2016年6月号

2016年05月24日(火)

○月○日
今から30年前、1986年5月発行のくれえ版10号である。くれえ版は私を含めてボランティアで集まり始まった。2ヶ月に一回の発行で、〝10号まで突っ走ってガンバルので、何とか御支援をー〟と呼びかけ、10号までこぎつけた、その号である。休刊記念号と銘打った特別な仕様で、A4版136ページ、価格は580円という、なかばヤケッパチに編集した号だった。
〝1986年ただいま くれ〟と題して、この街を「動詞」(遊ぶ・つくる・みる・流行など)で切り取り編集したのである。
ちょうど30年たった今、読み返すと本当に感慨ものである。30年という時間が過ぎているのだが、地方都市くれはあまり変わっていないことが、感慨ものなのである。
変わっていない、というのは街に漂う気配のことだ。三方を山に囲まれた環境で、こじんまりとした風景の中に生きる私たち住民は、この風景に同化しないしぶとく粘りのある何パーセントかの人たちに引っぱられて歴史を重ねてきたから、と思ったのである。
人口減少と住民の高齢化が進み、閑散とした地元商店街の姿は、いまのくれと変わりはない。30年前とそれほど変わらないのである。マチの平地の風景はキレイになったようだが、その分人間の気配が薄くなった、
30年前のくれえ版、イロイロ教えてくれます。

○月○日
東京の新宿にあるゴールデン街が燃えていた。テレビのニュースに映し出されるゴールデン街を見て、延焼しないで欲しい、と祈ったのである。
東京にいた時、本当によく通い、よく飲んだ。常連だった店は〝ガルシアの首〟、サム・ペパンキー監督の映画名を付けた店だった。確か2代目のママさんのときで、作家の高橋三千綱さんも常連だった。当時のゴールデン街は、ボッタクリバーなど怪しい店と小さなスナックが隣り合わせで立ち並び、独特の気配漂う酔い処だった。
劇団にいた私は、芝居系の強いスナックによく連れて行かれた。スナックも映画系、文学系、マスコミ系と少しずつ色分けされていたのだろう。当時はそこまで考えつく余裕もなかった。ただただ、一握りのお金をつかんで、ゴールデン街を目指したものだ。お金もないのに何軒もハシゴをする、それが出来たのだから不思議である。今思い出そうとしても、細かいことが思い出せない。20代の青春時代、鬱屈とお祭りのときだった。
最後にゴールデン街に行ったのは25年ぐらい前か、確か友川かずきさんと一緒だった。ゴールデン街に繰り込む前に、花屋に寄り、ひと握りの花を、包装せずそのまま掴んで店に向かうカッコイイ友川さんを見て、〝こりゃ負けた〟と痛感したことを思い出した。

○月○日
今からちょうど100年前、大正5年、熊本で数日間に数十回(最大M5.7)の地震があり、その後、昭和6年(最大M6.3)にも群発地震があったことが記されている。それは、呉の郷土史家 北村恒信さんが編集した「広島県の地震」の中の年表である。
今だ終息しない今回の熊本地震。住民は、口を揃えて熊本は地震の薄い地域だと思っていたという。住民は、親と自分が生きた時間の中だけで考えがちだが、地震の時間単位は百年、千年単位で検証しなければならないという。
地震は必ず周期的に起きるといわれている。北村さんの「広島県の地震」は、679年から1979年までに近畿以西で発生した被害地震184件を年表にし、その震源地を地震の規模の大きさとして示しながら地図に落とし込んだ貴重な記録である。
広島・呉地域の地震は、宮崎沖の日向灘、安芸・伊予灘、そして山陰の鳥取・島根に連なる活断層で起きていることが分かるのだ。
今から15年前に起きた芸予地震の後に、本誌で北村さんにインタビューした記事も今号に再録している。
阪神大震災、東日本大震災、そして熊本地震と、立て続けに起きる地震列島に住む私たちは、日本人の心性「あきらめ」を心に留めながら、生きていくしかないのだろうか―。

2016年5月号

2016年05月24日(火)

