2016年9月号

2016年10月01日(土)

○月○日
月刊くれえばんは今号で354号になった。月刊になる前に季刊で10号を出版している。創刊は84年、月刊で再スタートしたのは88年4月号からである。
創刊時、〝呉は文化が育たない町〟とよく先輩諸士から言われたものである。〝よく持って3年じゃ〟と高を括られたりもした。
しかし、出版を続けて10年過ぎた頃から、〝継続は力なり〟の言葉が少しずつ本誌にも効いてきたのを感じた。
それからまた20年、町と共に時を紡ぐ編集を毎月誌面化してきた。バックナンバーの頁をめくる度、その時代のことが一つ一つ蘇ってくる。私にとって、これらのバックナンバーは、まさに宝物だと、思うようになった。編集し、出版したものは過去のもので、殆ど読み返したりしなかった。また、自分が書いた浅くつたない文章に出合うことも嫌だった。出版の恐さはそこにある。出版物は半永久に残るからである。
しかし、編集がうまく出来なかった号も含めて、愛着が湧いてきて、バックナンバー総てが宝物のように思い始めたのは最近である。
くれえばんは次号から現在の版型をB5版からB6版に変えることにしました。頁数は同じで、全頁カラーになります。型が小さくなるが、情報量は殆ど変らないように編集を工夫しています。
コンテンツはより〝食〟に比重をおき、人を介した町の歴史、文化を伝え続けたいと思っています。
30年タウン誌を編集してきて、確信したことがあります。それは〝贈り物〟のことです。
私たちは絶えず見知らぬ先人から贈り物を受け取り、自分の活動を通じて、見知らぬ後世の人々のために贈り物を用意しています。
私たちが享受している平和も、豊かな自然環境も、社会的なセキュリティも、医療や教育や司法のような制度も、先人からの贈り物です。
私たちは、それらの社会的な資源をできるだけいい状態で、できるだけ使い勝手のいいものにして、次世代に引き継ぎたいものです。
私たちは共同体の中でこの〝贈り物〟を認識して、暮らしてさえいれば、どんな時代でも生きのびる確率が高いと確信しています。
この〝贈り物〟論は、文筆家の内田樹さん達の自論です。私も全く同じ考えを持っています。次号からのくれえばんは、より地域の共同体の中で、その様々な〝贈り物〟を誌上にあぶり出して、編集していけたらと思っています。
○月○日
次号の巻頭企画は〝カープ優勝を呉の町で祝杯!!〟である。8月12日現在、カープと巨人の差は5.5ゲーム差。8月の初めは10ゲームの差をつけていたのだが、あっという間の追い上げである。ペナントレースは、カープと巨人に絞られたようだ。
それにしてもカープ人気は異常で、地元マツダスタジアムは連日超満員。また、テレビに映る他球場の観客席も半分以上、赤いユニフォームで埋めている。マスコミもファンも、このまま優勝に向かって突っ走っている!?
本誌も新しい型のくれえばんのスタートにふさわしい企画を考えたのである。広島の町の〝カープ優勝〟への盛り上がりに乗り遅れないように呉もカープ応援を表に出したい。
カープ優勝!となれば、呉の町に出て、〝よっしゃーやったぁー、カープ万歳〟と多くのファンと祝杯を上げたい。乾杯のハシゴをしてみたい。
そこで、呉の町の飲食店で〝カープ優勝、みんなでカンパーイ〟のサービスをやるぞ、という店を本誌で掲載したいのである。
〝どうかいの、カープが25年振りに優勝しそうなで〜〟の期間が長ければ長いほど、ファンは幸福な時間を過ごしていることになるのだが、何はともあれ、カープもファンも乞うご期待である。

2016年8月号

2016年07月19日(火)

