つくる・みる・流行など)で切り取り編集したのである。
ちょうど30年たった今、読み返すと本当に感慨ものである。30年という時間が過ぎているのだが、地方都市くれはあまり変わっていないことが、感慨ものなのである。
変わっていない、というのは街に漂う気配のことだ。三方を山に囲まれた環境で、こじんまりとした風景の中に生きる私たち住民は、この風景に同化しないしぶとく粘りのある何パーセントかの人たちに引っぱられて歴史を重ねてきたから、と思ったのである。
人口減少と住民の高齢化が進み、閑散とした地元商店街の姿は、いまのくれと変わりはない。30年前とそれほど変わらないのである。マチの平地の風景はキレイになったようだが、その分人間の気配が薄くなった、
30年前のくれえ版、イロイロ教えてくれます。

○月○日
東京の新宿にあるゴールデン街が燃えていた。テレビのニュースに映し出されるゴールデン街を見て、延焼しないで欲しい、と祈ったのである。
東京にいた時、本当によく通い、よく飲んだ。常連だった店は〝ガルシアの首〟、サム・ペパンキー監督の映画名を付けた店だった。確か2代目のママさんのときで、作家の高橋三千綱さんも常連だった。当時のゴールデン街は、ボッタクリバーなど怪しい店と小さなスナックが隣り合わせで立ち並び、独特の気配漂う酔い処だった。
劇団にいた私は、芝居系の強いスナックによく連れて行かれた。スナックも映画系、文学系、マスコミ系と少しずつ色分けされていたのだろう。当時はそこまで考えつく余裕もなかった。ただただ、一握りのお金をつかんで、ゴールデン街を目指したものだ。お金もないのに何軒もハシゴをする、それが出来たのだから不思議である。今思い出そうとしても、細かいことが思い出せない。20代の青春時代、鬱屈とお祭りのときだった。
最後にゴールデン街に行ったのは25年ぐらい前か、確か友川かずきさんと一緒だった。ゴールデン街に繰り込む前に、花屋に寄り、ひと握りの花を、包装せずそのまま掴んで店に向かうカッコイイ友川さんを見て、〝こりゃ負けた〟と痛感したことを思い出した。

○月○日
今からちょうど100年前、大正5年、熊本で数日間に数十回(最大M5.7)の地震があり、その後、昭和6年(最大M6.3)にも群発地震があったことが記されている。それは、呉の郷土史家 北村恒信さんが編集した「広島県の地震」の中の年表である。
今だ終息しない今回の熊本地震。住民は、口を揃えて熊本は地震の薄い地域だと思っていたという。住民は、親と自分が生きた時間の中だけで考えがちだが、地震の時間単位は百年、千年単位で検証しなければならないという。
地震は必ず周期的に起きるといわれている。北村さんの「広島県の地震」は、679年から1979年までに近畿以西で発生した被害地震184件を年表にし、その震源地を地震の規模の大きさとして示しながら地図に落とし込んだ貴重な記録である。
広島・呉地域の地震は、宮崎沖の日向灘、安芸・伊予灘、そして山陰の鳥取・島根に連なる活断層で起きていることが分かるのだ。
今から15年前に起きた芸予地震の後に、本誌で北村さんにインタビューした記事も今号に再録している。
阪神大震災、東日本大震災、そして熊本地震と、立て続けに起きる地震列島に住む私たちは、日本人の心性「あきらめ」を心に留めながら、生きていくしかないのだろうか―。

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