○月○日
今年の山桜は例年以上に美しかった。休山と灰ヶ峰に咲く山桜のことである。呉は里山に咲く山桜、そして町中に咲く染井吉野と二つの桜が見られる町である。染井吉野の桜の名所は、二河川、二河峡、堺川、寺本公園、串山公園、音戸の瀬戸公園、大空山公園など枚挙にいとまがないほどで、呉は広島県でも屈指の桜の町なのである。
地元に暮らす私たちにとって、桜の咲くときは、一年に一度の自然の贈り物を受けるときである。だから、桜の開花は出来るだけ長くあって欲しいと、天気予報をいつになく気にするときでもある。
今年の桜の見頃は例年どおり、4月3日前後だった。4月3日といえば、“節句”の日。戦前から昭和30年代まで、この日の呉地域は休日だった。主な工場や会社は休みで、呉中が花見に出掛ける日だった。子供たちは春休み中だから、節句の日の次の日も山に登る残り節句を楽しんだ。花見のハシゴである。実に洒落たことをしていたものだ。まあ、今と違って食生活もまずしかったから、花見の重箱弁当はまさにハレの食だった。
当時の節句の思い出は多々ある。私は清水通りに住んでいたので、休山に登るルートは三のとりへ登る道だった。一のとりは頂上に近く、宮原五丁目から登るルートだ。節句の日は、朝から休山に登る花見客のざわめきが家の中にも聞こえてきた。昼頃になると、休山全体からザーッというかゴーッというか、自然の風ではない音が聞こえたことを思い出す。そんないつにない人山の音を聞くと、子供たちは早く山に登りたくてうずうずしていた。しかし、花見の主役は大人たちだから、酒やら重箱の料理やらゴザなどの点検で時間を食っている。うちの親父などは、花見に行く前から酒を飲んでいる風だった。
花見に酒はつきものだが、子供たちの飲み物は“トッピン”である。色のついたニッキ水だ。ひょうたんの形をしたトッピンをチビチビと惜しみながら飲んだものだ。
呉のもう一つの里山、灰ヶ峰には平原水源地という桜の名所があった。とにかく立錐の余地もないほど花見客が集まっていた。四方八方隣りのグループと肩すり寄せての花見だから、酔っぱらいの大声は方々で聞こえ、小さな喧嘩が起こるのも筋書どおりだった。うちの親父も花見になると酒に酔い喧嘩をしていた記憶がある。
平原水源地の桜は見事な眺めだったが、最近は桜が古木になり倒木の危険あり、と市が判断してばっさりと古木桜を伐ってしまった。それで怒ったのは地域住民である。長い間地域の桜として愛でていたのに、私たちに相談もなくいきなり伐るとは何事ぞ、と。しかし、ここは市の土地だから文句を言うな、とお上のお言葉である。
近年、呉では町中での名木桜の伐採が続いている。裁判所、労働基準局、中央公園、そして亀山神社参道などである。
地域の住民は、古木桜は枝振りもよく満開の姿は見事だといい、名木として称える。しかし、行政側は古木は倒木の恐れがあり、事故でも起きたら大変と、邪魔もの扱いである。行政の管理する桜は公共性の最たるものと思うのだが、桜も普通の樹木と同じ、差別してはならないという料簡らしい。
町の魅力の一つは、自然環境がどれほど町と共生しているかである。里山や里海、そして町を流れる川の環境、そして町の歴史を伝える環境がどれほど維持されているか、なのである。
伐ってしまったのだから、それこそ後の祭り、仕方がないなという町は人環境が悪い、やはり魅力がない町なのである。それはおかしいよ、と声を上げる。“公”に対して“私”たちがしっかりと対していなければ、実は“公”もすたるのである。
いま、公共という言葉が都合よく使われてしまっている。それが日本の様々な社会問題の解決を歪めてしまった。目先のことだけ考えて、専門業者にまかせ、効率がいいことを優先するのが、仕事が出来る奴となってしまっている。公務員は、公衆に奉仕するという“公僕”という言葉を忘却したらしい。
桜の木を伐ることから、こんなオーバーな話になってしまったが、言いたいことは、桜は一年ごとに私たちに大きな贈り物をくれているということだ。それを今年、つくづく思ったのである。
奈良の吉野の山桜ではないが、呉の休山、灰ヶ峰の山桜の素晴らしさに気づいたのだ。山容の緑の中にかすみをかけたように、ポツポツと白いところが見える。そして、その白いところがはっきりと緑の中から浮き出るようになる。ああ、山桜が開花したのだなと分かるのだが、まだはっきりとした桜の姿は見えない。それが満開の桜だと分かるとき、山全体の発色が変わり、何というか、いつも見ている山が一瞬別の山に見えてくるのである。
町中から休山と灰ヶ峰の満開の山桜を見た。そして、山に近づき山桜の姿を見ようとした。それから、また山桜の満開の下に立ってみた。山桜は近くに行けば一本一本見れるのだが、山全体の山桜は見えない。山桜の贈り物は山全体を見ることだと思ったのである。しかし、山容の山桜を見るには、見ようとする気持ちがないと見えないのである。見ることが出来る人は限られているらしい!?
来年こそ、休山と灰ヶ峰の山桜の贈り物を是非見て頂きたいと思ったのである。

2016年4月号

2016年03月18日(金)