○月○日
永六輔さんが7月7日に亡くなっていた、というテロップが朝のテレビで流れた。少し前、永さんの超長寿ラジオ番組が終了、と新聞で報じられていたので、病状が悪化したのかな、と心配していたところだった。
永さんは10年位前からパーキンソン病を患い、長い間続いていた旅暮らしが出来なくなっていた。奥さんの昌子さんが亡くなった後でも、お元気な姿で呉に来られていたのだが、今から思うと病のためか、10年少し前から旅も少なくなっていたようだ。
テロップが流れた次の日、〝徹子の部屋〟が永さんの追悼番組を放送した。黒柳さんと永さんは何十年来の親友なので、番組にも年に一回位というように定期的に出演を続けていた。その収録された永さんの40代、50代、60代、70代と時とともに齢を経た姿が流れた。それは感慨深いものだった。そして、私が永さんに最初にお会いしたのは40代の頃、また時を経て呉に定期的に来られたのは60代だったんだと、思い出すのである。
永さんはテレビ草創期から、放送作家なのに自分の番組に出演する〝おもしろい人〟の先駆けだった。また歌の作詞家としても大ヒットを連発、一世を風靡した。とにかく多様なジャンルを超えての作家活動だったから、当時、〝永六輔〟を知らない人はいないという有名人だった。
私が永さんにお会いしたのは小沢昭一主宰の劇団〝芸能座〟の舞台のときである。第一回公演〝清水次郎長伝伝〟と第三回〝純情二重奏〜大笑い計量法・伝伝 〟だった。二本とも永さんの脚本である。〝純情二重奏〟は出演もされていた。私はこの舞台の地方公演に同行していた。同行といっても、私の役目は小沢さんの付き人兼舞台の裏方だった。その当時、永さんは舞台づいており、〝六輔七転八倒〟というバラエティのような舞台を続けていて、芸能座の研究生の私たちもよく駆り出されていた。
その後、私は東京から呉に戻り、くれえばんを始めたのだが、何年かして本誌にエッセイを連載していた内田順子さんが、永さんと交流があり、その縁で呉に来られるようになった。永さんとの縁が私にあったのである。
岩波新書で永さんの著書〝親と子〟、〝夫と妻〟の二冊に呉で講演をした二つの話が掲載されている。その二冊の中で、永さんと私は、こういう縁があったと、少しだけ書かれている。
その当時、永さんから二年に一度位か、不意にハガキが届くのである。〝○月○日、この一日、木戸さんにまかすから、お話をしに呉に行けますよ〟というハガキだ。このときの講演会は8月9日、午前中に長浜の専徳寺、昼から音戸の法専寺、夕方は和庄中学校体育館で開いた。入場料は無料だが、阪神大震災で被災した障害者支援のための〝ゆめ風基金〟の寄付を募るというものだ。永さんは講演を終えると、自ら会場の出口で募金箱を持つのである。くれえばん主催の会は、永さんはすべて無償の仕事だった。
その頃のことでおもしろいエピソードを思い出した。広島に永さんを迎えて行って、呉の講演会場に向かうのだが、昼前だったので、軽く昼食を摂ろうということになった。永さんと二人きりでの食事は初めてである。私はかねてから呉の冷麺を永さんに食べて貰おうと思っていたので、これはいいチャンスと思い、〝呉冷麺という呉独自の平麺で麺もかたくなく、うまいです〟とおすすめした。呉冷麺といえば、珍来軒と呉龍だが、永さんは麺がやわらくなくてはならないので呉龍にした。昼前の店の前には一台のタクシーが停まっているだけで、人の列も出来てはいない。店に入ると、客はタクシーの運転手らしい人ともう一人だけだった。常連らしい運転手は、なんと永さんのベストセラー本〝大往生〟を手にしながら、その話をしていたのである。〝大往生〟で盛り上がっているその場に、作者の永さんが突然現れたのだから、それはびっくりしただろう。そして、永さんも私も冷麺を食べているお客が、永さんの本を読んでいたことにまたびっくりしたのである。こんなびっくりすることがあったのである!?本物の永さんがカウンターに並んで冷麺を食べている姿に店内の人は口をあんぐりとさせていた。私も笑いをこらえながら冷麺をおいしく頂いたのである。
〝伊勢うどんも地方の名物だけど、この呉冷麺は伊勢うどんの衝撃を受けて以来の地方麺である〟とお墨付を頂いたが、永さんは〝大往生〟を読んでいたタクシー運転手の驚きの態度の方が実はおいしかったのかもしれない、と思ったりしたのだ。
小沢さんは常々、「日本の三大旅人」は西行法師、松尾芭蕉、そして永六輔であると断定!?していたが、永さん御本人は、民俗学の師である宮本常一こそ日本一の旅人として尊敬し続けていた。
もう何十年も前、その宮本先生に永さんは〝テレビの仕事をしたいのですが〟と相談したことがあったという。そのとき〝放送は日本中、世界中に電波が飛んでいく。もし、あなたが民俗学をやめて放送の世界へ行くなら、電波が飛んでいってるその現場に、自分の足で行ってほしい。電波が届いているその場所で考えて、そこでしゃべって、その言葉をスタジオに持って帰りなさい。絶対に、スタジオでものを考えるようなことはしてはいけない。それができるなら、放送の世界に行くことをあなたに勧めます〟この言葉は、今でも私の旅というものの考えの原点だといわれていた。
永さんは70歳を過ぎて、より一層人の死に方、自分の死に方を語ることが多くなってきていた。永さんのこのたびの自身の死に方は、自身の言葉どおり〝大往生〟だったとお聞きしている。
永さん、ありがとうございました。そして、おつかれさまでした。

2016年7月号

2016年06月19日(日)

