2016年4月号

2016年03月18日(金)

○月○日
くれえばんの3月号といえば、恒例の卒業高校生特集である。この特集はすでに30年続いている本誌の看板特集の一つである。
地元の高校生は卒業すると、半分ぐらいの生徒は大学や専門学校への進学や就職で呉を後にする。そして、そのまま呉に帰ることなく、就職、結婚と、大都市など外の町で暮らす人も多い。そういう彼らにとっては、高校を卒業することは、同級生たちとの別れはもちろん、故郷呉の町や家族との別れを含む人生最初のターニングポイントのときに違いないのである。
そこでタウン誌の役割としては、故郷を去るかもしれない卒業生の一端として登場してもらい、この年はこんな卒業生が地域で学んでいましたと誌面に残すこと、これも町の歴史の一面だと思うからである。地域の高校すべてを網羅するこういう企画は、日本全国数あるタウン誌の中でも、唯一本誌だけなのだ。驚いたでしょう!?地域の高校の卒業生風景はまさに町の歳時記になっていました。
しかし、近年子の高校生特集にクレームがつくことが少しずつ増えてきていました。誌面に登場する生徒の制服姿についてである。化粧、髪、スカート、靴下など、校則違反している真面目そうでない生徒が誌面を飾ることは、学校側としてはイヤなのである。先生のモノサシに合った生徒ならよろしいということだった。
そんなことが重なって、最近では学校にお伺いを立てて生徒を取材することが多くなっていた。しかし、そうした学校側の推す生徒ばかり登場させていると、誌面が何というか単なる記念写真の羅列のようになってしまい、見るものを引きつけないのである。音楽やファッションに敏感な生徒や教室で笑いをとることに熱心な生徒は、やはり表情が豊かで誌面にも躍動感が生まれるのだ。そんな中から、今まで俳優の国生さゆり、歌手の清水綾子、島谷ひとみ、〝19〟などが誌面の中での出合いがあったのである。
そこで今年は停滞気味の高校生特集の中で、町のファッションコーディネーターに高校生を変身させるという企画を組み入れた。〝卒業高校生〟がモデルの〝ビフォー・アフター〟企画だった。モデルを頼んだのは、各校に取材したときに出合った生徒たちである。写真を見ると皆カワイイ子たちだった。その中でも目を引いて美形に変身していた生徒が広校生だった。濃茶色の髪がよく似合っていた。
ところがである。その広高校からクレームが来た。モデルになった生徒の髪が茶色になり、これは重大な校則違反である。モデルの写真は掲載しないで欲しいというのだ。本誌としては編集も最終で、差し替えは出来なかった。そうすると、広高から企画の題名の〝ビフォー・アフター〟の前に〝一日限りの変身〟というコトバを入れるという提案があった。ナルホド、そういうことでしたらということで〝一日限り〟のコトバを入れて対応した。
私としては、卒業式の3月1日は本誌3月号の発行日として記している(しかし、実際の発売日は22日)し、今までもまだ卒業していないときに卒業生を取材して〝卒業生特集〟としてきた長い歴史があり、学校にも許してもらえると思っていた。
そしてまた、広高から呼び出しの電話が入った。〝モデルになった生徒が学校でひどい教育指導を受けている〟という話を聞いていたので、これは行って話をした方がいいと思い、広高に伺った。
広高に着いて、事務室に入るなりイヤな予感が当たった。何人かの先生が私を睨みつけているのだ。アリャー、である。校長室に入るのに靴を脱いで、と言われる。珍らしい校長室だと思いは行ってみると、これがまた権威感プンプンの空間だった。長い大テーブルの向こう側には、校長、教頭、学年主任、学級担当、生徒指導の先生がずらりと並んで、ポツンと一人の私を事務室同様睨み続けている。おいおい、こんな空気の中で話をするのかと思い、またまた、アレアレである。
〝モデルの生徒は泣きながら今回の件の反省文を書いている。くれえばんは何ということをしでかしてくれたんだ〟
〝3月1日は卒業式だが、卒業しても3月31日までは広高の生徒だ。そんなこともあなたは知らないのか〟
と、校長を始め、一人一人の私への糾弾が一時間も続いたのである。いやはやである。私は30年以上地域でタウン誌をやっているが、こんな吊し上げのような場に出会おうとは思ってもみなかった。
先生たちは見るからに皆私より年下である。だが、学校ではそんな配慮は一切ない。〝あなたは無知だ〟と決めつけるコトバを聞けば聞くほど、学校の先生方との対話は〝時間の無駄〟だと思ったのである。
最後に生徒指導の先生に、あなたのもの言いや態度は気にくわない、と生徒のように言われてしまった。アチャーである。
それにしても今回の件で痛感したのは、私たちが住む地域社会と学校とは、コトバが通じないことが多過ぎるということだ。18歳以上の選挙権引き下げが決まり、卒業高校生はすぐにでも政治意識を持たなくてはならなくなった。高校の先生は生徒達はまだまだ子どもだと決めてつけているが、社会の方は、18歳は住民として主権者として対します、としている。
社会に合わせて学校を変えていく必要が出てきているが、今回の広高の先生方の硬直した貌とコトバを思い起こすと、暗澹とした気持ちだけが残るのである。
いろいろ書いてきたが、とにかく謝らなければならないのは、今回の企画のモデルになった生徒たちにである。本当に御迷惑をおかけしました。申しわけありませんでした。
ということで、〝卒業高校生〟の特集は今回限りで辞めることにしました。

2016年3月号

2016年02月18日(木)