○月○日
くれえばんの3月号といえば、恒例の卒業高校生特集である。この特集はすでに30年続いている本誌の看板特集の一つである。
地元の高校生は卒業すると、半分ぐらいの生徒は大学や専門学校への進学や就職で呉を後にする。そして、そのまま呉に帰ることなく、就職、結婚と、大都市など外の町で暮らす人も多い。そういう彼らにとっては、高校を卒業することは、同級生たちとの別れはもちろん、故郷呉の町や家族との別れを含む人生最初のターニングポイントのときに違いないのである。
そこでタウン誌の役割としては、故郷を去るかもしれない卒業生の一端として登場してもらい、この年はこんな卒業生が地域で学んでいましたと誌面に残すこと、これも町の歴史の一面だと思うからである。地域の高校すべてを網羅するこういう企画は、日本全国数あるタウン誌の中でも、唯一本誌だけなのだ。驚いたでしょう!?地域の高校の卒業生風景はまさに町の歳時記になっていました。
しかし、近年子の高校生特集にクレームがつくことが少しずつ増えてきていました。誌面に登場する生徒の制服姿についてである。化粧、髪、スカート、靴下など、校則違反している真面目そうでない生徒が誌面を飾ることは、学校側としてはイヤなのである。先生のモノサシに合った生徒ならよろしいということだった。
そんなことが重なって、最近では学校にお伺いを立てて生徒を取材することが多くなっていた。しかし、そうした学校側の推す生徒ばかり登場させていると、誌面が何というか単なる記念写真の羅列のようになってしまい、見るものを引きつけないのである。音楽やファッションに敏感な生徒や教室で笑いをとることに熱心な生徒は、やはり表情が豊かで誌面にも躍動感が生まれるのだ。そんな中から、今まで俳優の国生さゆり、歌手の清水綾子、島谷ひとみ、〝19〟などが誌面の中での出合いがあったのである。
そこで今年は停滞気味の高校生特集の中で、町のファッションコーディネーターに高校生を変身させるという企画を組み入れた。〝卒業高校生〟がモデルの〝ビフォー・アフター〟企画だった。モデルを頼んだのは、各校に取材したときに出合った生徒たちである。写真を見ると皆カワイイ子たちだった。その中でも目を引いて美形に変身していた生徒が広校生だった。濃茶色の髪がよく似合っていた。
ところがである。その広高校からクレームが来た。モデルになった生徒の髪が茶色になり、これは重大な校則違反である。モデルの写真は掲載しないで欲しいというのだ。本誌としては編集も最終で、差し替えは出来なかった。そうすると、広高から企画の題名の〝ビフォー・アフター〟の前に〝一日限りの変身〟というコトバを入れるという提案があった。ナルホド、そういうことでしたらということで〝一日限り〟のコトバを入れて対応した。
私としては、卒業式の3月1日は本誌3月号の発行日として記している(しかし、実際の発売日は22日)し、今までもまだ卒業していないときに卒業生を取材して〝卒業生特集〟としてきた長い歴史があり、学校にも許してもらえると思っていた。
そしてまた、広高から呼び出しの電話が入った。〝モデルになった生徒が学校でひどい教育指導を受けている〟という話を聞いていたので、これは行って話をした方がいいと思い、広高に伺った。
広高に着いて、事務室に入るなりイヤな予感が当たった。何人かの先生が私を睨みつけているのだ。アリャー、である。校長室に入るのに靴を脱いで、と言われる。珍らしい校長室だと思いは行ってみると、これがまた権威感プンプンの空間だった。長い大テーブルの向こう側には、校長、教頭、学年主任、学級担当、生徒指導の先生がずらりと並んで、ポツンと一人の私を事務室同様睨み続けている。おいおい、こんな空気の中で話をするのかと思い、またまた、アレアレである。
〝モデルの生徒は泣きながら今回の件の反省文を書いている。くれえばんは何ということをしでかしてくれたんだ〟
〝3月1日は卒業式だが、卒業しても3月31日までは広高の生徒だ。そんなこともあなたは知らないのか〟
と、校長を始め、一人一人の私への糾弾が一時間も続いたのである。いやはやである。私は30年以上地域でタウン誌をやっているが、こんな吊し上げのような場に出会おうとは思ってもみなかった。
先生たちは見るからに皆私より年下である。だが、学校ではそんな配慮は一切ない。〝あなたは無知だ〟と決めつけるコトバを聞けば聞くほど、学校の先生方との対話は〝時間の無駄〟だと思ったのである。
最後に生徒指導の先生に、あなたのもの言いや態度は気にくわない、と生徒のように言われてしまった。アチャーである。
それにしても今回の件で痛感したのは、私たちが住む地域社会と学校とは、コトバが通じないことが多過ぎるということだ。18歳以上の選挙権引き下げが決まり、卒業高校生はすぐにでも政治意識を持たなくてはならなくなった。高校の先生は生徒達はまだまだ子どもだと決めてつけているが、社会の方は、18歳は住民として主権者として対します、としている。
社会に合わせて学校を変えていく必要が出てきているが、今回の広高の先生方の硬直した貌とコトバを思い起こすと、暗澹とした気持ちだけが残るのである。
いろいろ書いてきたが、とにかく謝らなければならないのは、今回の企画のモデルになった生徒たちにである。本当に御迷惑をおかけしました。申しわけありませんでした。
ということで、〝卒業高校生〟の特集は今回限りで辞めることにしました。

2016年3月号

2016年02月18日(木)

○月○日
青森空港は一面の雪景色。空港から弘前までの道路は両側1メートル位の雪の壁が続いていた。呉から弘前まで電車、新幹線、飛行機、バスと乗り継いで6時間あまり、やはり弘前は遠い。佐藤初女さんの葬儀に出席するために、5年振りに、弘前に来たのである。着いた足で、そのまま初女さんの家へ行き、霊前で焼香をすませる。初女さんは1月31日に病院に入院して、数時間で亡くなられた。乳ガンが肺に転移していたそうだ。10年前に初めてお会いして以来、1・2年に一度はお会いしていたが、少しずつ体が小さくなられるのを感じていた。しかし、初女さんは相変わらずお元気な様子で、初女さんは特別の人だから、100歳を越えても元気だろう、と周りの人たちも私も思い込もうとしていたところがあった。初女さんのガンの闘病は、医療にかかわず薬も飲まなかったそうで、いつもの食生活を続けてきたという。昨年、久し振りにご挨拶に伺おうと思っていたのだが、果たせなかったことが悔やまれる。初女さんと近しくして頂いたのは、やはり絵本の〝初女さんのおむすび〟を出版してからである。講演会のたびに絵本を取り寄せて会場で売って下さった。また、出版記念講演会を呉の森沢ホテルで開催し、翌日おむすび講習会も開いた。初女さんのおむすびは2枚の真四角のノリで包まれている。黒くて丸いおむすびはふんわりとしたご飯の中に梅干しが入り、ガブリとほうばりたいおむすびの形をしている。実際ガブリとやると、ご飯が口の中でほどけ、ご飯一粒一粒の味が立ってくる。同じご飯なのに、にぎるとどうしてこんなにおいしくなるのだろう、と初女さんのおむすびを食べた人は皆同じように思うのである。この〝初女さんのおむすび〟を講談として語らせたらどうだろうと考えて、介護講談で名を上げている田辺鶴瑛さんと共に弘前の森のイスキアを訪ねたことがある。初女さんの作る食事を一緒に頂き、おむすびの作り方をマンツーマンで習った鶴瑛さんは、お返しに即席の介護講談を語った。初女さんと鶴瑛さんを会わせた私は、講談〝初女さんのおむすび〟をすぐ書くはずだったのだが、いまだ書いていないのである。これも約束を果たしていない。亡くなった初女さんが伝え続けた〝食が大事〟ということを、本とは別のジャンル、講談で伝える約束を果たしたいと、いま思っている。