○月○日
毎年夏の時期になると、恒例の終戦企画モノがマスコミで一斉に始まる。
その中で、毎年のようにテレビで繰り返し放映され続けるアニメーション映画がある。野坂昭如作の「火垂るの墓」である。作者自身が遭った神戸空襲のことを描いた物語である。野坂昭如は直木賞作家であり、〝マリリンモンロー・ノーリターン〟などの歌手でもあり、また参議院議員を務めたこともある。とにかく多面的に〝コト〟を起こしていた野坂さんを、マスコミはいつも彼の後を追い続けていた。その野坂さんが13年前に脳梗塞で倒れ、マスコミの表舞台に立たなくなって久しかった。
今回掲載している野坂さんの日記は「新潮」や「新潮45」に連載されていた。私はその日記を読みながら、野坂さんの体調と諦観を想像した。しかし、時代の動きに対しては、警世、憂国のコトバがほとばしるがどこか哀調を帯びたもので、脳梗塞以前より深く静かであった。
13年間の歳月の中で、毎年夏になると戦争のことが記されている。繰り返し繰り返し〝戦争はしてはいけない〟とー。
改めて、野坂さんの日記の文章である。
6月某日
どこで何をしていようと、ぼくにとって忘れない日。
昭和20年のこの日、神戸上空をB29が来襲、午前6時すぎ、轟音が体にねじ込まれる如き圧迫感をともないつつ、そこかしこにうまれた。続いて、カンカンカン、パンパンパン、焼夷弾が落とされた。
気づけばあたりは火の海だった。記憶はとぎれとぎれに残っている。ぼくの家は焼け、父は行方不明。この日を境に、人生が変った。こんな経験は別に珍しくもない。
あの時代を生きた人間なら、それぞれが戦争の実態を知っている。
しかし、後世に戦争がどれほど伝えられたか。考えるほどに心もとない。
野坂さんは〝戦中派〟と呼ばれる昭和ヒトケタ世代である。その昭和ヒトケタ世代である呉出身の黒樹五郎さんが書かれた本が「花野-クレの少年」だ。そこから抜粋した文章を合わせて今号に掲載した。
呉は海軍と工廠と共に歴史を刻んできた町である。だから町の中心部はハイカラな都会と同じ風景の佇まいがあった。「花野」は黒樹少年の終戦の年16才までの自分史が綴られている。戦前のこの時代の暮らしは、残された市民の日記で垣間見ることが出来るが、少年の低い目線を通した巷の風景描写は、本当に貴重なのである。
この「花野」は戦後50年を過ぎて、著者が仕事をリタイアした後に、故郷の呉、自身の少年時代のことを書き残したものだ。次世代に伝えたいと私家本を刊行されたのである。いつも戦争の影がつきまとっていた時代を生き、そして終戦。「経済万能」、景気さえよければすべてよし、という戦後日本の時代を生き抜いた著者の黒樹さんの、忘れ去られる戦争のことを今さらながら伝えておかなければ、という自責の念も感じられるのだ。
戦前の呉の街の様子は、〝戦時中〟というコトバでひと括りにされがちな暗い暮らしのイメージではない。街の子どもたちは、親からのしつけやしきたりを守りながら、それまでと変りないところで街に密着して明るく生きていたのである。
終戦の年、昭和20年の春から夏にかけてのひどい空襲で、呉の町は焼け野原になる。戦前と戦後、街の風景が一変してしまう。著者は16才で東京の学校へ入るところで自分史を終えている。
この黒樹少年が呉を出発するのと同時期に、占領軍が呉に進駐してくる。呉の占領時代は戦後10年近く続くのである。
日本の近代史の歴史を地で歩んだ町が呉市だといわれる由縁である。
戦後世代の私も、占領軍の匂いというか、身近に強い記憶として残っていることがある。
現在の清水一丁目にある国立病院宿舎の台地は、戦後占領軍の宿舎が建てられていた。中心に緑豊かな丸い庭園があり、その周りに二階建の宿舎が並んでいた。昭和30年代になってこの占領軍が撤退して宿舎が空になった時期があった。鉄条網が張られた宿舎に、入り込んで遊んでいたのが、近所のワルガキである。私もその一人だった。
とにかく驚いたのは庭園の植物のことだ。見たこともないサボテンや花が見事に配置されていて、季節ごとに咲く植物が、がらんどうの宿舎の前で匂いを発しながら咲き誇っていた。その風景が忘れられない。占領した地にこんな庭を造り、暮らしのことを大事にする文化を持つ豊かな国と戦争をした日本のことを想ったのだ。〝こりゃあかなわなかったわけだ〟とー。
7月1日は呉空襲の日である。
本誌でも〝とうせんばからのてがみ〟という絵本を昨年掲載した。原作は杉山津矢子さん、絵はよこみちけいこさんである。杉山さんが呉空襲で焼け出されたのは8才の時である。物語は3才から8才までの活気溢れる東泉場の商店街が舞台である。
黒樹さんも杉山さんも、呉の町の歴史の中の一コマを物語として伝えたかったのである。

2016年6月号

2016年05月24日(火)

○月○日
今から30年前、1986年5月発行のくれえ版10号である。くれえ版は私を含めてボランティアで集まり始まった。2ヶ月に一回の発行で、〝10号まで突っ走ってガンバルので、何とか御支援をー〟と呼びかけ、10号までこぎつけた、その号である。休刊記念号と銘打った特別な仕様で、A4版136ページ、価格は580円という、なかばヤケッパチに編集した号だった。
〝1986年ただいま くれ〟と題して、この街を「動詞」(遊ぶ・つくる・みる・流行など)で切り取り編集したのである。
ちょうど30年たった今、読み返すと本当に感慨ものである。30年という時間が過ぎているのだが、地方都市くれはあまり変わっていないことが、感慨ものなのである。
変わっていない、というのは街に漂う気配のことだ。三方を山に囲まれた環境で、こじんまりとした風景の中に生きる私たち住民は、この風景に同化しないしぶとく粘りのある何パーセントかの人たちに引っぱられて歴史を重ねてきたから、と思ったのである。
人口減少と住民の高齢化が進み、閑散とした地元商店街の姿は、いまのくれと変わりはない。30年前とそれほど変わらないのである。マチの平地の風景はキレイになったようだが、その分人間の気配が薄くなった、
30年前のくれえ版、イロイロ教えてくれます。

○月○日
東京の新宿にあるゴールデン街が燃えていた。テレビのニュースに映し出されるゴールデン街を見て、延焼しないで欲しい、と祈ったのである。
東京にいた時、本当によく通い、よく飲んだ。常連だった店は〝ガルシアの首〟、サム・ペパンキー監督の映画名を付けた店だった。確か2代目のママさんのときで、作家の高橋三千綱さんも常連だった。当時のゴールデン街は、ボッタクリバーなど怪しい店と小さなスナックが隣り合わせで立ち並び、独特の気配漂う酔い処だった。
劇団にいた私は、芝居系の強いスナックによく連れて行かれた。スナックも映画系、文学系、マスコミ系と少しずつ色分けされていたのだろう。当時はそこまで考えつく余裕もなかった。ただただ、一握りのお金をつかんで、ゴールデン街を目指したものだ。お金もないのに何軒もハシゴをする、それが出来たのだから不思議である。今思い出そうとしても、細かいことが思い出せない。20代の青春時代、鬱屈とお祭りのときだった。
最後にゴールデン街に行ったのは25年ぐらい前か、確か友川かずきさんと一緒だった。ゴールデン街に繰り込む前に、花屋に寄り、ひと握りの花を、包装せずそのまま掴んで店に向かうカッコイイ友川さんを見て、〝こりゃ負けた〟と痛感したことを思い出した。

○月○日
今からちょうど100年前、大正5年、熊本で数日間に数十回(最大M5.7)の地震があり、その後、昭和6年(最大M6.3)にも群発地震があったことが記されている。それは、呉の郷土史家 北村恒信さんが編集した「広島県の地震」の中の年表である。
今だ終息しない今回の熊本地震。住民は、口を揃えて熊本は地震の薄い地域だと思っていたという。住民は、親と自分が生きた時間の中だけで考えがちだが、地震の時間単位は百年、千年単位で検証しなければならないという。
地震は必ず周期的に起きるといわれている。北村さんの「広島県の地震」は、679年から1979年までに近畿以西で発生した被害地震184件を年表にし、その震源地を地震の規模の大きさとして示しながら地図に落とし込んだ貴重な記録である。
広島・呉地域の地震は、宮崎沖の日向灘、安芸・伊予灘、そして山陰の鳥取・島根に連なる活断層で起きていることが分かるのだ。
今から15年前に起きた芸予地震の後に、本誌で北村さんにインタビューした記事も今号に再録している。
阪神大震災、東日本大震災、そして熊本地震と、立て続けに起きる地震列島に住む私たちは、日本人の心性「あきらめ」を心に留めながら、生きていくしかないのだろうか―。