○月○日
青森空港は一面の雪景色。空港から弘前までの道路は両側1メートル位の雪の壁が続いていた。呉から弘前まで電車、新幹線、飛行機、バスと乗り継いで6時間あまり、やはり弘前は遠い。佐藤初女さんの葬儀に出席するために、5年振りに、弘前に来たのである。着いた足で、そのまま初女さんの家へ行き、霊前で焼香をすませる。初女さんは1月31日に病院に入院して、数時間で亡くなられた。乳ガンが肺に転移していたそうだ。10年前に初めてお会いして以来、1・2年に一度はお会いしていたが、少しずつ体が小さくなられるのを感じていた。しかし、初女さんは相変わらずお元気な様子で、初女さんは特別の人だから、100歳を越えても元気だろう、と周りの人たちも私も思い込もうとしていたところがあった。初女さんのガンの闘病は、医療にかかわず薬も飲まなかったそうで、いつもの食生活を続けてきたという。昨年、久し振りにご挨拶に伺おうと思っていたのだが、果たせなかったことが悔やまれる。初女さんと近しくして頂いたのは、やはり絵本の〝初女さんのおむすび〟を出版してからである。講演会のたびに絵本を取り寄せて会場で売って下さった。また、出版記念講演会を呉の森沢ホテルで開催し、翌日おむすび講習会も開いた。初女さんのおむすびは2枚の真四角のノリで包まれている。黒くて丸いおむすびはふんわりとしたご飯の中に梅干しが入り、ガブリとほうばりたいおむすびの形をしている。実際ガブリとやると、ご飯が口の中でほどけ、ご飯一粒一粒の味が立ってくる。同じご飯なのに、にぎるとどうしてこんなにおいしくなるのだろう、と初女さんのおむすびを食べた人は皆同じように思うのである。この〝初女さんのおむすび〟を講談として語らせたらどうだろうと考えて、介護講談で名を上げている田辺鶴瑛さんと共に弘前の森のイスキアを訪ねたことがある。初女さんの作る食事を一緒に頂き、おむすびの作り方をマンツーマンで習った鶴瑛さんは、お返しに即席の介護講談を語った。初女さんと鶴瑛さんを会わせた私は、講談〝初女さんのおむすび〟をすぐ書くはずだったのだが、いまだ書いていないのである。これも約束を果たしていない。亡くなった初女さんが伝え続けた〝食が大事〟ということを、本とは別のジャンル、講談で伝える約束を果たしたいと、いま思っている。

○月○日
母が介護施設に入ったので、空き家になった母の家の整理をしていたときのことである。たくさんの写真が入った手提げ袋を見つけた。中国での父の軍隊時代の写真、母の従軍看護婦の写真などその時代の中で生きた母の姿が写真に写し込まれていた。懐かしい。時がたつということは、良くも悪くも人間の記憶に膜をかけるが、母のいない家での古い写真束との出合いは、一瞬膜が消えてその時代が蘇るのである。そしてまた、写真の束にはさまった一通の手紙を見つけたことで重なった。あれ!?見た字だなと思い、差し出し人を見ると、なんと私である。それは19才になったばかりのときのものだった。私は東京での大学受験に失敗して浪人の身だった。手紙の内容は、要するにお金の無心である。当時の私は浪人なのだが、大学に行く気はなく映画を作る現場に入ろうとしていた。しかし、その業界の人たちは決まって大学を出てからの方がいいよ、と言うのである。自分の思いが弱かったんだろう、大学受験することに逃げこんだ私である。父にはこの手紙のことは言わないで下さい、と書いてある。高校を卒業して半年、まことに中途半端だらけの19才の私である。どうして母はこの手紙を取っておいたのだろう。と思いながら当時の母の写真をさがす。肥った母の写真ばかりである。介護施設にいる今の母はやせて、当時の面影は殆どない。自分が生きてきた過去のことを思い出せなくなってきた母に、小さなアルバムを作ろうとその時思ったのである。戦中、中国での従軍看護婦時代から、戦後結婚して呉れに住み始め、昭和の時代と共に生きた証を写真でつなぐこと。母が生きてきた人生アルバムである。今号は恒例の卒業高校生特集である。私も40数年前、呉宮原高校を卒業して東京に出た。しかし、素直な浪人ではなかった19才の私は、母にはお金の無心をする手紙を書いた。その手紙を偶然発見したことは、なんとも苦いというか複雑な思いが込み上げる出合いだった。青春時代の只中にいる卒業高校生のことを考えながら、いまこの文章を書いている。

2016年2月号

2016年01月20日(水)

○月○日
旧暦では2月から新年賀始まる。今年はサル年だから、そのサルに関した多くの報道が新年早々続いている。その中で、宮崎県串間市の幸島で魚を食べるサルの記事が目に飛び込んできた。知る人ぞ知る、日本の霊長類学発祥の地〝幸島のサル〟のことだ。私は10年前、この幸島のサルに会いに行ったことがある。その時書いた私の文章である。

