2016年8月号

○月○日
永六輔さんが7月7日に亡くなっていた、というテロップが朝のテレビで流れた。少し前、永さんの超長寿ラジオ番組が終了、と新聞で報じられていたので、病状が悪化したのかな、と心配していたところだった。
永さんは10年位前からパーキンソン病を患い、長い間続いていた旅暮らしが出来なくなっていた。奥さんの昌子さんが亡くなった後でも、お元気な姿で呉に来られていたのだが、今から思うと病のためか、10年少し前から旅も少なくなっていたようだ。
テロップが流れた次の日、〝徹子の部屋〟が永さんの追悼番組を放送した。黒柳さんと永さんは何十年来の親友なので、番組にも年に一回位というように定期的に出演を続けていた。その収録された永さんの40代、50代、60代、70代と時とともに齢を経た姿が流れた。それは感慨深いものだった。そして、私が永さんに最初にお会いしたのは40代の頃、また時を経て呉に定期的に来られたのは60代だったんだと、思い出すのである。
永さんはテレビ草創期から、放送作家なのに自分の番組に出演する〝おもしろい人〟の先駆けだった。また歌の作詞家としても大ヒットを連発、一世を風靡した。とにかく多様なジャンルを超えての作家活動だったから、当時、〝永六輔〟を知らない人はいないという有名人だった。
私が永さんにお会いしたのは小沢昭一主宰の劇団〝芸能座〟の舞台のときである。第一回公演〝清水次郎長伝伝〟と第三回〝純情二重奏〜大笑い計量法・伝伝 〟だった。二本とも永さんの脚本である。〝純情二重奏〟は出演もされていた。私はこの舞台の地方公演に同行していた。同行といっても、私の役目は小沢さんの付き人兼舞台の裏方だった。その当時、永さんは舞台づいており、〝六輔七転八倒〟というバラエティのような舞台を続けていて、芸能座の研究生の私たちもよく駆り出されていた。
その後、私は東京から呉に戻り、くれえばんを始めたのだが、何年かして本誌にエッセイを連載していた内田順子さんが、永さんと交流があり、その縁で呉に来られるようになった。永さんとの縁が私にあったのである。
岩波新書で永さんの著書〝親と子〟、〝夫と妻〟の二冊に呉で講演をした二つの話が掲載されている。その二冊の中で、永さんと私は、こういう縁があったと、少しだけ書かれている。
その当時、永さんから二年に一度位か、不意にハガキが届くのである。〝○月○日、この一日、木戸さんにまかすから、お話をしに呉に行けますよ〟というハガキだ。このときの講演会は8月9日、午前中に長浜の専徳寺、昼から音戸の法専寺、夕方は和庄中学校体育館で開いた。入場料は無料だが、阪神大震災で被災した障害者支援のための〝ゆめ風基金〟の寄付を募るというものだ。永さんは講演を終えると、自ら会場の出口で募金箱を持つのである。くれえばん主催の会は、永さんはすべて無償の仕事だった。
その頃のことでおもしろいエピソードを思い出した。広島に永さんを迎えて行って、呉の講演会場に向かうのだが、昼前だったので、軽く昼食を摂ろうということになった。永さんと二人きりでの食事は初めてである。私はかねてから呉の冷麺を永さんに食べて貰おうと思っていたので、これはいいチャンスと思い、〝呉冷麺という呉独自の平麺で麺もかたくなく、うまいです〟とおすすめした。呉冷麺といえば、珍来軒と呉龍だが、永さんは麺がやわらくなくてはならないので呉龍にした。昼前の店の前には一台のタクシーが停まっているだけで、人の列も出来てはいない。店に入ると、客はタクシーの運転手らしい人ともう一人だけだった。常連らしい運転手は、なんと永さんのベストセラー本〝大往生〟を手にしながら、その話をしていたのである。〝大往生〟で盛り上がっているその場に、作者の永さんが突然現れたのだから、それはびっくりしただろう。そして、永さんも私も冷麺を食べているお客が、永さんの本を読んでいたことにまたびっくりしたのである。こんなびっくりすることがあったのである!?本物の永さんがカウンターに並んで冷麺を食べている姿に店内の人は口をあんぐりとさせていた。私も笑いをこらえながら冷麺をおいしく頂いたのである。
〝伊勢うどんも地方の名物だけど、この呉冷麺は伊勢うどんの衝撃を受けて以来の地方麺である〟とお墨付を頂いたが、永さんは〝大往生〟を読んでいたタクシー運転手の驚きの態度の方が実はおいしかったのかもしれない、と思ったりしたのだ。
小沢さんは常々、「日本の三大旅人」は西行法師、松尾芭蕉、そして永六輔であると断定!?していたが、永さん御本人は、民俗学の師である宮本常一こそ日本一の旅人として尊敬し続けていた。
もう何十年も前、その宮本先生に永さんは〝テレビの仕事をしたいのですが〟と相談したことがあったという。そのとき〝放送は日本中、世界中に電波が飛んでいく。もし、あなたが民俗学をやめて放送の世界へ行くなら、電波が飛んでいってるその現場に、自分の足で行ってほしい。電波が届いているその場所で考えて、そこでしゃべって、その言葉をスタジオに持って帰りなさい。絶対に、スタジオでものを考えるようなことはしてはいけない。それができるなら、放送の世界に行くことをあなたに勧めます〟この言葉は、今でも私の旅というものの考えの原点だといわれていた。
永さんは70歳を過ぎて、より一層人の死に方、自分の死に方を語ることが多くなってきていた。永さんのこのたびの自身の死に方は、自身の言葉どおり〝大往生〟だったとお聞きしている。
永さん、ありがとうございました。そして、おつかれさまでした。

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