2016年5月号

2016年05月24日(火)

○月○日
今年の山桜は例年以上に美しかった。休山と灰ヶ峰に咲く山桜のことである。呉は里山に咲く山桜、そして町中に咲く染井吉野と二つの桜が見られる町である。染井吉野の桜の名所は、二河川、二河峡、堺川、寺本公園、串山公園、音戸の瀬戸公園、大空山公園など枚挙にいとまがないほどで、呉は広島県でも屈指の桜の町なのである。
地元に暮らす私たちにとって、桜の咲くときは、一年に一度の自然の贈り物を受けるときである。だから、桜の開花は出来るだけ長くあって欲しいと、天気予報をいつになく気にするときでもある。
今年の桜の見頃は例年どおり、4月3日前後だった。4月3日といえば、“節句”の日。戦前から昭和30年代まで、この日の呉地域は休日だった。主な工場や会社は休みで、呉中が花見に出掛ける日だった。子供たちは春休み中だから、節句の日の次の日も山に登る残り節句を楽しんだ。花見のハシゴである。実に洒落たことをしていたものだ。まあ、今と違って食生活もまずしかったから、花見の重箱弁当はまさにハレの食だった。
当時の節句の思い出は多々ある。私は清水通りに住んでいたので、休山に登るルートは三のとりへ登る道だった。一のとりは頂上に近く、宮原五丁目から登るルートだ。節句の日は、朝から休山に登る花見客のざわめきが家の中にも聞こえてきた。昼頃になると、休山全体からザーッというかゴーッというか、自然の風ではない音が聞こえたことを思い出す。そんないつにない人山の音を聞くと、子供たちは早く山に登りたくてうずうずしていた。しかし、花見の主役は大人たちだから、酒やら重箱の料理やらゴザなどの点検で時間を食っている。うちの親父などは、花見に行く前から酒を飲んでいる風だった。
花見に酒はつきものだが、子供たちの飲み物は“トッピン”である。色のついたニッキ水だ。ひょうたんの形をしたトッピンをチビチビと惜しみながら飲んだものだ。
呉のもう一つの里山、灰ヶ峰には平原水源地という桜の名所があった。とにかく立錐の余地もないほど花見客が集まっていた。四方八方隣りのグループと肩すり寄せての花見だから、酔っぱらいの大声は方々で聞こえ、小さな喧嘩が起こるのも筋書どおりだった。うちの親父も花見になると酒に酔い喧嘩をしていた記憶がある。
平原水源地の桜は見事な眺めだったが、最近は桜が古木になり倒木の危険あり、と市が判断してばっさりと古木桜を伐ってしまった。それで怒ったのは地域住民である。長い間地域の桜として愛でていたのに、私たちに相談もなくいきなり伐るとは何事ぞ、と。しかし、ここは市の土地だから文句を言うな、とお上のお言葉である。
近年、呉では町中での名木桜の伐採が続いている。裁判所、労働基準局、中央公園、そして亀山神社参道などである。
地域の住民は、古木桜は枝振りもよく満開の姿は見事だといい、名木として称える。しかし、行政側は古木は倒木の恐れがあり、事故でも起きたら大変と、邪魔もの扱いである。行政の管理する桜は公共性の最たるものと思うのだが、桜も普通の樹木と同じ、差別してはならないという料簡らしい。
町の魅力の一つは、自然環境がどれほど町と共生しているかである。里山や里海、そして町を流れる川の環境、そして町の歴史を伝える環境がどれほど維持されているか、なのである。
伐ってしまったのだから、それこそ後の祭り、仕方がないなという町は人環境が悪い、やはり魅力がない町なのである。それはおかしいよ、と声を上げる。“公”に対して“私”たちがしっかりと対していなければ、実は“公”もすたるのである。
いま、公共という言葉が都合よく使われてしまっている。それが日本の様々な社会問題の解決を歪めてしまった。目先のことだけ考えて、専門業者にまかせ、効率がいいことを優先するのが、仕事が出来る奴となってしまっている。公務員は、公衆に奉仕するという“公僕”という言葉を忘却したらしい。
桜の木を伐ることから、こんなオーバーな話になってしまったが、言いたいことは、桜は一年ごとに私たちに大きな贈り物をくれているということだ。それを今年、つくづく思ったのである。
奈良の吉野の山桜ではないが、呉の休山、灰ヶ峰の山桜の素晴らしさに気づいたのだ。山容の緑の中にかすみをかけたように、ポツポツと白いところが見える。そして、その白いところがはっきりと緑の中から浮き出るようになる。ああ、山桜が開花したのだなと分かるのだが、まだはっきりとした桜の姿は見えない。それが満開の桜だと分かるとき、山全体の発色が変わり、何というか、いつも見ている山が一瞬別の山に見えてくるのである。
町中から休山と灰ヶ峰の満開の山桜を見た。そして、山に近づき山桜の姿を見ようとした。それから、また山桜の満開の下に立ってみた。山桜は近くに行けば一本一本見れるのだが、山全体の山桜は見えない。山桜の贈り物は山全体を見ることだと思ったのである。しかし、山容の山桜を見るには、見ようとする気持ちがないと見えないのである。見ることが出来る人は限られているらしい!?
来年こそ、休山と灰ヶ峰の山桜の贈り物を是非見て頂きたいと思ったのである。

2016年4月号

2016年03月18日(金)