静かである。樹々の葉が風で揺れる、遠浅の砂浜に薄い波が打ち寄せる音。その砂浜をサルが駆けていく音。ときおり、時間を切りさくようにサルのキッキッという声が小さな湾に響きわたる。ここは宮崎県の幸島、本土から300m離れた小さな無人島である。その島に奥深い砂浜を持つ大泊湾にいる。私の目の前でサルたちが毛づくろい、グルーミングをしている。私から少し離れたところで、三戸サツヱさんがサルに囲まれるように座り、陽なたぼっこをしている。幸島の大泊湾は、何か時間の流れが止まったような不思議な感覚に包まれていた。野生のサルたちが自然のままで私と同じ風景の中にいる。この感覚をどう表現していいのだろう。船から降りて、島の土を踏み、すぐサルたちの姿がどんどん増えてくるのを目の当たりにした。私は〝百番目のサル〟の舞台になった砂浜にいることを、ただただ感激した。と同時に、私のサルたちへの意識過剰を見抜かれないようにと、少し構えた自分があった。しかし、そんな私の杞憂など吹きとばす風景画目の前に繰り広げられていたのである。三戸さんが撮影しやすいように、サルに豆をまいてくれた。その豆を拾い中の実を器用に食べるサルたち。海の中にもどんどん入って豆を拾って食べる。私はそんなサルたちをカメラで追う。そしてシャッターを切る。幸島のサルたちは、私が今まで見たことのない貌をしていた。おっとりとしておだやかな表情なのだ。ニホンザルってこんな愛らしい貌してるんだ、と思いながらファインダーをのぞいた。幸島に京都大学の霊長類研究グループがやってきたのは1948年。〝日本学士院エジンバラ公爵賞〟を受賞した河合雅雄さんもその一人だった。それから3年の歳月が流れ、世界で初めてサルの餌付けに成功する。研究者達は、幸島のサル一匹一匹に名前をつけた。サルの群れのボスにはカミナリと名付けた。カミナリは群れの中で、喧嘩が起きると、陽なたぼっこをしていても、飛んでいって的確に悪い方を叱りつけて仲裁する。ぼんやりとしているように見える時でも、いつも群れ全体に気を配っている。威張るだけではない、群れを守る責任感、統率力、正しい判断力を持ち、群れの仲間から深い信頼を受けるボスがカミナリだった。そのカミナリを中心に群れを作っている幸島のサルにも、いろいろな物語が生まれていた。中でも研究者達が目を疑う行為をするサルが現れたのである。1歳半のメスザルが餌付けの芋を川で洗って食べていたのである。そして、群れの中で芋を水洗いして食べるサルが徐々に増えていく。ある日、川の水が涸れたことがあった。しかし、そのメスザルは芋を海水で洗い食べ出した。海水の塩分でより芋が旨く感じたのか、その後海水で芋を洗って食べるサルがまた増えていった。そして、サルの群れの4分の3が芋を水洗いして食べるようになった。それから、しばらくして幸島から300kmも離れた大分県の高崎山のサルたちが。餌付けの芋を水洗いして食べはじめたのである!誰も芋の水洗いを教えたわけでもないのに、そういう行動の現象が同じ種のサルに共鳴するように、日本各地のサルたちに伝わったのである。イモ洗いするサルを見つけたのは、三戸サツヱさんである。昭和28年の夏のことだった。そのサルは〝イモ先生〟と名付けられ、京大研究者の学会発表で世界中に知られた。一匹のサルが水洗いをして食べる新しい行動を取りはじめると、それを真似るサルが出てくる。そして、その行動が群れの一定の比率以上に広まり、ある臨界点に達すると、遠く離れた地の場所のサルたちに伝播していった。〝あることを真実だと思う人の数が一定数に達すると、それは万人にとって真実となる〟ニューサイエンスの第一人者ライアル・ワトソンが〝百匹目の猿現象〟のことをこう言い表した。〝人間はなぜ戦争のように悪に走るのか、人間を知るために、その母体であるサルに行きついた〟元京都大学霊長類研究所の河合雅雄教授のコトバである。日本一、いや世界一あだやかな幸島のサルに会いに行ってみよう、と思ったのである。

2016年1月号

2016年01月20日(水)

○月○日
サンフレッチェ広島がJ1優勝を決めた。2年振り、3度目の栄冠である。それにしてもチャンピオンシップの準決勝と決勝2戦は見る者に感動を与える素晴らしい試合だった。決勝第2戦の広島地区のテレビ視聴率は、優勝瞬間時41.7%だったという。スゴイ数字である。〝広島の皆さん、優勝おめでとうございます!〟。森保監督の絶叫がスタジアムに響いたシーンに、また感動させられたのである。〝おめでとう〟と言いたいのはテレビを見ている私たちから、サンフレッチェを率いた代表の森保監督にである。それを逆に広島県民に先手を打った森保監督の思いには中々のものがあったのである。そもそも、サンフレッチェ広島は地方の一クラブであり、乏しい資金でのやりくりの歴史が続いている。そんな中で、毎年のように主力の退団も続いた。なにか、広島カープを見ているようなのである。クラブチームが安定した成績を残すには、安定した観客収入とスポンサーが不可欠である。一番の問題だったのは広島市郊外にあるスタジアムのことだった。エディオンスタジアムは元々アジア大会のメインスタジアムとして造られたもので、サッカー専用のスタジアムではない。だから、選手のパフォーマンスで観客と一体になる臨場感がどうやっても薄いものだった。また、完成して23年のスタジアムは老朽化も進んでいる。サッカー専用のスタジアムが広島に必要だったのである。私は、広島市の真ん中にあった市民球場が壊されたとき、すぐに思ったことはサッカー専用スタジアムを造ればいいということ。町の中を歩いて行けるスタジアムこそ最高の立地であり、中心商店街への波及効果も大きいことである、そして何より大事なのは、地元意識の求心力の高まりだ。〝広島にはカープがあるからいいじゃないか〟と言う人がいる。広島財政界のお年寄りに特に多いから、問題なのである。サッカーと野球というスポーツのことを考えてみるべきである。日本ではプロ野球や高校野球が人気だということは承知のこと。また、サッカーもJ1、高校サッカーと人気である。観客動員でいうと、野球がサッカーより多い。これは試合数が多いことによるが、選手の年俸を比べると野球が断然高く、日本でのスポーツ界の王者は今のところ野球ということになるだろう。しかし、世界のスポーツ界となれば、ダントツ、サッカーなのである。〝オリンピック〟より〝ワールドカップ〟の方がスポンサーでも観客拿も段違いの人気である。そのサッカー、Jリーグ優勝を4年間で3度果たしたサンフレッチェは、地方都市広島の宝であり誇りである。〝サッカーの力〟を地方都市広島に見せつけるためには、市民球場跡地に専用スタジアムを造ること。これこそ、広島経済にも県民の心にも潤いを与えることになるのである。もし、カープの黒田投手のような、物語のあるスター選手がサンフレッチェにいれば、観客動員も黙っていても増えることだろう。そのチャンスを作る第一歩、新スタジアム建設の決定は今しかないようである。本誌創刊時の30年前、札幌、仙台、広島、福岡の4都市の活性化が地方の自立を占うといわれ、記事にしたことがある。そして現在、4都市のうち一番弱いといわれていた福岡がダントツ活性化して上位、上位だった広島は下位に落ちたまま―。行政、財界、市民の選んだ道が先を読めなかったことには間違いない。何しろことの決定にスピードがない。この様々なことのスピードの遅れが都市間競争に負けるべくして負けてしまっている。多様な町を目ざさせない広島市の脱皮は、スタジアム建設にかかっている。

