2016年7月号

○月○日
毎年夏の時期になると、恒例の終戦企画モノがマスコミで一斉に始まる。
その中で、毎年のようにテレビで繰り返し放映され続けるアニメーション映画がある。野坂昭如作の「火垂るの墓」である。作者自身が遭った神戸空襲のことを描いた物語である。野坂昭如は直木賞作家であり、〝マリリンモンロー・ノーリターン〟などの歌手でもあり、また参議院議員を務めたこともある。とにかく多面的に〝コト〟を起こしていた野坂さんを、マスコミはいつも彼の後を追い続けていた。その野坂さんが13年前に脳梗塞で倒れ、マスコミの表舞台に立たなくなって久しかった。
今回掲載している野坂さんの日記は「新潮」や「新潮45」に連載されていた。私はその日記を読みながら、野坂さんの体調と諦観を想像した。しかし、時代の動きに対しては、警世、憂国のコトバがほとばしるがどこか哀調を帯びたもので、脳梗塞以前より深く静かであった。
13年間の歳月の中で、毎年夏になると戦争のことが記されている。繰り返し繰り返し〝戦争はしてはいけない〟とー。
改めて、野坂さんの日記の文章である。
6月某日
どこで何をしていようと、ぼくにとって忘れない日。
昭和20年のこの日、神戸上空をB29が来襲、午前6時すぎ、轟音が体にねじ込まれる如き圧迫感をともないつつ、そこかしこにうまれた。続いて、カンカンカン、パンパンパン、焼夷弾が落とされた。
気づけばあたりは火の海だった。記憶はとぎれとぎれに残っている。ぼくの家は焼け、父は行方不明。この日を境に、人生が変った。こんな経験は別に珍しくもない。
あの時代を生きた人間なら、それぞれが戦争の実態を知っている。
しかし、後世に戦争がどれほど伝えられたか。考えるほどに心もとない。
野坂さんは〝戦中派〟と呼ばれる昭和ヒトケタ世代である。その昭和ヒトケタ世代である呉出身の黒樹五郎さんが書かれた本が「花野-クレの少年」だ。そこから抜粋した文章を合わせて今号に掲載した。
呉は海軍と工廠と共に歴史を刻んできた町である。だから町の中心部はハイカラな都会と同じ風景の佇まいがあった。「花野」は黒樹少年の終戦の年16才までの自分史が綴られている。戦前のこの時代の暮らしは、残された市民の日記で垣間見ることが出来るが、少年の低い目線を通した巷の風景描写は、本当に貴重なのである。
この「花野」は戦後50年を過ぎて、著者が仕事をリタイアした後に、故郷の呉、自身の少年時代のことを書き残したものだ。次世代に伝えたいと私家本を刊行されたのである。いつも戦争の影がつきまとっていた時代を生き、そして終戦。「経済万能」、景気さえよければすべてよし、という戦後日本の時代を生き抜いた著者の黒樹さんの、忘れ去られる戦争のことを今さらながら伝えておかなければ、という自責の念も感じられるのだ。
戦前の呉の街の様子は、〝戦時中〟というコトバでひと括りにされがちな暗い暮らしのイメージではない。街の子どもたちは、親からのしつけやしきたりを守りながら、それまでと変りないところで街に密着して明るく生きていたのである。
終戦の年、昭和20年の春から夏にかけてのひどい空襲で、呉の町は焼け野原になる。戦前と戦後、街の風景が一変してしまう。著者は16才で東京の学校へ入るところで自分史を終えている。
この黒樹少年が呉を出発するのと同時期に、占領軍が呉に進駐してくる。呉の占領時代は戦後10年近く続くのである。
日本の近代史の歴史を地で歩んだ町が呉市だといわれる由縁である。
戦後世代の私も、占領軍の匂いというか、身近に強い記憶として残っていることがある。
現在の清水一丁目にある国立病院宿舎の台地は、戦後占領軍の宿舎が建てられていた。中心に緑豊かな丸い庭園があり、その周りに二階建の宿舎が並んでいた。昭和30年代になってこの占領軍が撤退して宿舎が空になった時期があった。鉄条網が張られた宿舎に、入り込んで遊んでいたのが、近所のワルガキである。私もその一人だった。
とにかく驚いたのは庭園の植物のことだ。見たこともないサボテンや花が見事に配置されていて、季節ごとに咲く植物が、がらんどうの宿舎の前で匂いを発しながら咲き誇っていた。その風景が忘れられない。占領した地にこんな庭を造り、暮らしのことを大事にする文化を持つ豊かな国と戦争をした日本のことを想ったのだ。〝こりゃあかなわなかったわけだ〟とー。
7月1日は呉空襲の日である。
本誌でも〝とうせんばからのてがみ〟という絵本を昨年掲載した。原作は杉山津矢子さん、絵はよこみちけいこさんである。杉山さんが呉空襲で焼け出されたのは8才の時である。物語は3才から8才までの活気溢れる東泉場の商店街が舞台である。
黒樹さんも杉山さんも、呉の町の歴史の中の一コマを物語として伝えたかったのである。