○月○日
くれえばんの3月号といえば、恒例の卒業高校生特集である。この特集はすでに30年続いている本誌の看板特集の一つである。
地元の高校生は卒業すると、半分ぐらいの生徒は大学や専門学校への進学や就職で呉を後にする。そして、そのまま呉に帰ることなく、就職、結婚と、大都市など外の町で暮らす人も多い。そういう彼らにとっては、高校を卒業することは、同級生たちとの別れはもちろん、故郷呉の町や家族との別れを含む人生最初のターニングポイントのときに違いないのである。
そこでタウン誌の役割としては、故郷を去るかもしれない卒業生の一端として登場してもらい、この年はこんな卒業生が地域で学んでいましたと誌面に残すこと、これも町の歴史の一面だと思うからである。地域の高校すべてを網羅するこういう企画は、日本全国数あるタウン誌の中でも、唯一本誌だけなのだ。驚いたでしょう!?地域の高校の卒業生風景はまさに町の歳時記になっていました。
しかし、近年子の高校生特集にクレームがつくことが少しずつ増えてきていました。誌面に登場する生徒の制服姿についてである。化粧、髪、スカート、靴下など、校則違反している真面目そうでない生徒が誌面を飾ることは、学校側としてはイヤなのである。先生のモノサシに合った生徒ならよろしいということだった。
そんなことが重なって、最近では学校にお伺いを立てて生徒を取材することが多くなっていた。しかし、そうした学校側の推す生徒ばかり登場させていると、誌面が何というか単なる記念写真の羅列のようになってしまい、見るものを引きつけないのである。音楽やファッションに敏感な生徒や教室で笑いをとることに熱心な生徒は、やはり表情が豊かで誌面にも躍動感が生まれるのだ。そんな中から、今まで俳優の国生さゆり、歌手の清水綾子、島谷ひとみ、〝19〟などが誌面の中での出合いがあったのである。
そこで今年は停滞気味の高校生特集の中で、町のファッションコーディネーターに高校生を変身させるという企画を組み入れた。〝卒業高校生〟がモデルの〝ビフォー・アフター〟企画だった。モデルを頼んだのは、各校に取材したときに出合った生徒たちである。写真を見ると皆カワイイ子たちだった。その中でも目を引いて美形に変身していた生徒が広校生だった。濃茶色の髪がよく似合っていた。
ところがである。その広高校からクレームが来た。モデルになった生徒の髪が茶色になり、これは重大な校則違反である。モデルの写真は掲載しないで欲しいというのだ。本誌としては編集も最終で、差し替えは出来なかった。そうすると、広高から企画の題名の〝ビフォー・アフター〟の前に〝一日限りの変身〟というコトバを入れるという提案があった。ナルホド、そういうことでしたらということで〝一日限り〟のコトバを入れて対応した。
私としては、卒業式の3月1日は本誌3月号の発行日として記している(しかし、実際の発売日は22日)し、今までもまだ卒業していないときに卒業生を取材して〝卒業生特集〟としてきた長い歴史があり、学校にも許してもらえると思っていた。
そしてまた、広高から呼び出しの電話が入った。〝モデルになった生徒が学校でひどい教育指導を受けている〟という話を聞いていたので、これは行って話をした方がいいと思い、広高に伺った。
広高に着いて、事務室に入るなりイヤな予感が当たった。何人かの先生が私を睨みつけているのだ。アリャー、である。校長室に入るのに靴を脱いで、と言われる。珍らしい校長室だと思いは行ってみると、これがまた権威感プンプンの空間だった。長い大テーブルの向こう側には、校長、教頭、学年主任、学級担当、生徒指導の先生がずらりと並んで、ポツンと一人の私を事務室同様睨み続けている。おいおい、こんな空気の中で話をするのかと思い、またまた、アレアレである。
〝モデルの生徒は泣きながら今回の件の反省文を書いている。くれえばんは何ということをしでかしてくれたんだ〟
〝3月1日は卒業式だが、卒業しても3月31日までは広高の生徒だ。そんなこともあなたは知らないのか〟
と、校長を始め、一人一人の私への糾弾が一時間も続いたのである。いやはやである。私は30年以上地域でタウン誌をやっているが、こんな吊し上げのような場に出会おうとは思ってもみなかった。
先生たちは見るからに皆私より年下である。だが、学校ではそんな配慮は一切ない。〝あなたは無知だ〟と決めつけるコトバを聞けば聞くほど、学校の先生方との対話は〝時間の無駄〟だと思ったのである。
最後に生徒指導の先生に、あなたのもの言いや態度は気にくわない、と生徒のように言われてしまった。アチャーである。
それにしても今回の件で痛感したのは、私たちが住む地域社会と学校とは、コトバが通じないことが多過ぎるということだ。18歳以上の選挙権引き下げが決まり、卒業高校生はすぐにでも政治意識を持たなくてはならなくなった。高校の先生は生徒達はまだまだ子どもだと決めてつけているが、社会の方は、18歳は住民として主権者として対します、としている。
社会に合わせて学校を変えていく必要が出てきているが、今回の広高の先生方の硬直した貌とコトバを思い起こすと、暗澹とした気持ちだけが残るのである。
いろいろ書いてきたが、とにかく謝らなければならないのは、今回の企画のモデルになった生徒たちにである。本当に御迷惑をおかけしました。申しわけありませんでした。
ということで、〝卒業高校生〟の特集は今回限りで辞めることにしました。

2016年3月号

2016年02月18日(木)