スタジアムではないが、いま呉市で一番目立つ建物は呉市役所の新庁舎である。新庁舎である。新庁舎建設まで、スッタモンダがあったが、あっという間に立派な建物が出来上がった。まだ外観しか分からないが、本当に立派なデザインの新庁舎だ。呉の中心地では、どこからも新庁舎の姿が見える。呉市のランドマークの建物になっている。「地方消滅」といわれる中で、「地方創生」と行政は意気込む。その空気の中でのハコモノ呉市新庁舎が完成した。同じハコモノの広島のサッカー専用スタジアム建設問題、どう解くのか私たち市民にかかっている。

2015年12月号

2015年11月18日(水)

○月○日
忘年会の季節である。
夕暮れの呉の町に多くの人出が見えると、いつの頃からか安心するような、ほっとする気持ちがわいてくる。
かれこれ30年以上、呉の中心街を見続けていると、ふと目の前の風景の中の人影の薄さに気づかされる。年々少なく感じる人出は、地方の多くの町の宿命といわれるが、町に暮らすに身にとっては寂しい思いがするのである。
それでも、忘年会の季節の12月と年度末の3月、週末ごとに多くの人出が中心街を包み込む。その賑わいを見るのは楽しいことだ。
当たり前のことだが、タウン誌の経営は町の経済がうまく回っていかなければ成り立たない。ということは、町に人出を作り出すことがタウン誌の役割なのだが、これが中々たやすいことではなくなってきている。
理由は、インターネットの普及でメディアが多様化して、日本の社会が情報過多に陥ってしまったからである。
例えば、ネットに出ている呉地域のグルメ情報を見てその店に行く。行く人の多くは、情報にあったメニューを画一的に注文する。いいとこ取りだけしたいのである。結果、その店の表面をなでただけの店訪問に終わってしまう。そして、皆一様に携帯電話で撮った画像が、自分のツイッターやブログに同じように出現する。また、彼らの流した情報がその店の採点としてカウントされる。それがまた多数の口コミ情報となりネットに定着することになる。
先日、国内最大のグルメサイト「食べログ」で、ランキングの不正操作があったことが明らかになった。それは、特定の飲食店に対して好意的な口コミを投稿して報酬を得る人達がいたというのだ。
これに対して〝消費者の信頼を裏切る行為だ〟と批判が上がったが、こうした問題はインターネットの構造上、常に起こりうるはずなのである。
しかし、その前に口コミサイトの評価をする人のことである。
〝料理について細かい論評を述べたい人達〟と〝携帯で料理の写真を撮ることをためらわない人達〟が下した判断にすぎない、ということを私達は承知していないといけない。
そこでタウン誌の出番!?といきたいところだが、残念ながらタウン誌はスポンサー頼りの経営であるからして、キレイごとでは済まされない事態があるのである。そんな中で、これだけは間違いないという店情報が、店主の存在、魅力を伝えることである。その店主の貌、声、話す言葉、動作、そして作り出すものに接することで、上辺だけではない本物を知るのである。店の魅力はすなわち店主に尽きること、これだけは間違いない。

今、都会ではスナックが元気だそうである。個人が経営する〝小さなスナック〟である。〝スナック〟という語感は私の20代、青春時代をもろに表しているのだが、今だに東京はスナック全盛だという。〝小さなスナック〟という唄もあったなぁ—。東京は青春時代がまだ続いているのか!?
‘70年代の東京、私もその現場にいた。それはそれはどこの社会も活気に満ち溢れていた。政治、経済、文化、あらゆる分野で体制派と反体制派が拮抗して主流を競い合った時代だ。地方出身者の若者が一人前になるための日々の戦いの中で、安らぎの場がスナックだった。
今でも思い出すのは、新宿ゴールデン街、渋谷道玄坂上のスナックだ。ボトルを入れていたので、安く飲めたのだ。食べ物メニューも多かったから居酒屋遣いもしていたのだろう。お金が許せば毎日でも通いたいぐらいだった。
それ等の店は、いつもカウンターには客がいて、店主と常連が店を仕切っていた。貧乏若者の私としては、パッとした金遣いをしたいのだが、出来ないのが現実だった。それでもスナックの常連扱いの客になれたのは、何だったんだろう。カタギの仕事ではない劇団という世界に身を置く、夢みる若者に愛の手を差しのべてくれたのかもしれない。
好きな食事は出来なかったが、行きつけのスナックに行けば酒にありつけた。そして、本当によく奢ってもらった。青春時代はまさに奢られ人生だった。そんなスナックで同じときを過ごした人達のことを、いま思い出すのである。

そこで、呉のスナックのことだ。呉でいう〝スタンド〟とスナックはどう違うの?とよく言われるが、全国的には呉のスタンドもスナックの中に入る。スタンドはスナックよりカウンターの中の女性の色気度が少々高い。故にセット料金がそれに比例して高い設定になる。毎日でも通いたいという客は、やはりスナックを目指す。食べ物メニューが充実して、チャージ代も安い。カラオケも唄えるオープンな雰囲気のスナックである。店主は女性でも男性でもいい、ただ演出家の店主であって欲しいのである。そんなスナックが呉の町に増えてきている、とスナックびいきな常連は口を揃える。
今号は恒例の忘年会特集を組んだ。忘年会は年に数少ないハレの会だ。日頃の鬱さ、たとえば〝わしはビールが飲みたい、発泡酒ではないビール、生ビールが飲みたいのだ〟という鬱さを晴らすのが忘年会である(笑)。そして、忘年会の2次会にはスナック(スタンド)に行きましょう。行きつけの店がない人は、そういう店を見つけましょう。
忘年会をやる。そのあなたの町づかいが呉の経済、文化を回すのです。
よろしく―。

2015年11月号

2015年11月18日(水)

