2016年5月号

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○月○日
今年の山桜は例年以上に美しかった。休山と灰ヶ峰に咲く山桜のことである。呉は里山に咲く山桜、そして町中に咲く染井吉野と二つの桜が見られる町である。染井吉野の桜の名所は、二河川、二河峡、堺川、寺本公園、串山公園、音戸の瀬戸公園、大空山公園など枚挙にいとまがないほどで、呉は広島県でも屈指の桜の町なのである。
地元に暮らす私たちにとって、桜の咲くときは、一年に一度の自然の贈り物を受けるときである。だから、桜の開花は出来るだけ長くあって欲しいと、天気予報をいつになく気にするときでもある。
今年の桜の見頃は例年どおり、4月3日前後だった。4月3日といえば、“節句”の日。戦前から昭和30年代まで、この日の呉地域は休日だった。主な工場や会社は休みで、呉中が花見に出掛ける日だった。子供たちは春休み中だから、節句の日の次の日も山に登る残り節句を楽しんだ。花見のハシゴである。実に洒落たことをしていたものだ。まあ、今と違って食生活もまずしかったから、花見の重箱弁当はまさにハレの食だった。
当時の節句の思い出は多々ある。私は清水通りに住んでいたので、休山に登るルートは三のとりへ登る道だった。一のとりは頂上に近く、宮原五丁目から登るルートだ。節句の日は、朝から休山に登る花見客のざわめきが家の中にも聞こえてきた。昼頃になると、休山全体からザーッというかゴーッというか、自然の風ではない音が聞こえたことを思い出す。そんないつにない人山の音を聞くと、子供たちは早く山に登りたくてうずうずしていた。しかし、花見の主役は大人たちだから、酒やら重箱の料理やらゴザなどの点検で時間を食っている。うちの親父などは、花見に行く前から酒を飲んでいる風だった。
花見に酒はつきものだが、子供たちの飲み物は“トッピン”である。色のついたニッキ水だ。ひょうたんの形をしたトッピンをチビチビと惜しみながら飲んだものだ。
呉のもう一つの里山、灰ヶ峰には平原水源地という桜の名所があった。とにかく立錐の余地もないほど花見客が集まっていた。四方八方隣りのグループと肩すり寄せての花見だから、酔っぱらいの大声は方々で聞こえ、小さな喧嘩が起こるのも筋書どおりだった。うちの親父も花見になると酒に酔い喧嘩をしていた記憶がある。
平原水源地の桜は見事な眺めだったが、最近は桜が古木になり倒木の危険あり、と市が判断してばっさりと古木桜を伐ってしまった。それで怒ったのは地域住民である。長い間地域の桜として愛でていたのに、私たちに相談もなくいきなり伐るとは何事ぞ、と。しかし、ここは市の土地だから文句を言うな、とお上のお言葉である。
近年、呉では町中での名木桜の伐採が続いている。裁判所、労働基準局、中央公園、そして亀山神社参道などである。
地域の住民は、古木桜は枝振りもよく満開の姿は見事だといい、名木として称える。しかし、行政側は古木は倒木の恐れがあり、事故でも起きたら大変と、邪魔もの扱いである。行政の管理する桜は公共性の最たるものと思うのだが、桜も普通の樹木と同じ、差別してはならないという料簡らしい。
町の魅力の一つは、自然環境がどれほど町と共生しているかである。里山や里海、そして町を流れる川の環境、そして町の歴史を伝える環境がどれほど維持されているか、なのである。
伐ってしまったのだから、それこそ後の祭り、仕方がないなという町は人環境が悪い、やはり魅力がない町なのである。それはおかしいよ、と声を上げる。“公”に対して“私”たちがしっかりと対していなければ、実は“公”もすたるのである。
いま、公共という言葉が都合よく使われてしまっている。それが日本の様々な社会問題の解決を歪めてしまった。目先のことだけ考えて、専門業者にまかせ、効率がいいことを優先するのが、仕事が出来る奴となってしまっている。公務員は、公衆に奉仕するという“公僕”という言葉を忘却したらしい。
桜の木を伐ることから、こんなオーバーな話になってしまったが、言いたいことは、桜は一年ごとに私たちに大きな贈り物をくれているということだ。それを今年、つくづく思ったのである。
奈良の吉野の山桜ではないが、呉の休山、灰ヶ峰の山桜の素晴らしさに気づいたのだ。山容の緑の中にかすみをかけたように、ポツポツと白いところが見える。そして、その白いところがはっきりと緑の中から浮き出るようになる。ああ、山桜が開花したのだなと分かるのだが、まだはっきりとした桜の姿は見えない。それが満開の桜だと分かるとき、山全体の発色が変わり、何というか、いつも見ている山が一瞬別の山に見えてくるのである。
町中から休山と灰ヶ峰の満開の山桜を見た。そして、山に近づき山桜の姿を見ようとした。それから、また山桜の満開の下に立ってみた。山桜は近くに行けば一本一本見れるのだが、山全体の山桜は見えない。山桜の贈り物は山全体を見ることだと思ったのである。しかし、山容の山桜を見るには、見ようとする気持ちがないと見えないのである。見ることが出来る人は限られているらしい!?
来年こそ、休山と灰ヶ峰の山桜の贈り物を是非見て頂きたいと思ったのである。