○月○日
青森空港は一面の雪景色。空港から弘前までの道路は両側1メートル位の雪の壁が続いていた。呉から弘前まで電車、新幹線、飛行機、バスと乗り継いで6時間あまり、やはり弘前は遠い。佐藤初女さんの葬儀に出席するために、5年振りに、弘前に来たのである。着いた足で、そのまま初女さんの家へ行き、霊前で焼香をすませる。初女さんは1月31日に病院に入院して、数時間で亡くなられた。乳ガンが肺に転移していたそうだ。10年前に初めてお会いして以来、1・2年に一度はお会いしていたが、少しずつ体が小さくなられるのを感じていた。しかし、初女さんは相変わらずお元気な様子で、初女さんは特別の人だから、100歳を越えても元気だろう、と周りの人たちも私も思い込もうとしていたところがあった。初女さんのガンの闘病は、医療にかかわず薬も飲まなかったそうで、いつもの食生活を続けてきたという。昨年、久し振りにご挨拶に伺おうと思っていたのだが、果たせなかったことが悔やまれる。初女さんと近しくして頂いたのは、やはり絵本の〝初女さんのおむすび〟を出版してからである。講演会のたびに絵本を取り寄せて会場で売って下さった。また、出版記念講演会を呉の森沢ホテルで開催し、翌日おむすび講習会も開いた。初女さんのおむすびは2枚の真四角のノリで包まれている。黒くて丸いおむすびはふんわりとしたご飯の中に梅干しが入り、ガブリとほうばりたいおむすびの形をしている。実際ガブリとやると、ご飯が口の中でほどけ、ご飯一粒一粒の味が立ってくる。同じご飯なのに、にぎるとどうしてこんなにおいしくなるのだろう、と初女さんのおむすびを食べた人は皆同じように思うのである。この〝初女さんのおむすび〟を講談として語らせたらどうだろうと考えて、介護講談で名を上げている田辺鶴瑛さんと共に弘前の森のイスキアを訪ねたことがある。初女さんの作る食事を一緒に頂き、おむすびの作り方をマンツーマンで習った鶴瑛さんは、お返しに即席の介護講談を語った。初女さんと鶴瑛さんを会わせた私は、講談〝初女さんのおむすび〟をすぐ書くはずだったのだが、いまだ書いていないのである。これも約束を果たしていない。亡くなった初女さんが伝え続けた〝食が大事〟ということを、本とは別のジャンル、講談で伝える約束を果たしたいと、いま思っている。

○月○日
母が介護施設に入ったので、空き家になった母の家の整理をしていたときのことである。たくさんの写真が入った手提げ袋を見つけた。中国での父の軍隊時代の写真、母の従軍看護婦の写真などその時代の中で生きた母の姿が写真に写し込まれていた。懐かしい。時がたつということは、良くも悪くも人間の記憶に膜をかけるが、母のいない家での古い写真束との出合いは、一瞬膜が消えてその時代が蘇るのである。そしてまた、写真の束にはさまった一通の手紙を見つけたことで重なった。あれ!?見た字だなと思い、差し出し人を見ると、なんと私である。それは19才になったばかりのときのものだった。私は東京での大学受験に失敗して浪人の身だった。手紙の内容は、要するにお金の無心である。当時の私は浪人なのだが、大学に行く気はなく映画を作る現場に入ろうとしていた。しかし、その業界の人たちは決まって大学を出てからの方がいいよ、と言うのである。自分の思いが弱かったんだろう、大学受験することに逃げこんだ私である。父にはこの手紙のことは言わないで下さい、と書いてある。高校を卒業して半年、まことに中途半端だらけの19才の私である。どうして母はこの手紙を取っておいたのだろう。と思いながら当時の母の写真をさがす。肥った母の写真ばかりである。介護施設にいる今の母はやせて、当時の面影は殆どない。自分が生きてきた過去のことを思い出せなくなってきた母に、小さなアルバムを作ろうとその時思ったのである。戦中、中国での従軍看護婦時代から、戦後結婚して呉れに住み始め、昭和の時代と共に生きた証を写真でつなぐこと。母が生きてきた人生アルバムである。今号は恒例の卒業高校生特集である。私も40数年前、呉宮原高校を卒業して東京に出た。しかし、素直な浪人ではなかった19才の私は、母にはお金の無心をする手紙を書いた。その手紙を偶然発見したことは、なんとも苦いというか複雑な思いが込み上げる出合いだった。青春時代の只中にいる卒業高校生のことを考えながら、いまこの文章を書いている。

2016年2月号

2016年01月20日(水)

○月○日
旧暦では2月から新年賀始まる。今年はサル年だから、そのサルに関した多くの報道が新年早々続いている。その中で、宮崎県串間市の幸島で魚を食べるサルの記事が目に飛び込んできた。知る人ぞ知る、日本の霊長類学発祥の地〝幸島のサル〟のことだ。私は10年前、この幸島のサルに会いに行ったことがある。その時書いた私の文章である。