◯月◯日

広島カープが最終戦で惨敗、クライマックスシリーズの出場はならなかった。この日の広島地区のテレビ視聴率は44・5%、プロ野球中継では過去最高を記録したという。
超満員のマツダスタジアムに駆けつけたファンの落胆たるや、察するに余りある試合だった。今年のカープを象徴する戦いだったからである。先発投手は5分以上投げるのだが、打撃陣が点を取れない。僅差のゲームになると、救援投手がコケてしまう。だから、いつまで経っても勝率が5割に届かない。ペナントレースで一度も首位に立てなかったのはカープだけだった。
今年のマツダスタジアムの入場者数は過去最高の211万人を数えた。一試合平均の入場者は2万人をゆうに越えていたのである。球場の客席を3万人にしておけばよかったと、今地団駄踏んでいるのは当の球団だろう。
それにしても今年のマツダスタジアムのチケットは取りにくかった。だから、今年は一度も球場へは行けていない。それでも、今日のカープはどうなっとるんかいのー、とテレビをつけるが中継をしていない。あれだけ〝カープ優勝〟と騒いでいた地元テレビ局が放送しない。いい視聴率が取れるのにどの局もやらないのである。
どうも、みなチグハグなのである。
そのチグハグの最たることが、緒方監督の采配だ、と酒飲み仲間とのカープ話で盛り下がる!?いや盛り上がったのだ。前日の試合で活躍した選手を使わない。データを重視して、登板投手との相性が悪いからだという。調子に乗りかけているのに出るハナを摘んでいる。野村前監督の失敗を継いでいるのだ。スコアボードの名前を見てもワクワク感が湧かないのである。
〝ほらのー、言わんこっちゃない、マツヤマを出しとけゃあええんよ〟
〝何で左投手には決まって右打者なんかのお。いつもワンパターンばっかしじゃ〟
と、頭のカタイ采配を振う監督やコーチを嘆くのである。
それに比べて、今年のヤクルトはどうだ!?という話になる。昨年の最下位から優勝という離れ技をやってのけた監督とコーチの態度は、敵ながらアッパレで、何か伸び伸びとして自由さを感じたのである。大主砲のバレンティンを欠きながら、すさまじい打撃陣を育てたチーム力には頭が下がるのである。また、トリプルスリーを達成した山田選手は、久々に球場で間近に見てみたいと思わせる選手である。一人の選手で客が呼べること、これは彼が日本プロ野球の宝になったということである。
そう、カープにもその宝がいることを忘れてはならない。黒田投手である。今年の観客動員の凄さは、黒田効果そのものだった。黒田が投げる試合は必死で勝ちにいかないといけないのに、打てない。落胆のため息が出る試合が多かった。
テレビに映るカープベンチの首脳陣の姿も、何かエラソーな感じがしたものである。そう、あのサングラスズラリの絵がそう感じさせるのだ。試合が劣勢なのに、なに気どっとるんな、という感じである。野村前監督のしょぼしょぼと飲料水を取る姿に、何か細かそうで、〝器〟がなさそーに見えたことを思い出した。そのことを酒仲間と話していたら、その〝しょぼしょぼ飲み〟は、実は噛みタバコのツバを出している風景だったことを教えられた。テレビは、監督の一挙一動がファンの視線にさらされていることを自覚すべきである。いや、その前にチームのナインの目が監督たちを見据えている筈なのである。
今年のカープは優勝だ、と騒ぎ立てた地元マスコミの方々、どうか反省して頂きたい。どこまで盛り上げたら気が済むんだというマスコミの仕掛けには、ちょっと異常なのめり方に見えたものである。
どうして優勝できなかったのか、クライマックスシリーズにも出れなかったのか、マスコミ各社は反省して、検証しなければ、また同じ轍を踏むことになるのである。
セリーグ順位4位という結果の責任は?と聞かれた緒方監督は、来年度の采配の糧にしますと答えた。責任を取ることには答えていないのだ。
今年のカープの話をすればする程、カープのリーダーと日本の政治家のコトバが重なって聞こえてくるのである。コトバで本論をはぐらかす。責任をあいまいにする。これを糧にこれからはガンバル。
要するに責任をとる覚悟がないのである。
カープ人気はいつまでも続くわけではないことを球団もマスコミもよく分かっている筈である。
私たちが考えないといけないのは、先を読むこと、目先ではつまらない。

2015年10月号

2015年11月18日(水)

◯月◯日

大和ミュージアム開館10周年シンポジウム「終戦70年を語り継ぐ」に行ってきた。パネリストに半藤一利さん、進行役に池上彰さんという、今をときめく論客が呉に集まったからである。
大和ミュージアムは、開館して10年目で入場者数が1千万人を越えた。その成功要因は何だったんだろう!?
10分の1戦艦「大和」が圧倒的な存在としてミュージアムの中心に据えられ、周りを呉の海事歴史やもの創りの展示をしていること。そして日本の近代史を呉を通して表現していることが分かりやすいといわれる。
しかし、ミュージアムの確たるバックボーンを強く表に出さないところがあった。そのところが、今回のシンポジウムでハッキリと聞こえて来たのである。
そのすべては、館長の戸髙さんのミュージアムデザインにあったのである。戸髙さんは、長い時間をかけて証言録「海軍反省会」を何巻も編集し、出版を続けている。現在も戦争をしたリーダー達の建前と本音の言葉を紡いでいる。
また、半藤さんはいま話題の映画「日本のいちばん長い日」の原作者で、昭和史研究の第一人者である。このお二人に通底するのは〝戦争の歴史の中の日本人論〟を伝えたいということだ。戦争を進めたリーダー達の資質を示すことで、日本は戦争をすると必ず間違いをおかすと言われるのである。
戸髙さんはシンポジウムの中で、〝大和が最後の特攻に出撃した理由とは、海軍のリーダー達は特攻に意味がないのは明らかだったが、海軍として最後の力を振り絞ったというカタチというか面子が必要だったから〟と言われた。
長い時間と巨額の予算、そして日本の最高の技術で造り上げた大鑑「大和」は沖縄への特攻のために出撃して、予想通り3千名の生命とともに爆沈した。
〝戦争はかくもはかなくむなしい歴史〟だということが大和ミュージアムのバックボーンなのである。
そして戦後70年のいま、当時を知る人が減り、戦争が体験として語られる時代から歴史として語られる時代になった。ミュージアムの役割は、今からより重要になると戸髙さんは言われる。
今まで、広島の原爆資料館は〝サヨク〟、呉の大和ミュージアムは〝ウヨク〟とマスコミは決めつけてきたようだが、大和ミュージアムの入場者数の成功が、政治的な〝右・左〟を取り払い、ありのままの歴史、真ん中のミュージアムとして、すでに受け入れられているのだ。
ヒロシマと呉のミュージアムは、同じ戦争がテーマのミュージアムなのに、ヒロシマは今だ呉に背を向けたままである。今回のシンポジウム「終戦70年を語り継ぐ」をヒロシマに聞かせたかった——。
○月○日
呉市の新庁舎建設工事は着々と進み、立派な外観が見えてきている。中央公園側から見ると、現庁舎と新庁舎の差が歴然としていることが分かる。何しろ立派なのである。建築予算はどんどん増額してついに160億円を超えた。
2年前に新庁舎建設工事入札が2度不成立になり、建設をどうして急ぐんだ!?という市民の多くの意見があった。しかし、市議会と行政は、決めたことだから粛々と進めるだけ、と意に介しない。
総事業費160億円は中国地方で建て替えを計画する自治体で最高額といわれ、どうなっとるんかいのー、と思っていたら、東京オリンピックの新国立競技場は2千億円から3千億円位の事業費がかかると分かり問題になった。それで、スッタモンダがあって、1500億円に落ち着いた。それらの数字を見ていると、100億円、200億円の上下は大したことがないように映ってしまう。振り返って、呉の新庁舎の金額が巨額だと思わなくなるから、不思議である。
日本という国は借金で首が回らない筈なのに、いまだにハコモノをどんどん日本中で造り続けようている。
地方に住む私たちは、日本とは東京のことだ、といつもマスコミから上意下達され続けていることを自覚するべきである。
東京がおかしくなると、一番にそのとばっちりを受けるのは地方なのである。
呉市の新庁舎と現庁舎が並んでいる風景は今だけである。是非御観覧あれ——。