○月○日
母が介護施設に入ったので、空き家になった母の家の整理をしていたときのことである。たくさんの写真が入った手提げ袋を見つけた。中国での父の軍隊時代の写真、母の従軍看護婦の写真などその時代の中で生きた母の姿が写真に写し込まれていた。懐かしい。時がたつということは、良くも悪くも人間の記憶に膜をかけるが、母のいない家での古い写真束との出合いは、一瞬膜が消えてその時代が蘇るのである。そしてまた、写真の束にはさまった一通の手紙を見つけたことで重なった。あれ!?見た字だなと思い、差し出し人を見ると、なんと私である。それは19才になったばかりのときのものだった。私は東京での大学受験に失敗して浪人の身だった。手紙の内容は、要するにお金の無心である。当時の私は浪人なのだが、大学に行く気はなく映画を作る現場に入ろうとしていた。しかし、その業界の人たちは決まって大学を出てからの方がいいよ、と言うのである。自分の思いが弱かったんだろう、大学受験することに逃げこんだ私である。父にはこの手紙のことは言わないで下さい、と書いてある。高校を卒業して半年、まことに中途半端だらけの19才の私である。どうして母はこの手紙を取っておいたのだろう。と思いながら当時の母の写真をさがす。肥った母の写真ばかりである。介護施設にいる今の母はやせて、当時の面影は殆どない。自分が生きてきた過去のことを思い出せなくなってきた母に、小さなアルバムを作ろうとその時思ったのである。戦中、中国での従軍看護婦時代から、戦後結婚して呉れに住み始め、昭和の時代と共に生きた証を写真でつなぐこと。母が生きてきた人生アルバムである。今号は恒例の卒業高校生特集である。私も40数年前、呉宮原高校を卒業して東京に出た。しかし、素直な浪人ではなかった19才の私は、母にはお金の無心をする手紙を書いた。その手紙を偶然発見したことは、なんとも苦いというか複雑な思いが込み上げる出合いだった。青春時代の只中にいる卒業高校生のことを考えながら、いまこの文章を書いている。

2016年2月号

2016年01月20日(水)

○月○日
旧暦では2月から新年賀始まる。今年はサル年だから、そのサルに関した多くの報道が新年早々続いている。その中で、宮崎県串間市の幸島で魚を食べるサルの記事が目に飛び込んできた。知る人ぞ知る、日本の霊長類学発祥の地〝幸島のサル〟のことだ。私は10年前、この幸島のサルに会いに行ったことがある。その時書いた私の文章である。

静かである。樹々の葉が風で揺れる、遠浅の砂浜に薄い波が打ち寄せる音。その砂浜をサルが駆けていく音。ときおり、時間を切りさくようにサルのキッキッという声が小さな湾に響きわたる。ここは宮崎県の幸島、本土から300m離れた小さな無人島である。その島に奥深い砂浜を持つ大泊湾にいる。私の目の前でサルたちが毛づくろい、グルーミングをしている。私から少し離れたところで、三戸サツヱさんがサルに囲まれるように座り、陽なたぼっこをしている。幸島の大泊湾は、何か時間の流れが止まったような不思議な感覚に包まれていた。野生のサルたちが自然のままで私と同じ風景の中にいる。この感覚をどう表現していいのだろう。船から降りて、島の土を踏み、すぐサルたちの姿がどんどん増えてくるのを目の当たりにした。私は〝百番目のサル〟の舞台になった砂浜にいることを、ただただ感激した。と同時に、私のサルたちへの意識過剰を見抜かれないようにと、少し構えた自分があった。しかし、そんな私の杞憂など吹きとばす風景画目の前に繰り広げられていたのである。三戸さんが撮影しやすいように、サルに豆をまいてくれた。その豆を拾い中の実を器用に食べるサルたち。海の中にもどんどん入って豆を拾って食べる。私はそんなサルたちをカメラで追う。そしてシャッターを切る。幸島のサルたちは、私が今まで見たことのない貌をしていた。おっとりとしておだやかな表情なのだ。ニホンザルってこんな愛らしい貌してるんだ、と思いながらファインダーをのぞいた。幸島に京都大学の霊長類研究グループがやってきたのは1948年。〝日本学士院エジンバラ公爵賞〟を受賞した河合雅雄さんもその一人だった。それから3年の歳月が流れ、世界で初めてサルの餌付けに成功する。研究者達は、幸島のサル一匹一匹に名前をつけた。サルの群れのボスにはカミナリと名付けた。カミナリは群れの中で、喧嘩が起きると、陽なたぼっこをしていても、飛んでいって的確に悪い方を叱りつけて仲裁する。ぼんやりとしているように見える時でも、いつも群れ全体に気を配っている。威張るだけではない、群れを守る責任感、統率力、正しい判断力を持ち、群れの仲間から深い信頼を受けるボスがカミナリだった。そのカミナリを中心に群れを作っている幸島のサルにも、いろいろな物語が生まれていた。中でも研究者達が目を疑う行為をするサルが現れたのである。1歳半のメスザルが餌付けの芋を川で洗って食べていたのである。そして、群れの中で芋を水洗いして食べるサルが徐々に増えていく。ある日、川の水が涸れたことがあった。しかし、そのメスザルは芋を海水で洗い食べ出した。海水の塩分でより芋が旨く感じたのか、その後海水で芋を洗って食べるサルがまた増えていった。そして、サルの群れの4分の3が芋を水洗いして食べるようになった。それから、しばらくして幸島から300kmも離れた大分県の高崎山のサルたちが。餌付けの芋を水洗いして食べはじめたのである!誰も芋の水洗いを教えたわけでもないのに、そういう行動の現象が同じ種のサルに共鳴するように、日本各地のサルたちに伝わったのである。イモ洗いするサルを見つけたのは、三戸サツヱさんである。昭和28年の夏のことだった。そのサルは〝イモ先生〟と名付けられ、京大研究者の学会発表で世界中に知られた。一匹のサルが水洗いをして食べる新しい行動を取りはじめると、それを真似るサルが出てくる。そして、その行動が群れの一定の比率以上に広まり、ある臨界点に達すると、遠く離れた地の場所のサルたちに伝播していった。〝あることを真実だと思う人の数が一定数に達すると、それは万人にとって真実となる〟ニューサイエンスの第一人者ライアル・ワトソンが〝百匹目の猿現象〟のことをこう言い表した。〝人間はなぜ戦争のように悪に走るのか、人間を知るために、その母体であるサルに行きついた〟元京都大学霊長類研究所の河合雅雄教授のコトバである。日本一、いや世界一あだやかな幸島のサルに会いに行ってみよう、と思ったのである。