静かである。樹々の葉が風で揺れる、遠浅の砂浜に薄い波が打ち寄せる音。その砂浜をサルが駆けていく音。ときおり、時間を切りさくようにサルのキッキッという声が小さな湾に響きわたる。ここは宮崎県の幸島、本土から300m離れた小さな無人島である。その島に奥深い砂浜を持つ大泊湾にいる。私の目の前でサルたちが毛づくろい、グルーミングをしている。私から少し離れたところで、三戸サツヱさんがサルに囲まれるように座り、陽なたぼっこをしている。幸島の大泊湾は、何か時間の流れが止まったような不思議な感覚に包まれていた。野生のサルたちが自然のままで私と同じ風景の中にいる。この感覚をどう表現していいのだろう。船から降りて、島の土を踏み、すぐサルたちの姿がどんどん増えてくるのを目の当たりにした。私は〝百番目のサル〟の舞台になった砂浜にいることを、ただただ感激した。と同時に、私のサルたちへの意識過剰を見抜かれないようにと、少し構えた自分があった。しかし、そんな私の杞憂など吹きとばす風景画目の前に繰り広げられていたのである。三戸さんが撮影しやすいように、サルに豆をまいてくれた。その豆を拾い中の実を器用に食べるサルたち。海の中にもどんどん入って豆を拾って食べる。私はそんなサルたちをカメラで追う。そしてシャッターを切る。幸島のサルたちは、私が今まで見たことのない貌をしていた。おっとりとしておだやかな表情なのだ。ニホンザルってこんな愛らしい貌してるんだ、と思いながらファインダーをのぞいた。幸島に京都大学の霊長類研究グループがやってきたのは1948年。〝日本学士院エジンバラ公爵賞〟を受賞した河合雅雄さんもその一人だった。それから3年の歳月が流れ、世界で初めてサルの餌付けに成功する。研究者達は、幸島のサル一匹一匹に名前をつけた。サルの群れのボスにはカミナリと名付けた。カミナリは群れの中で、喧嘩が起きると、陽なたぼっこをしていても、飛んでいって的確に悪い方を叱りつけて仲裁する。ぼんやりとしているように見える時でも、いつも群れ全体に気を配っている。威張るだけではない、群れを守る責任感、統率力、正しい判断力を持ち、群れの仲間から深い信頼を受けるボスがカミナリだった。そのカミナリを中心に群れを作っている幸島のサルにも、いろいろな物語が生まれていた。中でも研究者達が目を疑う行為をするサルが現れたのである。1歳半のメスザルが餌付けの芋を川で洗って食べていたのである。そして、群れの中で芋を水洗いして食べるサルが徐々に増えていく。ある日、川の水が涸れたことがあった。しかし、そのメスザルは芋を海水で洗い食べ出した。海水の塩分でより芋が旨く感じたのか、その後海水で芋を洗って食べるサルがまた増えていった。そして、サルの群れの4分の3が芋を水洗いして食べるようになった。それから、しばらくして幸島から300kmも離れた大分県の高崎山のサルたちが。餌付けの芋を水洗いして食べはじめたのである!誰も芋の水洗いを教えたわけでもないのに、そういう行動の現象が同じ種のサルに共鳴するように、日本各地のサルたちに伝わったのである。イモ洗いするサルを見つけたのは、三戸サツヱさんである。昭和28年の夏のことだった。そのサルは〝イモ先生〟と名付けられ、京大研究者の学会発表で世界中に知られた。一匹のサルが水洗いをして食べる新しい行動を取りはじめると、それを真似るサルが出てくる。そして、その行動が群れの一定の比率以上に広まり、ある臨界点に達すると、遠く離れた地の場所のサルたちに伝播していった。〝あることを真実だと思う人の数が一定数に達すると、それは万人にとって真実となる〟ニューサイエンスの第一人者ライアル・ワトソンが〝百匹目の猿現象〟のことをこう言い表した。〝人間はなぜ戦争のように悪に走るのか、人間を知るために、その母体であるサルに行きついた〟元京都大学霊長類研究所の河合雅雄教授のコトバである。日本一、いや世界一あだやかな幸島のサルに会いに行ってみよう、と思ったのである。

2016年1月号

2016年01月20日(水)

○月○日
サンフレッチェ広島がJ1優勝を決めた。2年振り、3度目の栄冠である。それにしてもチャンピオンシップの準決勝と決勝2戦は見る者に感動を与える素晴らしい試合だった。決勝第2戦の広島地区のテレビ視聴率は、優勝瞬間時41.7%だったという。スゴイ数字である。〝広島の皆さん、優勝おめでとうございます!〟。森保監督の絶叫がスタジアムに響いたシーンに、また感動させられたのである。〝おめでとう〟と言いたいのはテレビを見ている私たちから、サンフレッチェを率いた代表の森保監督にである。それを逆に広島県民に先手を打った森保監督の思いには中々のものがあったのである。そもそも、サンフレッチェ広島は地方の一クラブであり、乏しい資金でのやりくりの歴史が続いている。そんな中で、毎年のように主力の退団も続いた。なにか、広島カープを見ているようなのである。クラブチームが安定した成績を残すには、安定した観客収入とスポンサーが不可欠である。一番の問題だったのは広島市郊外にあるスタジアムのことだった。エディオンスタジアムは元々アジア大会のメインスタジアムとして造られたもので、サッカー専用のスタジアムではない。だから、選手のパフォーマンスで観客と一体になる臨場感がどうやっても薄いものだった。また、完成して23年のスタジアムは老朽化も進んでいる。サッカー専用のスタジアムが広島に必要だったのである。私は、広島市の真ん中にあった市民球場が壊されたとき、すぐに思ったことはサッカー専用スタジアムを造ればいいということ。町の中を歩いて行けるスタジアムこそ最高の立地であり、中心商店街への波及効果も大きいことである、そして何より大事なのは、地元意識の求心力の高まりだ。〝広島にはカープがあるからいいじゃないか〟と言う人がいる。広島財政界のお年寄りに特に多いから、問題なのである。サッカーと野球というスポーツのことを考えてみるべきである。日本ではプロ野球や高校野球が人気だということは承知のこと。また、サッカーもJ1、高校サッカーと人気である。観客動員でいうと、野球がサッカーより多い。これは試合数が多いことによるが、選手の年俸を比べると野球が断然高く、日本でのスポーツ界の王者は今のところ野球ということになるだろう。しかし、世界のスポーツ界となれば、ダントツ、サッカーなのである。〝オリンピック〟より〝ワールドカップ〟の方がスポンサーでも観客拿も段違いの人気である。そのサッカー、Jリーグ優勝を4年間で3度果たしたサンフレッチェは、地方都市広島の宝であり誇りである。〝サッカーの力〟を地方都市広島に見せつけるためには、市民球場跡地に専用スタジアムを造ること。これこそ、広島経済にも県民の心にも潤いを与えることになるのである。もし、カープの黒田投手のような、物語のあるスター選手がサンフレッチェにいれば、観客動員も黙っていても増えることだろう。そのチャンスを作る第一歩、新スタジアム建設の決定は今しかないようである。本誌創刊時の30年前、札幌、仙台、広島、福岡の4都市の活性化が地方の自立を占うといわれ、記事にしたことがある。そして現在、4都市のうち一番弱いといわれていた福岡がダントツ活性化して上位、上位だった広島は下位に落ちたまま―。行政、財界、市民の選んだ道が先を読めなかったことには間違いない。何しろことの決定にスピードがない。この様々なことのスピードの遅れが都市間競争に負けるべくして負けてしまっている。多様な町を目ざさせない広島市の脱皮は、スタジアム建設にかかっている。