2015年9月号

2015年08月19日(水)

◯月◯日
ドカーン、ドカーンという花火の音が呉湾の方から聞こえてきた。呉の町の夏まつり、海上花火の音だ。夏まつりは今回で66回目だという。今年は〝戦後70年〟だから、始まりは昭和24年ということになる。
たしか昭和30年代の夏まつりはニ河プールが会場だった。水を抜いた競泳プールに舞台を作り、スタンドから盆踊りを見た記憶がある。クライマックスは何といっても花火だった。頭の真上に大きく広がる花火、そして腹の底に響くドカーンを思い出す。
子どもの頃の夏休みの思い出は、何故かはっきりと憶えている。真夏のグヮン、グヮンというセミの声を聞くと、いつも当時の夏休みの風景が蘇る。
一学期が終わり、待ちに待った夏休みが始まるのだが、終業式の頃が、一番ワクワク感が強かった。夏休みのスケジュールの中心はお盆に父母の故郷に行くことだった。倉橋島の尾立と秋田県の象潟である。秋田県は遠いから3・4年に一度位で、いつもは4・5日、倉橋島へお盆にかけて行っていた。それ以外は、大したスケジュールもなく、ニ河プールに何回通えるかなとか、早朝の小学校でのラジオ体操の判をどうやって誤魔化すかとか、友達と三角ベースをやることとか、遊ぶことばかり考えていて、勉強のことなど頭にない夏のボンクラだった。
そのボンクラが倉橋島へ行くと、何故かチヤホヤされてモテたのである。モテたといっても男の子にだ。当時は、呉に住む私は〝町っ子〟として見られていたようなのだ。親戚の家には、イトコの三歳年上の男と一歳上の女の子がいて、その友達がそれぞれ私と姉を遊んでくれるのだ。遊び場はどこにでもあった。キレイな砂浜や岩場での水遊び、段々畑でセミを標的に空気銃遊び(こんな悪いこともしていた!?)、小学校での卓球や三角ベース。尾立の迷路のような路地でカクレンボ――。
また、夜になると太鼓の音が町に響き、盆踊りの人出で路地がにぎやかになる。尾立の盆踊りのテンポは倉橋島で一番早く、踊りも輪になったり、男女の出合いの踊りになったりと、仲々艶っぽいのである。昔の島の盆踊りには、〝祭りだから無礼講〟のようなところがあったのだ。
浴衣を来たカップルが海辺などの闇に消えるのを追っかけて、私たち悪ガキは2B弾を擦ってパァーンと驚かし、一斉に逃げるというバカなことも遊びの一つだった。
そんな島での短い日々が終わり、呉に帰る船に乗るとき、どこからともなく船着き場にいて、恥ずかしそうに私を見送ってくれた風景を私は忘れえないのである。

○月○日
最近、立て続けに新聞に知人の貌を見い出す。
訃報では俳優の加藤武さん。私の師匠だった小沢昭一の親友で、私が研究生をしていた芸能座の座員だった。何しろ顔もコトバも恐かった。しかし、草野球の時だけはやさしかった。加藤さんが捕手、一塁には高橋悦史さんという文学座のメンバーと芸能座はよく試合をしたものだ。80歳を過ぎても体を鍛えていたそうで、ジムのサウナで急に亡くなられた。
破顔一笑の貌が素敵な、生粋の江戸っ子役者だった。
知人ではないが、作家の阿川弘之さんが亡くなられた。元大和ミュージアム名誉館長である。私の友人の縁で、阿川さんに本誌が発行したマンガの〝戦艦大和本〟を読んでもらい、感想を頂いたことがある。
中国新聞の〝どう見る安保関連法案〟のインタビューで、元海上自衛隊ペルシャ湾掃海派遣部隊指揮官だった落合畯さんが出ていた。〝自衛隊活動はまだ不十分。国際的に「安全ただ乗り」は通用しない〟と話されていた。落合さんは、太平洋戦争の沖縄戦で最後の司令官大田中将の息子である。私とは、噺家の桂才賀さんの縁で知り合った。落合さんが江田島の海自隊第一術校の校長のとき、無理をいって中級管理者講習(定年退職前の海自隊員がシャバに出る前の講習)を見学させていただいたことがある。そのときのことも思い出した。
続いて上嶋英機さんが、中国新聞SELECT〝想〟にエコツーリズムの推進というエッセイを掲載されていた。上嶋さんは、広の中工試から広島工大の教授になり、今年退職、瀬戸内海エコツーリズム協議会理事長をされている。今だに瀬戸内海の環境問題のキーマンである。
中国新聞経済面に〝新社長・中国放送、畑矢健治氏〟とある。私のよく知る畑矢さんではないか!
畑矢さんは中通りに生まれ、呉三津田高出身である。中国新聞の記者となり、呉支社にも二度赴任している。また、松江局長のとき、私が遊びに行って話が盛り上がったのは〝新聞社を早う辞めて、呉で二人でコミュニティ放送をやろうや〟という話。いやはや、広島の大マスコミ、中国放送の社長になってしまわれたのにはまいった。よくやったと拍手を送りつつ、あのときのことを思い出しながら苦笑いするのである。
続いてまだ紹介したい人がいるのだが、誌面が尽きました。また次号で。