2016年1月号

2016年01月20日(水)

○月○日
サンフレッチェ広島がJ1優勝を決めた。2年振り、3度目の栄冠である。それにしてもチャンピオンシップの準決勝と決勝2戦は見る者に感動を与える素晴らしい試合だった。決勝第2戦の広島地区のテレビ視聴率は、優勝瞬間時41.7%だったという。スゴイ数字である。〝広島の皆さん、優勝おめでとうございます!〟。森保監督の絶叫がスタジアムに響いたシーンに、また感動させられたのである。〝おめでとう〟と言いたいのはテレビを見ている私たちから、サンフレッチェを率いた代表の森保監督にである。それを逆に広島県民に先手を打った森保監督の思いには中々のものがあったのである。そもそも、サンフレッチェ広島は地方の一クラブであり、乏しい資金でのやりくりの歴史が続いている。そんな中で、毎年のように主力の退団も続いた。なにか、広島カープを見ているようなのである。クラブチームが安定した成績を残すには、安定した観客収入とスポンサーが不可欠である。一番の問題だったのは広島市郊外にあるスタジアムのことだった。エディオンスタジアムは元々アジア大会のメインスタジアムとして造られたもので、サッカー専用のスタジアムではない。だから、選手のパフォーマンスで観客と一体になる臨場感がどうやっても薄いものだった。また、完成して23年のスタジアムは老朽化も進んでいる。サッカー専用のスタジアムが広島に必要だったのである。私は、広島市の真ん中にあった市民球場が壊されたとき、すぐに思ったことはサッカー専用スタジアムを造ればいいということ。町の中を歩いて行けるスタジアムこそ最高の立地であり、中心商店街への波及効果も大きいことである、そして何より大事なのは、地元意識の求心力の高まりだ。〝広島にはカープがあるからいいじゃないか〟と言う人がいる。広島財政界のお年寄りに特に多いから、問題なのである。サッカーと野球というスポーツのことを考えてみるべきである。日本ではプロ野球や高校野球が人気だということは承知のこと。また、サッカーもJ1、高校サッカーと人気である。観客動員でいうと、野球がサッカーより多い。これは試合数が多いことによるが、選手の年俸を比べると野球が断然高く、日本でのスポーツ界の王者は今のところ野球ということになるだろう。しかし、世界のスポーツ界となれば、ダントツ、サッカーなのである。〝オリンピック〟より〝ワールドカップ〟の方がスポンサーでも観客拿も段違いの人気である。そのサッカー、Jリーグ優勝を4年間で3度果たしたサンフレッチェは、地方都市広島の宝であり誇りである。〝サッカーの力〟を地方都市広島に見せつけるためには、市民球場跡地に専用スタジアムを造ること。これこそ、広島経済にも県民の心にも潤いを与えることになるのである。もし、カープの黒田投手のような、物語のあるスター選手がサンフレッチェにいれば、観客動員も黙っていても増えることだろう。そのチャンスを作る第一歩、新スタジアム建設の決定は今しかないようである。本誌創刊時の30年前、札幌、仙台、広島、福岡の4都市の活性化が地方の自立を占うといわれ、記事にしたことがある。そして現在、4都市のうち一番弱いといわれていた福岡がダントツ活性化して上位、上位だった広島は下位に落ちたまま―。行政、財界、市民の選んだ道が先を読めなかったことには間違いない。何しろことの決定にスピードがない。この様々なことのスピードの遅れが都市間競争に負けるべくして負けてしまっている。多様な町を目ざさせない広島市の脱皮は、スタジアム建設にかかっている。

スタジアムではないが、いま呉市で一番目立つ建物は呉市役所の新庁舎である。新庁舎である。新庁舎建設まで、スッタモンダがあったが、あっという間に立派な建物が出来上がった。まだ外観しか分からないが、本当に立派なデザインの新庁舎だ。呉の中心地では、どこからも新庁舎の姿が見える。呉市のランドマークの建物になっている。「地方消滅」といわれる中で、「地方創生」と行政は意気込む。その空気の中でのハコモノ呉市新庁舎が完成した。同じハコモノの広島のサッカー専用スタジアム建設問題、どう解くのか私たち市民にかかっている。

2015年12月号

2015年11月18日(水)