スタジアムではないが、いま呉市で一番目立つ建物は呉市役所の新庁舎である。新庁舎である。新庁舎建設まで、スッタモンダがあったが、あっという間に立派な建物が出来上がった。まだ外観しか分からないが、本当に立派なデザインの新庁舎だ。呉の中心地では、どこからも新庁舎の姿が見える。呉市のランドマークの建物になっている。「地方消滅」といわれる中で、「地方創生」と行政は意気込む。その空気の中でのハコモノ呉市新庁舎が完成した。同じハコモノの広島のサッカー専用スタジアム建設問題、どう解くのか私たち市民にかかっている。

2015年12月号

2015年11月18日(水)

○月○日
忘年会の季節である。
夕暮れの呉の町に多くの人出が見えると、いつの頃からか安心するような、ほっとする気持ちがわいてくる。
かれこれ30年以上、呉の中心街を見続けていると、ふと目の前の風景の中の人影の薄さに気づかされる。年々少なく感じる人出は、地方の多くの町の宿命といわれるが、町に暮らすに身にとっては寂しい思いがするのである。
それでも、忘年会の季節の12月と年度末の3月、週末ごとに多くの人出が中心街を包み込む。その賑わいを見るのは楽しいことだ。
当たり前のことだが、タウン誌の経営は町の経済がうまく回っていかなければ成り立たない。ということは、町に人出を作り出すことがタウン誌の役割なのだが、これが中々たやすいことではなくなってきている。
理由は、インターネットの普及でメディアが多様化して、日本の社会が情報過多に陥ってしまったからである。
例えば、ネットに出ている呉地域のグルメ情報を見てその店に行く。行く人の多くは、情報にあったメニューを画一的に注文する。いいとこ取りだけしたいのである。結果、その店の表面をなでただけの店訪問に終わってしまう。そして、皆一様に携帯電話で撮った画像が、自分のツイッターやブログに同じように出現する。また、彼らの流した情報がその店の採点としてカウントされる。それがまた多数の口コミ情報となりネットに定着することになる。
先日、国内最大のグルメサイト「食べログ」で、ランキングの不正操作があったことが明らかになった。それは、特定の飲食店に対して好意的な口コミを投稿して報酬を得る人達がいたというのだ。
これに対して〝消費者の信頼を裏切る行為だ〟と批判が上がったが、こうした問題はインターネットの構造上、常に起こりうるはずなのである。
しかし、その前に口コミサイトの評価をする人のことである。
〝料理について細かい論評を述べたい人達〟と〝携帯で料理の写真を撮ることをためらわない人達〟が下した判断にすぎない、ということを私達は承知していないといけない。
そこでタウン誌の出番!?といきたいところだが、残念ながらタウン誌はスポンサー頼りの経営であるからして、キレイごとでは済まされない事態があるのである。そんな中で、これだけは間違いないという店情報が、店主の存在、魅力を伝えることである。その店主の貌、声、話す言葉、動作、そして作り出すものに接することで、上辺だけではない本物を知るのである。店の魅力はすなわち店主に尽きること、これだけは間違いない。

今、都会ではスナックが元気だそうである。個人が経営する〝小さなスナック〟である。〝スナック〟という語感は私の20代、青春時代をもろに表しているのだが、今だに東京はスナック全盛だという。〝小さなスナック〟という唄もあったなぁ—。東京は青春時代がまだ続いているのか!?
‘70年代の東京、私もその現場にいた。それはそれはどこの社会も活気に満ち溢れていた。政治、経済、文化、あらゆる分野で体制派と反体制派が拮抗して主流を競い合った時代だ。地方出身者の若者が一人前になるための日々の戦いの中で、安らぎの場がスナックだった。
今でも思い出すのは、新宿ゴールデン街、渋谷道玄坂上のスナックだ。ボトルを入れていたので、安く飲めたのだ。食べ物メニューも多かったから居酒屋遣いもしていたのだろう。お金が許せば毎日でも通いたいぐらいだった。
それ等の店は、いつもカウンターには客がいて、店主と常連が店を仕切っていた。貧乏若者の私としては、パッとした金遣いをしたいのだが、出来ないのが現実だった。それでもスナックの常連扱いの客になれたのは、何だったんだろう。カタギの仕事ではない劇団という世界に身を置く、夢みる若者に愛の手を差しのべてくれたのかもしれない。
好きな食事は出来なかったが、行きつけのスナックに行けば酒にありつけた。そして、本当によく奢ってもらった。青春時代はまさに奢られ人生だった。そんなスナックで同じときを過ごした人達のことを、いま思い出すのである。

そこで、呉のスナックのことだ。呉でいう〝スタンド〟とスナックはどう違うの?とよく言われるが、全国的には呉のスタンドもスナックの中に入る。スタンドはスナックよりカウンターの中の女性の色気度が少々高い。故にセット料金がそれに比例して高い設定になる。毎日でも通いたいという客は、やはりスナックを目指す。食べ物メニューが充実して、チャージ代も安い。カラオケも唄えるオープンな雰囲気のスナックである。店主は女性でも男性でもいい、ただ演出家の店主であって欲しいのである。そんなスナックが呉の町に増えてきている、とスナックびいきな常連は口を揃える。
今号は恒例の忘年会特集を組んだ。忘年会は年に数少ないハレの会だ。日頃の鬱さ、たとえば〝わしはビールが飲みたい、発泡酒ではないビール、生ビールが飲みたいのだ〟という鬱さを晴らすのが忘年会である(笑)。そして、忘年会の2次会にはスナック(スタンド)に行きましょう。行きつけの店がない人は、そういう店を見つけましょう。
忘年会をやる。そのあなたの町づかいが呉の経済、文化を回すのです。
よろしく―。