2015年8月号

2015年07月17日(金)

◯月◯日

ブゥオーッ、ブゥオーッという大き
なサイレンの音が突然呉の町中に響き
渡る。何ごとだ と思いきや、そうだ、
今日は呉空襲の日だったことを思い出
す。昼過ぎのサイレンに合わせて、黙
祷するならいだった。
その時である。ブゥオーッというサイ
レンに答えるように、ウォーン、ウォーッ
という犬の吠える声が重なって聞こえ 「防空壕を掘れ、掘れ」というきつい
てきた。隣りの家の犬である。犬の声 高く泣くようなウォーンがサイレンの ブォーッにハモることハモること―。あ まりの見事さに、黙祷から目を開けさ せられたのである。 そういえば、今頃和庄中学校下の小さ な公園で呉空襲の慰霊祭が行われてい る筈だ。今から 年前の7月1日の夜半、 和庄地区の防空壕に避難した人たちの 中で五百人以上の人が亡くなった。この 慰霊祭は 年続いたが、今年で最後に なるという。戦争を経験した人たちの 高齢化のため、ということは誰でも想 像できることだ。しかし、地域の歴史は、 その地域の人たちが伝えていかなけれ ばならない。 年前の戦争の中で呉地 域は大空襲に遭い、たくさんの人が防 空壕で亡くなった。その歴史を伝えて いかなければならないのである。 そんな中、呉空襲で和庄の防空壕に 逃げ込んだ自分の体験を語り継ぐため に紙芝居を製作した人がいる。中峠房 江さんだ。中峠さんは、本誌でもお馴 染みの絵本作家のよこみちさんに紙芝 居を依頼した。そして、出来上がった 紙芝居の初披露が最後の慰霊祭になっ たのである。
通達に従い、山際や丘陵地に横穴の壕 をたくさん作ったのである。日本一防 空壕密度の高い町が呉市だったのであ る
「飛燕の鮮やかさ」「満場アッと感嘆」 とある。前日の広島県総体の陸上女子 走り高跳びで、山下リエは1m の 日本記録を樹立したのである。その時 の山下はまだ 才、呉精華女学校(現 清水ヶ丘高)の生徒だった。 彼女は、 歳の頃からほぼ独学で三 段跳びや走り高跳びの練習を重ね 歳 で日本新記録を出したが、 年の東京 五輪で走り幅跳びが採用されると知 り、国際舞台を見据えて猛練習を始め ていた。 しかし、政府は国際情勢の悪化を受 けて五輪開催を返上。 年と 年の五 輪は中止となる。陸上選手として最高 潮のときを、戦争で奪われた山内は「悲 運のジャンパー」と呼ばれた。アスリー トとして最後の輝きを放つはずだった
年前、日本海軍の拠点だった呉市 はアメリカ軍の標的になった。呉の地 勢は三方を山に囲まれ、一方は港、海 軍や工廠地帯が広がるすり鉢の町であ る。その町に投下された爆弾は東京、 名古屋、大阪の大都市に次ぐ程、大量 の爆弾が投下された。戦時中の呉地域 は、敵のアメリカ軍に狙われているこ とを行政も住民も分かっていたから、
台地で、その前には原っぱが広がって ○月○日 いた。三本松の裏側は竹薮に覆われ、 中国新聞に〝戦後 年・戦争とアス そして地下には防空壕が貫通してい リート〟という連載4回目に、呉出身 る。まさに子どもが遊びたい魅力をた の山内リエ(1922年~2000年) くさん備えていたのがカンチだった。 が取り上げられている。彼女は、女子
しかし、この横穴式防空壕が、煙穴 が火を吸い込むような状態になり、熱 気と煙が入ってきて、避難した人たち の多くは意識がなくなり、そのまま亡 くなった人が多かった。そのことが戦 後分かったのである。防空壕が避難場 所足りえなかったのだ
戦後生まれの私にも防空壕の思い出 がある。特に団塊世代の人たちは、市 内のあちこちに残っていた防空壕で遊 んだことがある筈である。 呉市の防空壕の中でも有数の規模 だった壕が海軍病院の裏手にあった。 今の国立病院裏の坂道に入口があり、 清水ヶ丘高校の元テニス場に抜ける長 い防空壕だ。 この防空壕は、私の小学校時代の遊 び場だった。防空壕が貫通していた小 山は、地元では〝カンチ〟と呼ばれて いた。小山のてっぺんには〝三本松〟 という大きな松があった。清水通りか ら見たカンチは粘土質のハゲた段々の
年のロンドン五輪にも日本は参加を 許されなかった。ちなみにこの大会で の女子走り幅跳びの優勝記録は5m 695。山内が持つ6m の日本記録 を大きく下回っていた。
私たちは清水ヶ丘側の入口からまっ 暗な防空壕を探検して回った。曲がり 角ごとにロウソクを立てていたのだ が、やはり暗くてヒンヤリした防空壕 内の空気は何か恐いものを感じさせ た。病院の壕なので薬瓶や注射器の砕 けたガラスがまだ散乱していて、薬の 匂いがコンクリートの壁に染みついて いたような記憶がある。 防空壕の中心には教室が二つか三つ 入るような空間があった。その空間か ら病院の入口に続く壕は〝ズイドウ〟 と呼ばれていたことを後で知った。病 院の患者の避難所として使われ、千人 以上の収容規模だったという。 私たち悪童は〝、度胸試し〟と称して、 生意気な遊び仲間を誘っては防空壕に 入り、打ち合わせどおり壕の角のロウ ソクを次々と消して、まっ暗な防空壕 に置き去りにした。今思えば、これは まさにイジメである。置き去りにされ た子どもはいろんな行動に出た。すぐ に泣き出す奴、こちらが心配になる程 気配を消す奴、大声で置き去りにされ たことを怒る奴、色々である。私もも ちろん順番ように置き去りにされた。 そのときどう対処したのかは覚えてい ない。 私にとっての防空壕は、遊びの〝通 過儀礼〟の場所だった。
走り高跳び・走り幅跳びの元日本記 録保持者で、「呉のスーパーウーマン」 と呼ばれていた。
1936年 月4日の中国新聞の社 会面のトップ記事の小見出しに、
紙面が尽きるが、呉市が生んだ日本陸 上界の偉才・山内リエのことは次号で 紹介したいと思っている。