○月○日
忘年会の季節である。
夕暮れの呉の町に多くの人出が見えると、いつの頃からか安心するような、ほっとする気持ちがわいてくる。
かれこれ30年以上、呉の中心街を見続けていると、ふと目の前の風景の中の人影の薄さに気づかされる。年々少なく感じる人出は、地方の多くの町の宿命といわれるが、町に暮らすに身にとっては寂しい思いがするのである。
それでも、忘年会の季節の12月と年度末の3月、週末ごとに多くの人出が中心街を包み込む。その賑わいを見るのは楽しいことだ。
当たり前のことだが、タウン誌の経営は町の経済がうまく回っていかなければ成り立たない。ということは、町に人出を作り出すことがタウン誌の役割なのだが、これが中々たやすいことではなくなってきている。
理由は、インターネットの普及でメディアが多様化して、日本の社会が情報過多に陥ってしまったからである。
例えば、ネットに出ている呉地域のグルメ情報を見てその店に行く。行く人の多くは、情報にあったメニューを画一的に注文する。いいとこ取りだけしたいのである。結果、その店の表面をなでただけの店訪問に終わってしまう。そして、皆一様に携帯電話で撮った画像が、自分のツイッターやブログに同じように出現する。また、彼らの流した情報がその店の採点としてカウントされる。それがまた多数の口コミ情報となりネットに定着することになる。
先日、国内最大のグルメサイト「食べログ」で、ランキングの不正操作があったことが明らかになった。それは、特定の飲食店に対して好意的な口コミを投稿して報酬を得る人達がいたというのだ。
これに対して〝消費者の信頼を裏切る行為だ〟と批判が上がったが、こうした問題はインターネットの構造上、常に起こりうるはずなのである。
しかし、その前に口コミサイトの評価をする人のことである。
〝料理について細かい論評を述べたい人達〟と〝携帯で料理の写真を撮ることをためらわない人達〟が下した判断にすぎない、ということを私達は承知していないといけない。
そこでタウン誌の出番!?といきたいところだが、残念ながらタウン誌はスポンサー頼りの経営であるからして、キレイごとでは済まされない事態があるのである。そんな中で、これだけは間違いないという店情報が、店主の存在、魅力を伝えることである。その店主の貌、声、話す言葉、動作、そして作り出すものに接することで、上辺だけではない本物を知るのである。店の魅力はすなわち店主に尽きること、これだけは間違いない。

今、都会ではスナックが元気だそうである。個人が経営する〝小さなスナック〟である。〝スナック〟という語感は私の20代、青春時代をもろに表しているのだが、今だに東京はスナック全盛だという。〝小さなスナック〟という唄もあったなぁ—。東京は青春時代がまだ続いているのか!?
‘70年代の東京、私もその現場にいた。それはそれはどこの社会も活気に満ち溢れていた。政治、経済、文化、あらゆる分野で体制派と反体制派が拮抗して主流を競い合った時代だ。地方出身者の若者が一人前になるための日々の戦いの中で、安らぎの場がスナックだった。
今でも思い出すのは、新宿ゴールデン街、渋谷道玄坂上のスナックだ。ボトルを入れていたので、安く飲めたのだ。食べ物メニューも多かったから居酒屋遣いもしていたのだろう。お金が許せば毎日でも通いたいぐらいだった。
それ等の店は、いつもカウンターには客がいて、店主と常連が店を仕切っていた。貧乏若者の私としては、パッとした金遣いをしたいのだが、出来ないのが現実だった。それでもスナックの常連扱いの客になれたのは、何だったんだろう。カタギの仕事ではない劇団という世界に身を置く、夢みる若者に愛の手を差しのべてくれたのかもしれない。
好きな食事は出来なかったが、行きつけのスナックに行けば酒にありつけた。そして、本当によく奢ってもらった。青春時代はまさに奢られ人生だった。そんなスナックで同じときを過ごした人達のことを、いま思い出すのである。

そこで、呉のスナックのことだ。呉でいう〝スタンド〟とスナックはどう違うの?とよく言われるが、全国的には呉のスタンドもスナックの中に入る。スタンドはスナックよりカウンターの中の女性の色気度が少々高い。故にセット料金がそれに比例して高い設定になる。毎日でも通いたいという客は、やはりスナックを目指す。食べ物メニューが充実して、チャージ代も安い。カラオケも唄えるオープンな雰囲気のスナックである。店主は女性でも男性でもいい、ただ演出家の店主であって欲しいのである。そんなスナックが呉の町に増えてきている、とスナックびいきな常連は口を揃える。
今号は恒例の忘年会特集を組んだ。忘年会は年に数少ないハレの会だ。日頃の鬱さ、たとえば〝わしはビールが飲みたい、発泡酒ではないビール、生ビールが飲みたいのだ〟という鬱さを晴らすのが忘年会である(笑)。そして、忘年会の2次会にはスナック(スタンド)に行きましょう。行きつけの店がない人は、そういう店を見つけましょう。
忘年会をやる。そのあなたの町づかいが呉の経済、文化を回すのです。
よろしく―。

2015年11月号

2015年11月18日(水)