2015年7月号

2015年07月17日(金)

◯月◯日

今から70年前、昭和20年7月1日の夜半からアメリカ軍B29の呉空襲が始まった。死者2千人、家屋焼失2万戸以上、罪災者は12万人以上といわれている。
今号では、その昭和20年に呉市広町に住み、広空廠に勤務した神垣増雄さんの日記を13ページに渡って掲載した。
神垣さんは、昭和9年から37年までの日記を残している。その中の昭和20年、戦中、終戦、そして戦後の始まりの年、まさに戦災日記といえる呉の日常をありのままに記述しているのだ。
掲載した日記は1月8日の〝大詔奉戴日に際し、神風特別攻撃隊から贈られた鉢巻が手交された〟から始まり、12月14日〝敗戦犯罪者を徹底的に国民の前に引据へてやりたいものだ〟までである。
特に興味深いことは、神垣さんが広空廠の航空機部機体製図見習工として入り、飛工研工手として終戦を迎えるまで20年間に渡り勤務したベテラン技手であったこと、そしてまた広町の旧家の当主でもあったからである。
その神垣さんの綴る文章は、広空廠の工場疎開をしなければならないほどの戦況のことや広町の様子、そして日常の食糧難のことを、変わらない目線で、自分の言葉で記している。日記のページをめくるごとに、悲嘆、憤り、軽蔑、不安、絶望、希望、あきらめの感情が抑えた文章の行間からじわじわとにじみ出ているのである。
また、今号の神垣さんの日記のページの下に、昭和20年にアメリカ軍が撮影した呉の偵察写真を掲載している。
日記が書かれたときを同じくして、アメリカ軍は着々と呉と広島の空襲に向けて事前調査をしていたのである。
アメリカ軍の冷徹な戦略は、広島への原爆投下前まで空襲を受けた呉とは別に、広島へは空襲をしていないことでも分かるのだ。原爆による市街地の損害を精度に知るためだったのである。
神垣さんの日記の原本が掲載されている「呉戦災あれから60年」という本の中に「米軍による呉市民尋問録」というページがある。昭和20年の10月から12月にかけて、アメリカ戦略爆撃調査団が呉市民に対し尋問した記録である。
〝Q.アメリカが日本を空襲した時、その責任はどちらの側にあると思いましたか〟
〝Q.戦時中、戦争の指導者のやり方(施策)をどう思いましたか〟
〝Q.今後日本がどう変わらなければならないと考えますか〟
など、40ぐらいの質問をしてまとめている。
尋問された50〜60人の職業は様々で、主婦や労働者、そして芸者や娼婦もいた。
これほどまで徹底された戦略を遂行するアメリカという国のことを考えるのである。今から70年前に、すでに戦争戦略システムを作り上げていたアメリカという国は、つくづく恐ろしい国である。軍・産・学複合体国家であるアメリカのこの70年の歴史を見ると、なるほど、戦争を続けることでしか国の経済を維持できないという泥沼に陥っていることが分かる。
その泥沼のアメリカにどうしてもついて行きたいのが日本の政府らしい。今、国会審議されている安保法制改正案である。自衛隊の活動を広げる〝集団的自衛権行使〟のことだ。そこで一番に言われていることは、中東のホルムズ海峡が機雷で封鎖されると、日本に石油が入ってこなくなり、日本の存立が脅かされて国民の権利が覆される危険がある、とお上は申されている。
そこで思い出すのは、’91年の海上自衛隊呉基地のペルシャ湾派遣掃海部隊のことである。当時の政府の高度な政治判断で掃海艇派遣が決まり、日本を離れること一万三千km、187日の任務だった。
〝痩せて帰ってきた掃海艇隊員達!?〟という題で本誌の’91年12月号に掲載したことがあるのだ。当時、たまたま掃海部隊の一員として私の友人が派遣されていたことから、記事に出来たのだが、記事にしたのは食事のことなどほんのうわべのことで、実際の任務の危険な場面、目の前で起きるアメリカ軍の戦時攻撃のことなどは、実は書けなかった。戦争の渦中に入りそうな場面は多々あったのである。
政府は、この戦事派遣がまがりなりにも成功したことから、たとえば、という言い方でホルムズ海峡封鎖を事例にするのである。
自衛隊の出動を命じる政治家たちは、多分掃海艇がどのようなカタチのものか知らないことだろう。元々掃海艇は、本来は海岸近くで行動するから排水量は500トン位と小さく、磁気に反応する機雷を避けるために、船体は木造である。ペルシャ湾までの航行そのものが危ぶまれる艇なのである。だから、食糧保存の冷凍庫も小さなもので、掃海艇は長期航海にはまるで向いていないのだ。
このままいくと、掃海艇部隊のある呉基地に、政治家たちがまたぞろ派遣を命じそうな気配である。
「集団的自衛権行使」の今どきの最前線の現場に登場する主役は、実は呉基地の掃海艇部隊なのである。呉に住む隣りのおにいちゃん(自衛隊員)かもしれない。
戦争を続けなければ経済が持たないというアメリカという国家に追従したい日本の政府を、国民が認めているという現実を、同調しない人も含めて、そこのところを覚悟して暮らすしかないようである。
そんなことを考えながら、70年前の昭和20年の日記と絵本(とうせんばからの手紙)を編集しました。