◯月◯日

広島カープが最終戦で惨敗、クライマックスシリーズの出場はならなかった。この日の広島地区のテレビ視聴率は44・5%、プロ野球中継では過去最高を記録したという。
超満員のマツダスタジアムに駆けつけたファンの落胆たるや、察するに余りある試合だった。今年のカープを象徴する戦いだったからである。先発投手は5分以上投げるのだが、打撃陣が点を取れない。僅差のゲームになると、救援投手がコケてしまう。だから、いつまで経っても勝率が5割に届かない。ペナントレースで一度も首位に立てなかったのはカープだけだった。
今年のマツダスタジアムの入場者数は過去最高の211万人を数えた。一試合平均の入場者は2万人をゆうに越えていたのである。球場の客席を3万人にしておけばよかったと、今地団駄踏んでいるのは当の球団だろう。
それにしても今年のマツダスタジアムのチケットは取りにくかった。だから、今年は一度も球場へは行けていない。それでも、今日のカープはどうなっとるんかいのー、とテレビをつけるが中継をしていない。あれだけ〝カープ優勝〟と騒いでいた地元テレビ局が放送しない。いい視聴率が取れるのにどの局もやらないのである。
どうも、みなチグハグなのである。
そのチグハグの最たることが、緒方監督の采配だ、と酒飲み仲間とのカープ話で盛り下がる!?いや盛り上がったのだ。前日の試合で活躍した選手を使わない。データを重視して、登板投手との相性が悪いからだという。調子に乗りかけているのに出るハナを摘んでいる。野村前監督の失敗を継いでいるのだ。スコアボードの名前を見てもワクワク感が湧かないのである。
〝ほらのー、言わんこっちゃない、マツヤマを出しとけゃあええんよ〟
〝何で左投手には決まって右打者なんかのお。いつもワンパターンばっかしじゃ〟
と、頭のカタイ采配を振う監督やコーチを嘆くのである。
それに比べて、今年のヤクルトはどうだ!?という話になる。昨年の最下位から優勝という離れ技をやってのけた監督とコーチの態度は、敵ながらアッパレで、何か伸び伸びとして自由さを感じたのである。大主砲のバレンティンを欠きながら、すさまじい打撃陣を育てたチーム力には頭が下がるのである。また、トリプルスリーを達成した山田選手は、久々に球場で間近に見てみたいと思わせる選手である。一人の選手で客が呼べること、これは彼が日本プロ野球の宝になったということである。
そう、カープにもその宝がいることを忘れてはならない。黒田投手である。今年の観客動員の凄さは、黒田効果そのものだった。黒田が投げる試合は必死で勝ちにいかないといけないのに、打てない。落胆のため息が出る試合が多かった。
テレビに映るカープベンチの首脳陣の姿も、何かエラソーな感じがしたものである。そう、あのサングラスズラリの絵がそう感じさせるのだ。試合が劣勢なのに、なに気どっとるんな、という感じである。野村前監督のしょぼしょぼと飲料水を取る姿に、何か細かそうで、〝器〟がなさそーに見えたことを思い出した。そのことを酒仲間と話していたら、その〝しょぼしょぼ飲み〟は、実は噛みタバコのツバを出している風景だったことを教えられた。テレビは、監督の一挙一動がファンの視線にさらされていることを自覚すべきである。いや、その前にチームのナインの目が監督たちを見据えている筈なのである。
今年のカープは優勝だ、と騒ぎ立てた地元マスコミの方々、どうか反省して頂きたい。どこまで盛り上げたら気が済むんだというマスコミの仕掛けには、ちょっと異常なのめり方に見えたものである。
どうして優勝できなかったのか、クライマックスシリーズにも出れなかったのか、マスコミ各社は反省して、検証しなければ、また同じ轍を踏むことになるのである。
セリーグ順位4位という結果の責任は?と聞かれた緒方監督は、来年度の采配の糧にしますと答えた。責任を取ることには答えていないのだ。
今年のカープの話をすればする程、カープのリーダーと日本の政治家のコトバが重なって聞こえてくるのである。コトバで本論をはぐらかす。責任をあいまいにする。これを糧にこれからはガンバル。
要するに責任をとる覚悟がないのである。
カープ人気はいつまでも続くわけではないことを球団もマスコミもよく分かっている筈である。
私たちが考えないといけないのは、先を読むこと、目先ではつまらない。

2015年10月号

2015年11月18日(水)

◯月◯日

大和ミュージアム開館10周年シンポジウム「終戦70年を語り継ぐ」に行ってきた。パネリストに半藤一利さん、進行役に池上彰さんという、今をときめく論客が呉に集まったからである。
大和ミュージアムは、開館して10年目で入場者数が1千万人を越えた。その成功要因は何だったんだろう!?
10分の1戦艦「大和」が圧倒的な存在としてミュージアムの中心に据えられ、周りを呉の海事歴史やもの創りの展示をしていること。そして日本の近代史を呉を通して表現していることが分かりやすいといわれる。
しかし、ミュージアムの確たるバックボーンを強く表に出さないところがあった。そのところが、今回のシンポジウムでハッキリと聞こえて来たのである。
そのすべては、館長の戸髙さんのミュージアムデザインにあったのである。戸髙さんは、長い時間をかけて証言録「海軍反省会」を何巻も編集し、出版を続けている。現在も戦争をしたリーダー達の建前と本音の言葉を紡いでいる。
また、半藤さんはいま話題の映画「日本のいちばん長い日」の原作者で、昭和史研究の第一人者である。このお二人に通底するのは〝戦争の歴史の中の日本人論〟を伝えたいということだ。戦争を進めたリーダー達の資質を示すことで、日本は戦争をすると必ず間違いをおかすと言われるのである。
戸髙さんはシンポジウムの中で、〝大和が最後の特攻に出撃した理由とは、海軍のリーダー達は特攻に意味がないのは明らかだったが、海軍として最後の力を振り絞ったというカタチというか面子が必要だったから〟と言われた。
長い時間と巨額の予算、そして日本の最高の技術で造り上げた大鑑「大和」は沖縄への特攻のために出撃して、予想通り3千名の生命とともに爆沈した。
〝戦争はかくもはかなくむなしい歴史〟だということが大和ミュージアムのバックボーンなのである。
そして戦後70年のいま、当時を知る人が減り、戦争が体験として語られる時代から歴史として語られる時代になった。ミュージアムの役割は、今からより重要になると戸髙さんは言われる。
今まで、広島の原爆資料館は〝サヨク〟、呉の大和ミュージアムは〝ウヨク〟とマスコミは決めつけてきたようだが、大和ミュージアムの入場者数の成功が、政治的な〝右・左〟を取り払い、ありのままの歴史、真ん中のミュージアムとして、すでに受け入れられているのだ。
ヒロシマと呉のミュージアムは、同じ戦争がテーマのミュージアムなのに、ヒロシマは今だ呉に背を向けたままである。今回のシンポジウム「終戦70年を語り継ぐ」をヒロシマに聞かせたかった——。
○月○日
呉市の新庁舎建設工事は着々と進み、立派な外観が見えてきている。中央公園側から見ると、現庁舎と新庁舎の差が歴然としていることが分かる。何しろ立派なのである。建築予算はどんどん増額してついに160億円を超えた。
2年前に新庁舎建設工事入札が2度不成立になり、建設をどうして急ぐんだ!?という市民の多くの意見があった。しかし、市議会と行政は、決めたことだから粛々と進めるだけ、と意に介しない。
総事業費160億円は中国地方で建て替えを計画する自治体で最高額といわれ、どうなっとるんかいのー、と思っていたら、東京オリンピックの新国立競技場は2千億円から3千億円位の事業費がかかると分かり問題になった。それで、スッタモンダがあって、1500億円に落ち着いた。それらの数字を見ていると、100億円、200億円の上下は大したことがないように映ってしまう。振り返って、呉の新庁舎の金額が巨額だと思わなくなるから、不思議である。
日本という国は借金で首が回らない筈なのに、いまだにハコモノをどんどん日本中で造り続けようている。
地方に住む私たちは、日本とは東京のことだ、といつもマスコミから上意下達され続けていることを自覚するべきである。
東京がおかしくなると、一番にそのとばっちりを受けるのは地方なのである。
呉市の新庁舎と現庁舎が並んでいる風景は今だけである。是非御観覧あれ——。

2015年9月号

2015年08月19日(水)

◯月◯日
ドカーン、ドカーンという花火の音が呉湾の方から聞こえてきた。呉の町の夏まつり、海上花火の音だ。夏まつりは今回で66回目だという。今年は〝戦後70年〟だから、始まりは昭和24年ということになる。
たしか昭和30年代の夏まつりはニ河プールが会場だった。水を抜いた競泳プールに舞台を作り、スタンドから盆踊りを見た記憶がある。クライマックスは何といっても花火だった。頭の真上に大きく広がる花火、そして腹の底に響くドカーンを思い出す。
子どもの頃の夏休みの思い出は、何故かはっきりと憶えている。真夏のグヮン、グヮンというセミの声を聞くと、いつも当時の夏休みの風景が蘇る。
一学期が終わり、待ちに待った夏休みが始まるのだが、終業式の頃が、一番ワクワク感が強かった。夏休みのスケジュールの中心はお盆に父母の故郷に行くことだった。倉橋島の尾立と秋田県の象潟である。秋田県は遠いから3・4年に一度位で、いつもは4・5日、倉橋島へお盆にかけて行っていた。それ以外は、大したスケジュールもなく、ニ河プールに何回通えるかなとか、早朝の小学校でのラジオ体操の判をどうやって誤魔化すかとか、友達と三角ベースをやることとか、遊ぶことばかり考えていて、勉強のことなど頭にない夏のボンクラだった。
そのボンクラが倉橋島へ行くと、何故かチヤホヤされてモテたのである。モテたといっても男の子にだ。当時は、呉に住む私は〝町っ子〟として見られていたようなのだ。親戚の家には、イトコの三歳年上の男と一歳上の女の子がいて、その友達がそれぞれ私と姉を遊んでくれるのだ。遊び場はどこにでもあった。キレイな砂浜や岩場での水遊び、段々畑でセミを標的に空気銃遊び(こんな悪いこともしていた!?)、小学校での卓球や三角ベース。尾立の迷路のような路地でカクレンボ――。
また、夜になると太鼓の音が町に響き、盆踊りの人出で路地がにぎやかになる。尾立の盆踊りのテンポは倉橋島で一番早く、踊りも輪になったり、男女の出合いの踊りになったりと、仲々艶っぽいのである。昔の島の盆踊りには、〝祭りだから無礼講〟のようなところがあったのだ。
浴衣を来たカップルが海辺などの闇に消えるのを追っかけて、私たち悪ガキは2B弾を擦ってパァーンと驚かし、一斉に逃げるというバカなことも遊びの一つだった。
そんな島での短い日々が終わり、呉に帰る船に乗るとき、どこからともなく船着き場にいて、恥ずかしそうに私を見送ってくれた風景を私は忘れえないのである。

○月○日
最近、立て続けに新聞に知人の貌を見い出す。
訃報では俳優の加藤武さん。私の師匠だった小沢昭一の親友で、私が研究生をしていた芸能座の座員だった。何しろ顔もコトバも恐かった。しかし、草野球の時だけはやさしかった。加藤さんが捕手、一塁には高橋悦史さんという文学座のメンバーと芸能座はよく試合をしたものだ。80歳を過ぎても体を鍛えていたそうで、ジムのサウナで急に亡くなられた。
破顔一笑の貌が素敵な、生粋の江戸っ子役者だった。
知人ではないが、作家の阿川弘之さんが亡くなられた。元大和ミュージアム名誉館長である。私の友人の縁で、阿川さんに本誌が発行したマンガの〝戦艦大和本〟を読んでもらい、感想を頂いたことがある。
中国新聞の〝どう見る安保関連法案〟のインタビューで、元海上自衛隊ペルシャ湾掃海派遣部隊指揮官だった落合畯さんが出ていた。〝自衛隊活動はまだ不十分。国際的に「安全ただ乗り」は通用しない〟と話されていた。落合さんは、太平洋戦争の沖縄戦で最後の司令官大田中将の息子である。私とは、噺家の桂才賀さんの縁で知り合った。落合さんが江田島の海自隊第一術校の校長のとき、無理をいって中級管理者講習(定年退職前の海自隊員がシャバに出る前の講習)を見学させていただいたことがある。そのときのことも思い出した。
続いて上嶋英機さんが、中国新聞SELECT〝想〟にエコツーリズムの推進というエッセイを掲載されていた。上嶋さんは、広の中工試から広島工大の教授になり、今年退職、瀬戸内海エコツーリズム協議会理事長をされている。今だに瀬戸内海の環境問題のキーマンである。
中国新聞経済面に〝新社長・中国放送、畑矢健治氏〟とある。私のよく知る畑矢さんではないか!
畑矢さんは中通りに生まれ、呉三津田高出身である。中国新聞の記者となり、呉支社にも二度赴任している。また、松江局長のとき、私が遊びに行って話が盛り上がったのは〝新聞社を早う辞めて、呉で二人でコミュニティ放送をやろうや〟という話。いやはや、広島の大マスコミ、中国放送の社長になってしまわれたのにはまいった。よくやったと拍手を送りつつ、あのときのことを思い出しながら苦笑いするのである。
続いてまだ紹介したい人がいるのだが、誌面が尽きました。また次号で。